ホーム > ブログ >  旅行記等  >  トルコ旅行

トルコ旅行

トルコの産物

イスタンブール 街角の果物ジュース屋 1001 .jpg

トルコの産物としては、エーゲ海沿いの地でとれるオリーブ、地中海沿いのオレンジ、

小麦、ざくろ、塩湖からの塩、アナトリア西部の絹、羊・子羊の毛皮などがある。

オリーブは、採った翌日油を絞ると大幅に品質が落ちるので、午前中採ったものを

午後その日のうちに絞るそうです。

エーゲ海、地中海沿いの地日本の瀬戸内海に似ており、似たような魚がとれる。

日本のアジ、サバ、カレーなども魚屋で見ました。

イカやタコもありました。

岩山が多くて、大理石が沢山とれるそうです。

そのせいか、エフェスの古代遺跡では歩道が大理石でできていました。

そうそう宝石のトルコ石もとれます。

イランなどでもトルコ石がとれるそうですが、トルコ以外でとれるものは、トルコ産より

値段が下がるといっていました。

トルコ銀座の横町の肉屋で、羊の頭の皮をはいだ、目玉付きが売り場のガラスケース

の中に置かれていました。 ぎょっとしました。

魚だったらなんとも思わないのに。

食文化の違いなのでしょうか?

トルコ 現代のギリシャとの関係 2/2

トルコ&ギリシャ地図 5.18.jpg

上の地図はトルコ&ギリシャの地図で、左(西部)がギリシャ、右(東部)がトルコで、

その間の黒い点線が国境線。

ご覧ととおり、トルコの沿岸近くまでギリシャ領になっている。

レスボス島、キオス島、サモス島、コス島、ロードス島・・・などのトルコに近い島は

ギリシャ領だ。

お断りしておきますが、私はどちらの味方でもありません。

なんでこんなところに興味を持ったかと言うと、トロイやエフェスの遺跡を見ていて

彫像、石の建造物は私の知っているギリシャのものだったからだ。

不勉強を晒しておはずかしいが。

日本へ帰ってきて本を読むと、紀元前7世紀~5世紀のころ、人口が増えたのと、

耕地が狭くて収穫が少ないため、現在のトルコやイタリア南部、シシリー島等々に

ギリシャの都市国家(ポリス)が植民市を沢山作ったからだと知りました。

( ギリシャの面積の80%は岩山で、耕地は20%。 この20%の耕地では、オリーブ

  やブドーくらいしか採れず、穀物が不足していたそうです。 )

トロイもエフェスもギリシャ人が作った遺跡だったんです。

納得しました。

トルコ 現代のギリシャとの関係 1/2

エフェス 市役所の跡 .jpg

ギリシャはオスマントルコの時代には、オスマントルコの領土であった。

しかし、オスマントルコがドイツ、オーストリアとともに、第一次世界大戦に参戦、降伏した

後、1919年ギリシャ軍はトルコに侵入した。

トルコのケマル・パシャは、1922年ギリシャ軍を撃退するとともに、トルコ革命を行ない

スルタン制度を廃止した。

ギリシャとトルコは、南北キプロスの分断問題、エーゲ海島しょ部の領有権問題を抱え、

1960年代以降対立が続き、お互いに相手方を仮想敵国の筆頭にしていた。

近年は天然ガス・パイプラインを相互接続するなど関係改善していた。

2010年5月15日付け日本経済新聞によれば、5月14日トルコのエルドアン首相が6年

ぶりにギリシャを訪問、パパンドレウ首相と会談した、とのこと。

トルコ 現地ガイドさんのバルチック艦隊についての説明

イスタンブール ボスフォラス海峡を行く船 1001 .jpg

上の写真はボスフォラス海峡。

トルコ旅行の現地ガイドさんが黒海の説明をする時に、バルチック艦隊が黒海から出 発

したと説明した。

そこで、私は黒海ではなく、北欧のバルト海から出発したのが事実だと指摘したら、後で

調べます、との返事だった。

後日日本からの添乗員さんに会う機会があったので、三笠記念館のホームページのコピー

(バルチック艦隊の航路図)を渡して、例の現地ガイドさんに会ったらこの図を見せて説明

してもらいたい旨お願いしておいた。

事実は、バルチック艦隊は、北欧のバルト海から出発、デンマーク、オランダ、フランス、

スペイン、アフリカ大陸の西岸、喜望峰、マダガスカル、インド洋、ベトナム、台湾、のそれ

ぞれの沖を通って、対馬海峡に向かった。

一部支隊は地中海、スエズ運河を通って、本体とマダガスカルのノシベで本体と合流した。

これらとは別に第三艦隊もバルト海から発進した。

第三艦隊は、地中海、スエズ、インド洋を通って、ベトナムのカムラン湾でバルチック艦隊に

合流した。

司馬遼太郎の「 坂の上の雲 」にもくわしい。

トルコ トイレ 2/2

グランド テミゼル ホテル の石造.jpg

男性、小用の便器の受けの部分が我々日本人にとっては高すぎる。

私の身長は1702センチで、やっととどいた。

身長が150センチとか、160センチ位の人たちはどうしたのであろう?

トルコ人の祖先は中央アジアの遊牧民だときいている。

東洋人のサイズにしてはやはり高すぎるのではないだろうか?

トルコの人はお客の立場に立って、こうすればお客が便利だとか、こうするとお客が

こまるとか、考えてみないのか。

自己中心的な民族なのであろうか?

トルコの観光業発展のためにも、お客の立場にたって見直してはどうだろう?

トルコ トイレ 1/2

イスタンブール 街角の果物ジュース屋 1002 .jpg

トルコ旅行では9日間で約3000Km走って、1日に2~3回はトイレ休憩でガソリン・スタンド

に立ち寄った。

これらのトイレは基本的に有料で、なかには無料のものもあった。

有料と言っても1トルコ・リラ(約70円)であった。

トイレのほとんどがウェスタン・スタイルでよいのだが、説明書きがなかったり、あっても英語

でもなく、まして日本語でもない、多分トルコ語なのだろう。

読めないので、押したり引っぱたり、思いつくことをしても、ウンともスンとも言わないので

諦めたこともあった。

自分が使用したのとは別のトイレ2~3のぞいってみたら、使用後流してないものもあった。

せめて英語で書くなどの配慮がほしい。

トルコ ホテルのバス ( お風呂 ) シャワー

エフェス 石像 勝利の女神 .jpg

トルコ旅行では、ホテルに6回宿泊した。

このうち2つのホテルで、シャワーにホースがついていなかった。

シャワーのノズルが固定されていた。

アメリのデンバーのホテルにも同じようにシャワーにホースがついていないものがあった。

シャワーのノズルが固定されていて、ノズルに体を持って行くか、それともノズルにホース

がついていて、ホースのノズルをシャワーをあてたい体の方に持って行くか、どちらが

便利か考えたらわかりそうなものだ。

お客、使う人の立場に立って考えれば自明だと思うがいかが?

ホースがついていないシャワーでお尻を洗う時は逆立ちするのか、それともお尻は

洗わないのか?

トルコ トロイの木馬

トロイの木馬1001.jpg

トロイ戦争の際に、ギリシャ軍がトロイの城壁の前に50人の軍勢を潜ませた木馬を

置いて引き揚げた。

トロイ軍はこの木馬を場内に引き入れて放置したという。

夜陰にまぎれて木馬の中の軍勢が城門を開け、攻め込んでトロイは陥落した。

この話おかしい。

戦争の敵が置いて行ったものを中身を調べもしないで、自軍の場内に引き入れた。

そんなことってあるだろうか?

当時は戦争に負けると、兵隊男はは処刑され、住民も皆奴隷になる運命にあった。

この伝説、話としてお粗末過ぎはしないだろうか?

トロイ古代遺跡1001.jpg

トルコ トロイ戦争

トロイ古代遺跡1005.jpg

トロイ古代遺跡は、トルコ、アナトリアの西部、ダーダネルス海峡に近い、エーゲ海に面した

ところにある。

トロイ古代遺跡は、現在は海からかなり遠いところにあるが、往時は海から近く、風待ちの

港で、税を取って栄えていたそうだ。

上の写真はトロイ遺跡の劇場の跡で、誰かに劇場の収容人数X10から当時の人口は

6000人前後と聞いた。

エフェスの古代遺跡と比べると、トロイは規模はかなり小さい。

エフェスの当時の人口は約25万人と推定されている。

トロイ戦争は紀元前1250年頃のことだったと考えられている。

トロイ戦争は、トロイの王子パリスが、ギリシャ・スパルタの王妃ヘレネを誘拐したのに対

して、スパルタ王が王妃ヘレネ奪還のため、ギリシャ連合軍で攻めたという戦争だ。

スパルタは、1000隻の軍艦、約10万の軍勢でトロイを攻めたが、トロイ陥落までに10年を

要したと言われている。

トロイも近くの国と連合して戦ったそうだが、それにしてもたとえトロイ2万としても、1:5

で、どうして10年もかかったのだろうか?

そもそもトロイ戦争の原因を、スパルタの王妃ヘレネの誘拐という話が多いが、たかが

王妃1人のために10年も戦争するものだろうか?

わたしは、他にもっと大きな原因があったように思えてならない。

トロイ古代遺跡1007.jpg

トルコ トロイアとアレクサンダー大王

トロイ古代遺跡1006.jpg

上の写真はトロイ古代遺跡。

アレクサンダーは、紀元前356年7月20日前後にフィリッポス時代のマケドニアの

首都ペラ (現在のギリシャ北部のテッサロニキから車で1時間足らずの場所)の

王宮で生まれた。

アレクサンダーは、父フィリッポスの部下やプロの兵士、猟師、馬の調教師などに

囲まれて育った。

父フィリッポスは紀元前343年にはプラトンの弟子だったアリストテレスをアレクサ

ンダーのために家庭教師として招いた。

フィリッポスは紀元前336年かって愛人関係にあった護衛兵に暗殺され、王位を

継承する。

( ギリシャ上流階級の男には両性愛者が多かったという )

父の死の2年後=紀元前334年にアレクサンダーは、騎兵6000人、歩兵4万

3000人を率いて、ヘレスポントス海峡( 現在のダーダネルス海峡 )を越えて

小アジアに渡った。

ヘレスポントス海峡を渡ると、アレクサンダーは子供のころからのあこがれの地

トロイへ向かった。

彼はアリストテレスが注釈をつけた『イリアス』を戦術の手引書と考え、遠征に

際しては短剣とともに枕に下に入れていた。

アレクサンダーとペルシャ軍との最初の会戦は、紀元前334年5月トロイ北東の

グラニコス川( 現在のコジャバシュ川 )で起きた。

マケドニアの重装歩兵隊は通常の槍よりも3メートルも長い槍を持ち、アレクサ

ンダーの優れた戦術と指導力で、ペルシャ軍を攻撃、ペルシャ軍はアナトリアの

内陸へ逃げ帰った。

参考 : 古代ギリシャ、フェニキア ( ナショナル ジオグラッフィク )

ブログのカテゴリ

2011年12月

        1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30 31

最近のブログ記事

月別 アーカイブ

最近追加したコンテンツ