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2009年7月 9日

江戸風鈴(えどふうりん)

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 「 売り声もなくて買い手の数あるは 音にしられる風鈴の徳 」

江戸の末に、こんな狂歌があったと教えてくれたのは、藍暖簾が清々しい篠原風鈴本舗

の篠原儀冶さん。

御年84歳、現役の風鈴職人だ。 数年前に病で倒れ、以来「最前線あら第一線になりました」

と笑うが、儀冶さんは多くに人が認める、ミスター江戸風鈴だ。

ガラス風鈴の存亡の危機を、知恵と努力で乗り切り、国内のみならず海外にもその存在を

広めた功労者なのである。

さて、先の狂歌だが、この歌から気付かされることがある。

江戸時代、さまざまな物売りが天秤棒を担いで商品を売り歩いた。

多くの物売りは、売り声で客を呼んだが、風鈴売りは、涼やかな風鈴の音がなによりの宣伝、

終始売り声を上げることはなかったという。

では、なぜ”徳”名のか。

「 風鈴はお寺の屋根の四隅にかかっている風鐸(ふうたく)が始まりで、鳴り音が厄除けだった

そうです。 それで、風鈴の音にも魔除けの力があると信じられていたんです。 」

だから、江戸時代は魔除けの色である赤で塗られたものが主流だった。

やがて、ガラスの涼感と音が好まれ夏の風物となったのだ。

( 中 掠)

風鈴の徳は、江戸も今も、霊験あらたかに違いない。

出典 : ひととき (株式会社ウェッジ 発行) 2009年7月号から。

2009年7月 6日

御殿場線 = 箱根の北を大きく遠回りした往時の東海道線

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御殿場線は東海道本線の国府津駅駅(こうづ)を起点とし、松田や山北、御殿場、裾野

などの各駅を経て東海道本線の沼津駅へと至る。

国府津駅を出発した列車は、御殿場駅までは山道をひたすら登り、その後は沼津駅

まで下って行く。

( 中 略 )

明治22年(1889年)2月1日に東海道本線が国府津駅から静岡駅まで開通したとき、

国府津駅と沼津駅との間は現在の御殿場線を通っていた。

この区間には箱根の山々がそびえ立つ。 いまのように長いトンネルを掘る技術を持た

なかった当時は箱根の北を大きく遠回りするルートが選ばれたのである。

とはいえ、ほぼ全線が山道となり、客車や貨車を引くために蒸気機関車を2両用意しな

ければならなかった。 特に山北駅から沼津駅までの勾配はきつく、両駅では列車の

中間や最後尾に蒸気機関車をさらに1両連結して東海道本線最大の難所を越えていた

のである。

開通当初は単線で建設された東海道本線も列車の本数が増えるとさばききれなくなり、

もう一本の線路が増設された。

国府津駅と沼津駅との間の複線化は地形の厳しさから大いに難航したが、それでも明治

34年6月11日には完成する。 最盛期には1日に130本もの列車がこの区間を行き交い、

昼夜を問わず、蒸気機関車の汽笛が鳴り響いたという。

昭和9年(1934年)12月1日、世紀の難工事と言われた丹那トンネルがついに完成し、

東海道本線は熱海回りに改められる。 この日から御殿場回りの東海道本線は御殿場線と

名を変え、列車の本数も1日26本へと大幅に減らされた。

それでも複線のまま営業を続けたが、やがて戦争になり、資材が不足するようになると、

御殿場線のレールを山陽本線の複線化のために転用することが考えられる。

こうして御殿場線は昭和19年には単線となり、列車の通らない鉄橋は橋脚を残して撤去

され、トンネルは放置されることになった。

出典 : ひととき 2009年JULY から。

2009年6月25日

イヌはネコの一種?

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脊索動物門 哺乳類 ネコ目 イヌ科 イヌ属 というのが分類学上での正式な所番地

である。 ネコ目イヌ科とは知らなかった。 イヌはネコの一種だったのだ。

それはともかく、犬は人間の最古にして最良の友人である。

イスラエルで発掘された一万二千年前の人の遺体は子犬を抱きしめていた。

日本でも縄文時代から人と暮らしていた。

いまは五世帯に一世帯が犬を飼う。 我が国の犬の総数は八百万頭に及ぶとか。

犬猫なくしては現代人は慰めもやすらぎも満たされぬ。

日本書紀巻六に犬の話がある。 丹波国の住人の飼い犬が山のムジナを食い殺した。

ムジナの腹の中から勾玉(まがたま)が出てきたので献上したと。 この犬は名を「足往」

(あゆき)とある。 当時すでに飼い犬に名前をつけていたことが注意を引く。 日本最古

の犬名だが、アユキならいまでもどこかにそういう名前の犬がいてもおかしくない。

人名はどんどん変わるが犬の名は存外変わらないのかも。

しかし、犬畜生、犬侍、犬死など犬のつく語には悪い意味のものが多い。

犬が悪の代名詞になっている。 でも、これもまた親しさのあらわれに違いない。

人間とほとんど同じ類に思っていたが、よくよく見れば別だった、という苦い覚醒がこもって

いるのである。

出典 : 日本経済新聞 2009年6月14日号 うたの動物記

      「 犬 」 胸を打つ切々たる挽歌  歌人・小池 光 氏 執筆。 

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犬侍、犬死 など犬にとっては迷惑な話。

子供のころシルバー・シェパードと一緒に寝て、ごはんの時は箸で食べ物をあげていた私

にとっては犬は、家族、兄弟のような存在。

それに、人間は嘘をついたり、裏切るが、犬は決して裏切りません。

2009年6月17日

梅雨と紫陽花(あじさい)

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紫陽花は梅雨時の花。 

雨にぬれた花弁もまた風情がある。

それに花の色が変わってゆくので、面白い。

私が住んでいる相模原には「市立相模原北公園」があり、園内には紫陽花は200種、

10,000株も植えられている。

それぞれの株に名称をかいた札が付いている。 

私は名前には興味がないから、気に入った花の色、柄、花弁の形をさがすので忙しい。

2時間くらいかけて気に入る花を探すが、なかなか気に入る花はないものだ。

花はそれぞれ美しい。

でも、200種あっても、気に入るのは2~3種類。

相模原北公園には、早春には梅の花、5月のバラ、6月の紫陽花などがあり、楽しませ

てくれる。

2009年6月 6日

京都の祭りといえば「 葵 祭 」( あおいまつり ) (2)

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そして、勅使(天皇の使いの者)が御祭文(ごさいもん)を奏上し、御幣物(ごへいもつ)を

捧げるのが十五日の本祭である。

この本祭に、勅使をはじめ、検非違使、内蔵使い(くらづかい)、山城使、牛車、風流傘、

斎王代など総勢五百余名が、平安絵巻そのままの雅びで華やかな衣裳・装束を纏い、

京都御所から下鴨神社、さらに上賀茂神社へと約八キロの道のりを行列するのである。

勅使と斎王代は、いわばミスター葵祭、ミス葵祭。

かの昔、平安の宮廷女房たちが、源氏物語の「車争い」そのままに、場所取り争いを

演じてまで見物したかった理由は、そこにあるのだろう。

さて、今年の斎王代は裏千家のご令嬢・千万紀子さんが、華やかに勤められる。

2009年6月 5日

京都の祭りといえば「 葵 祭 」( あおいまつり ) (1)

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京都の数ある祭りの中で、加茂社の例大祭「 葵祭 (賀茂祭) 」は昔はただ” 祭り ”

と言った。

一般的な人気は” 祇園祭 ”に譲るとしても、清少納言が「 枕草子 」で「 四月 (

うづき )、祭りのころ、いとおかし 」と記したように、” 祭り ”と言えば葵祭のことであった。

祭りの起源は、6世紀半ば。 国内が風雨激しく五穀が実らぬのは、賀茂大神の祟り

によるとの占いが出たことから、四月吉日、馬には鈴をかけ、人は胃の猪頭(いのがしら)

をかぶって駆け競べをし、盛大に祭礼を行なったところ、五穀豊穣豊年となったというのが

始まりとされ、平安時代に勅命により行なわれる祭祀・勅祭となった。

この葵祭、本祭は五月十五日だが、五月三日、下鴨神社の流鏑馬(やぶさめ)神事に

始まり、四日には十二単衣に身を包む斎王代(神に奉仕する皇族出身の巫女・斎王の

代理)が身を清める御禊(みそぎ)神事、十二日には下鴨神社、上賀茂神社に神霊を迎

える御蔭(みかげ)祭、御阿礼(みあれ)神事など、いくつもの神事・祭りが続く。

出典 : 日本経済新聞 2009年5月11日 「あすへの話題」

               京都銀行頭取 柏 原 康 夫 氏 執筆  から。

2009年5月30日

奈良の仏様と京都の仏様

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8世紀末、山城にあたらしい首都を建設した政府は、都市計画の中にはわずか2つの寺、

東寺と西寺しか置かなかった。

しかもこれらは多分に官寺としての機能を役目とするもので、思想の中心が比叡山や

高野山にあったことはよく知られている。

そこで寺院は権力や世俗にまぎれることなく自立し、人びとは純粋に宗教を求めて心の

対話を深めることができた。

その結果、仏像は民衆の心との相似形の中で発達して行くことになる。

ここで前世紀の奈良の仏像と当時の京都の仏像を並べて思い出してほしい。

すると奈良の名だたる仏像は、それぞれりっぱで堂々としていて、均整美にあふれていて

尊厳である。 光背も装飾性にみちていて華麗である。

ところが京都の仏たちには、これらのどの1つも当てはまらない。

もっと実質的で威圧感はない。

しかし、この像こそがじつは本当に民衆が手に入れた仏の姿だった。

親しみぶかくて穏和で、ゆったりとした安定感があって、何事も受け入れてくれそうな気がする。

( 中略 )

この「 穏和 」こそが古代日本人が至上の価値をおいた美であった。

美術家たちは当時の定朝( じょうちょう。 ?~1057 )一派を代表的な仏師集団と考え、

定朝様式ということばで、この時代に達成された仏像彫刻を呼ぶ。

定朝様式の特色は気品にあふれ優雅で、抑制された調和美だと言われる。

そしてこれが、いまだに中国ふうな造像の中にあった奈良の古仏から、日本的に自立した

美だと考える。

出典 : WEDGE 2009年6月号 中西 進 氏 の 「 根幹を築いた情の文化 」

2009年5月18日

イスラム教はなぜ豚肉を禁じじるのか? ②

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ウシやヤギはミルクをはじめとする乳製品を、ニワトリは卵をといったように、肉だけに

とどまらず、さまざまな副産物を提供してくれる家畜だが、ブタは労役にもならなければ

毛も繊維には向かない。 という意見もある。

また、以下のように食衛生、生態環境の両面からの考え方もある。

第一に、中東のような暑くて乾燥した地域では、豚肉は腐敗しやすく、これを食べると

食中毒にかかりやすい。

第二に、不潔な食べ物を摂取するブタは病気に感染している危険性が高い。

第三に、絶えず移動を強いられる遊牧中心の中東では、定住性の家畜であるブタは

生態環境に適さない、等といったものだ。

古代オリエントの人たちは、生活を合理的に営む知恵として、神の啓示という建前を

借りながら豚食を禁じたのだろう。

豚は汗腺をほとんど持っていないので、自らが体温調節をコントロールできない。

泥んこの中を転げ回る光景をしばしば目にするが、あれは発汗できないブタの体温

冷却のための生理的な動作なのである。

したがって、中東で養豚業を営もうとすれば、風通しの良い場所を選び、直射日光を

さえぎるための日陰や泥水たくわえた場所を作ってやる必要があり、とてもではないが

飼育コストに合わない。 これは中東に限った話ではなく、乾燥地域の遊牧民すべてに

当てはまるだろう。

2009年5月17日

イスラム教はなぜ豚肉を禁じるのか? ①

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古来、世界各地で偏見やタブーにさらされてきた肉は少なくない。

豚肉は、なによりもそれらの筆頭にあげられよう。

アラブやユダヤ世界の西アジアでは、現在でも食用とすることを固く禁じているし、忌み

嫌われている。

ムハンマド(マホメット)による「 コーラン 」第5章の食卓の章には、「 死獣の肉、血、豚肉、

、それからアッラーでない邪神に捧げられたもの、絞め殺された動物、打ち殺された動物、

墜落死した動物、また猛獣の食らったもの ・・・ 」などは食べてはならぬとあり、第6章の

家畜の章にも「 死肉、流れ出た血、豚の肉、-これは全くのけがれものー 」などと禁忌

である点を強調している。

また、ユダヤ教の聖典「旧約聖書」の「レビ記」「申命記」のなかでも、全知全能の主ヤハウェ

(エホバ)は事細かに食肉タブーを命じている。

数ある獣肉のうち合格点を得るには「 ヒズメの分かれたもの、ひづめが二つに切れたもの、

反芻するもの 」という条件をクリアしなければならないが、ブタは「 ひづめが二つに切れて

いるけれども、反芻しない 」という理由で、汚れた獣としてタブーの俎上に上がってしまった。

ではなにゆえにムハンマドやヤハウェは豚食を禁じたのであろうか?

いったいにブタは、人糞を含むあらゆるものをむさぼり食う大食漢で、鈍重なうえに発情期

が21日周期で年中繰り返すといった習性が、不潔で汚らわしいというイメージに結びつく。

ブクブクと醜く肥え太り、スマートさとはほど遠い。 もともとストイックなイスラム教、ユダヤ

教とは相いれない家畜と、早々に烙印を押されてしまったのかもしれない。

事実、現在のイスラム法学者たちの多くは、「 アッラーが豚肉を禁じた第一の理由は、その

いやしい習性と食べ物がきわめて不潔であるというブタの生態そのものにある 」と解釈する

向きが強い。

出典 : 「 食の歴史 」 辻原康夫氏 著 河出書房新社 から。

2009年5月15日

岡山名物 「 ママカリ 」

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岡山では「 ママカリ 」という魚がとれる。

あまりにもうまいものだから、自分の家のご飯では足らなくなって、隣の「 ママ 」

(=飯)まで借りに行く。 「 ママ 」を 「 カリ 」にゆくくらいうまい魚ということで、

この名前を奉ったようだ。

最近は、岡山駅でも、ママカリの酢漬けやママカリのみりん干しなどを売っている。

それらもママカリの味はするが、昔私が食べたママカリとはかなり味が違う。

夏の暑い日にヒチリンに火をおこして、炭火で金網の上で焼き、酢醤油に付ける。

このママカリが何とも言えなくうまい。 やはりあたらしいママカリを焼いたのが一番。

身が骨からぽろりとはなれて食べやすい。 さっぱりしているのにうまみがある。

本当に隣のうちへママを借りに行くくらいうまい。

私はママカリの焼き立てを酢醤油に漬けたばかりのまだ熱いのを食べるのが好きだった。

つぎにママカリのうまい食べ方は、ママカリの握り鮨。 これもサッパリしていてうまい。

このママカリ、聞くところによると、全国的には「 サッパ 」と言うらしい。

鰊の仲間で、東北以南の河口、内湾のような汽水域に広く分布しているという。

2009年5月12日

茶の歴史

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茶の原産地は、ミャンマー北部から中国雲南省にまたがる一帯である。

茶を飲む習慣がはじまったのは、紀元前3世紀ごろの中国で、当初はできものや膀胱の

痛みよけ、眠気覚ましなど主に漢方薬の一種として利用されていた。

やがて、酒を戒める仏教の伝来とともに、三世紀なかばから純粋に嗜好品として飲まれ

るようになり、それからほぼ一世紀を経て本格的な茶の栽培が始まっている。

茶は製法によってさまざまな種類に分けられるが、大別すると、発酵させない緑茶、半発

酵のウーロン茶、発酵させる紅茶、の3種類になる。

なお、緑茶を運ぶ途中に偶然船倉で自然発酵して紅茶になったという逸話はよくできて

はいるが、まったくの作り話なので念のため。

中国・元代の14世紀になると、茶はシルクロードを経由して、ロシアからインド、ペルシャ、

遠くトルコへ伝えられた。

陸上ルートに遅れることおよそ300年、中国・福建地方の厦門(アモイ)を積み出し港とし

た茶は、海路を通じて東南アジアやヨーロッパ各地へ広まっていった。

当時海上ルートを独占したのははじめはオランダであったが、1669年に英国東インド

会社が中国から直接買い付けることに成功したため、英国は茶を含む中国貿易を独占

するようになった。

最初は英国でも緑茶が飲まれていたが、硬水の水質がタンニンの多い発酵した茶に適し

ており、同時に肉食中心の食事には、濃厚な味の紅茶の方がよりマッチしたのであろう、

緑茶よりも紅茶が好まれるようになった。

さらに、英国は19世紀にインドやスリランカで大規模なプランテーションを展開して、

世界の紅茶市場を制すると、英国のみならず中東やヨーロッパ諸国はほとんど紅茶に

切り替わってしまった。

しかしながら、英国による紅茶の独占販売と高税を嫌ったフランスや米国などでは、

庶民の嗜好はおのずと茶からコーヒーへとシフトするようになった。

このような理由によって、のちのち紅茶は英国、コーヒーは米国という図式が定着した

という。

参考 : 「 食の歴史 」 辻原康夫氏 著  河出書房新社 発行

2009年4月30日

ハインリッヒの法則

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ハインリッヒの法則

ハインリッヒの法則とは、アメリカの安全技師・ハインリッヒ氏が発表した、労働災害の

発生傾向に関する経験則のこと。

その内容は「1件の重大災害の背景には、29件の軽微な災害と300件の無傷の災害

がある」というもので、「 1 : 29 : 300 の法則 」とも呼ばれている。

同氏の研究によると、さらにその背後には数千件の潜在的なリスク=「不安全行動」、

「不安全状態」が存在し、それらに対し予防措置をとることにより、労働災害の98%は

防げるとのこと。

リスク・マネジメントでは、潜在的リスクを「ハザード(間接的要因)」、直接の原因となっ

しまったリスクを「ペリル(直接原因)」、それによって生じた損害を「ロス(損失)」と呼ん

でいる。

リスクマネジメント

危機管理の意味。 将来起こりうる可能性があるリスクを想定し、リスクが発生した場合

の損害を最小限に食い止めるための対処方法や取組み。

リスクマネジメントを適切に行なうためには、いかにして事前にリスクを正確に予測して

おくか、そのリスクを回避するための措置と、起こった場合の対処方法や補償などを

万全に整えておく必要がある。

2009年4月18日

「さくら」の名所:多摩森林科学園ご紹介

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花の美しさを求めて歩いて来ました。

・ 3月27日(金) 鎌倉・長谷寺(はせでら) しだれ桜

・ 4月3日(金)  千鳥が淵、 上野公園

・ 4月4日(金)  伊東公園 ( 静岡県 )

・ 4月9日(木)  多摩森林科学園

・ 4月15日(水) 多摩森林科学園

多摩森林科学園は、知人の紹介で4月9日にぶらりと一人で出かけました。

この科学園には、多種類のサクラが植えてあり、種類によって色合いが違い、赤っぽ

かったり、白っぽかったり、中には緑色のものもあります。

同じ赤っぽいのでも、種類により、木により、枝により、房により、花により、みんな色も、

花びらも、違います。

約2時間で一周してきましたが、見あきることがありません。

ご紹介しようと思って、写真を撮ってきたのが上の写真です。

4月15日(水)にまた行ってきました。千鳥が淵には千鳥が淵の、上野には上野の、

伊東には伊東の、それぞれ良いところがありますが、私は多摩森林科学園が一番

気に入りました。

多摩森林科学園のホームページにより、以下のとおりご紹介いたします。

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名 称 : 多摩森林科学園

住 所 : 〒193-0843 東京都八王子市廿里町1833-81

最寄駅 : JR中央線/京王線 高尾駅 から 徒歩約10分

入園時間 : 9時30分 ~ 15時30分

入園料(4月) : 大人 ¥400、 子供 ¥150

サクラの種類・本数 : 約250種、 約1700本

花の見頃 : 種類によって咲く時期が異なるので、全てのサクラが一度に開花するわけ

        ではありません。 3月から5月くらいまでサクラが咲いていると聞きました。

        花見シーズンの4月は、上旬は主に一重(ひとえ)のサクラ、中旬は主に

        八重(やえ)のサクラが見ごろを迎え、、下旬も遅咲きのサクラを見ることが

        できますが、種類は少なくなります。

        また、年により、気候条件によって開花時期は違います。

2009年4月 7日

幕末の福井藩主 松平春嶽

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福井藩第十六代藩主・松平春嶽( まつだいら しゅんがく、 1828年 ~1890年 )

は、1828年、一橋家、清水家と並ぶ徳川御三卿の一つ、田安家の八男として江戸

城内で誕生する。

将軍家との血縁は深く、十一代将軍徳川家斉(いえなり)の甥、十二代将軍徳川家慶

(いえよし)のいとこにあたり、幼名は錦之丞(きんのじょう)。

十五代藩主斉善(なりさわ)の病没後、幕命により越前松平家を継いだ錦之丞は、

十一歳で藩主となり、元服後将軍家慶の一字を賜わって慶永(よしなが)と名を改める

が、彼自身は春嶽という号を好んだという。

藩政改革に取り組んだ彼は、まずひっ迫した藩の財政を立て直すために、徹底した

緊縮財政を推進、率先して倹約に努めるとともに、家臣たちにも徹底させ、さらにさまざま

な改革に取り組んだ。

欧米の圧力が高まる中、海防の強化、洋式の大砲や鉄砲の鋳造による強兵策、人材

育成のための教育改革などの必要に迫られた春嶽は、身分にかかわらず優秀な人材を

登用しながら次々と藩政改革を実行に移し、やがて幕政にも参画して大きな影響を与え

るようになる。

 人材育成の必要に迫られた春嶽は、1855年藩校を設立する。 当時、藩医から藩主の

側近くに仕える御書院番に抜擢されていた橋本左内は、二年後、二十四歳で藩校明道館

の校長格にあたる学監同様心得(がっかんどうようこころえ)になり、欧米の学問を学ばせ

る洋書習学所を新設。 由利公正らと協力しながら文武両道を目指す本格的な教育改革

を推進する。

そのころ幕政において将軍継嗣問題に取り組んでいた春嶽は、左内を江戸に呼び寄せて

この任に当たらせる。 左内は一橋慶喜(よしのぶ)を次期将軍にすべく、奔走する。

しかし、反対派の井伊直弼(なおすけ)が大老となり、次期将軍は徳川家茂(いえもち)に

決定。 政争に敗れた春嶽は、三十一歳の若さで隠居・謹慎を言い渡され、その後捕え

られた左内も翌年には斬首される。 この時、左内は二十六歳。 福井藩の責任を一人

背負った死で、春嶽はその死を悼んだと言われている。

桜田門外の変で井伊直弼が亡くなり、春嶽は謹慎を解かれる。 政界に復帰した春嶽は

横井小楠を政治顧問に迎え幕政改革に努める。

その後春嶽は明治新政府の中で徳川宗家の存続のために尽力する。 一方、中国の

古典から「 聖人君子が天下に耳を傾ければ、世は明るく平和に治まる 」という意味を

持つ「 明治 」を元号候補に挙げるなど、新政府内でも重きをなし、その後も要職を歴任。

1870年には公職を退き、著述に専念、数多くの著作を残した。

* 日本経済新聞 2009年3月21号 より。

2009年4月 1日

伝説のファースト・エンペラー(始皇帝)の真実 (2)

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統一の後に始皇帝が見た夢

当時、秦の軍事力は他の六国を大きく凌(しの)ぎ、宰相李斯(りし)のもとで戦う度に

領土を広げた。

統一することが望みだったか、あるいは結果だったか、鶴間先生( 学習院大学

文学部教授、 専門は東洋古代史研究。文学博士 )の説は傾聴に値する。

また、秦の竹簡が発見された湖北省雲夢(うんぽう)県睡虎地(すいこち)は、地名

そのものが興味深い。 二千年近く睡っていた竹簡は、虎狼(ころう)のような心と

評される始皇帝の夢のようにも思えるからだ。

さて、中華全土に君臨した始皇帝が取り憑(つ)かれたのは、不老長寿の夢である。

そこで重要視されたのが、方士(ほうし)という存在だ。

祈祷師、修験者と薬剤師を兼ね備えた彼らの一人徐福(じょふく)は、仙薬を入手

すると称し、童男童女六千人を連れて船出した。 無論、金銀財宝も積まれてい

たが、結局彼らは帰らなかった。

万里の長城も、不老長寿の夢を実現する一環として築き、焚書坑儒(ふんしょこうじゅ)

はそれが儚(はかな)くも破れた結果の、錯乱した暴挙である。

そう思えば、始皇帝は中華統一の先に自らの破滅を予見していて、本音では避けた

かったのかも知れない。

2009年3月30日

伝説のファースト・エンペラー(始皇帝)の真実 (1)

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株式会社ソニー・ミュージック・ダイレクト の The CD Club 2009年5月号の

作家・塚本靑史さんの 「 中華統一は始皇帝の望みか否か? 伝説のファースト・

エンペラーの真実 」から。

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「 史記に記された出生の秘密 」

始皇帝(しこうてい)が当時の敵国である趙(ちょう)の都・邯鄲(かんたん)で生を受けた

のは、系図上の父とされている荘襄王(そうじょうおう)が質子(ちし)、つまり不可侵条約

の保証人(人質)として送り込まれていたからだ。

 戦国七雄は、それぞれ質子を交換し合っていた。 単純計算で、全国に四十二人いた

勘定になる。 その中に、将来使い物となる一人を捜していたのが、大商人呂不韋( りょ

ふい )だった。

現代的な感覚で捉えれば、彼は投資家である。 その言葉に「 奇貨居くべし (きかおく

べし = 得難い好機は、逃さず利用する意)」がある。

この奇貨に当たったのが当時の荘襄王である。 彼は、呂不韋の妾を見染めて貰い受

けるが、その腹には既に始皇帝が宿っていたと言われる。

その経緯は「 史記(しき) 」の記述で通説となっている。 呂不韋はソグド人(白人系、

コーカソイド)で、漢民族(黄色人種、モンゴロイド)とは容貌体型が違う。

遺伝子を受けた始皇帝の姿は、、公然の秘密だったろう。

呂不韋の計算が狂ったのは、邯鄲から咸陽へ戻した荘襄王が、先代の夭逝(ようせい)

で早く王位に就いてしまったことだ。 先々代の昭襄王が、五十七年もの長きに亘って

君臨したためである。 それは呂不韋にとっても嬉しい誤算言えよう。

自分の意のままに動く王に付いていれば、投資の数万倍の儲けが見込めるからだ。

だが、荘襄王も在位四年で他界する。 こうして王位に就いたのが当時十三歳の我が

子始皇帝(当時の呼び名は、秦王政(せい) )だった。

呂不韋にとって問題だったのは、少年始皇帝の聡明さである。

彼は出生の秘密も自らが置かれた立場も理解して、隠忍自重の末に父親の呂不韋

を飛び越えて追い落とした。

2009年3月28日

幻の薩摩切子

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日本経済新聞 2009年3月19日号 文化欄のガラス工芸史研究家・土屋良雄氏

の「 幻の薩摩切子に光当て 」から。

私も是非3月28日からサントリー美術館で開催される薩摩切子展を拝見したいと

思っています。

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薩摩切子は幕末の薩摩藩主、島津斉興(なりおき)のもとで誕生、息子斉彬(なりあきら)

の時代に花開き、わずか十数年で姿を消した幻のガラス製品だ。

赤や青の色ガラスを被(き)せ、多彩な文様をカットした器は本場欧州の品にも負けない

きらめきを放つが、現存数少なく謎も多い。

私はその輝きに導かれ、研究の道を歩んできた。

・・・  中  略  ・・・・

サントリー美術館で最初の薩摩切子展を開催したのは、八十二年。 当時確認できる

薩摩切子は八十件ほどしかなかった。 あれから二十七年、二十八日から同館で再び

開く「 まぼろしの薩摩切子 」展には約百二十件が並ぶ。 うち二十八件が新出。

数々の新発見のおかげだ。

・・・  中  略  ・・・・

薩摩切子を見分ける確実な方法の一つは、比重の計測だ。 薩摩は製造過程で鉛を

入れるので、ソーダ系の物質を使うヨーロッパ製品より重い。

文様にも特徴がある。 同じ幕末のガラス製品に江戸切子があるが、薩摩の文様は

はるかに複雑だ。 特に格子文や籠目(かごめ)文の中に魚子(ななこ)文という細かい

カット面を施す技は薩摩切子の大きな特徴だ。

実は今回、薩摩切子が増えたのにはもう一つ理由がある。

従来薩摩切子に含めなかった無色の器を、初めて薩摩に分類したからだ。

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極めつきの新発見は最近、薩摩伝承館が購入した無色の「船形鉢」だ。

箱に斉彬の四女、典姫の所有を示す「宝印」の墨書きがある、と聞いてぴんときた。

サントリー美術館の切子大皿の箱にも同じ印があるのだ。

筆跡を比べるとぴたり一致した。 しかも、大きさはコウモリの船形鉢とほぼ同じ。

私は二つは同じ型に吹きこんで成形された兄弟ではないかと考えている。

さらなる発見がありそうな予感だ。

2009年3月 7日

桃太郎伝説

雲5.jpg

新人物往来社の「 日本の神話・伝説が面白いほどわかる本 」の桃太郎伝説

( 斎藤英喜 仏教大学教授 著 )によれば、次の通り。

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川で洗濯をしていた老婆が、川上から流れてきた桃の実を拾う。

家に持ちかえって爺と一緒に食べようとすると、中から小さな男の子が現れた。

桃太郎と名付けられた男の子は、あっという間に成長し、やがて鬼退治へ出かけた。

婆が作った黍団子(きびだんご)を持って、途中出会った犬、猿、雉(きじ)を供にした。

そして、鬼ヶ島に着くと、家来の動物たちに助けられて、ついに鬼を退治し、鬼の宝を

取って爺婆のもとに意気揚揚と引き揚げた。

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また、伝承される地域として、岩手県、福島県、高知県、広島県、愛媛県が記述され

ている。 岡山県の岡の字もない。 この先生岡山県をご存じないのではないか。

私は、岡山県の玉野市というところで生まれ、18歳になると同時に関東へ出てきた。

岡山県は、白桃(はくとう)という高級品の桃の有名な産地。 桃太郎伝説を明示する

かのようにJR岡山駅の東口には桃太郎の銅像もある。

私たちの子供のころには、桃太郎が犬や猿、雉の家来を連れて、鬼が島(おにがしま)

(宇野港の対岸の四国・高松港のすぐ前に鬼が島がある)へ鬼退治に行ったと聞いて

育った。 小学校高学年になると、多分鬼が島は海賊の巣窟だったのだろうと言い合った。

筆者が行った中学校の校長先生は日比港の海賊の首領の家だとうわさされていた。

筆者は上記雑誌を読むまでは、岡山県以外で岩手県などでも桃太郎伝説があることを

知りませんでした。 斎藤先生が岡山県を挙げておられないのと対称的。

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