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2009年4月10日

国宝・阿修羅展を拝観して

阿修羅 (1).jpg

2009年4月3日、東京国立博物館 平成館 で 国宝・阿修羅像 を拝観した。

通常ガラスケースに入っていて、正面からしか見られない阿修羅像を、ガラスごし

ではなく直接、しかも360度全方向から拝観した。

私は阿修羅像のお顔ばかり見ていた。 お顔が3つあり、それぞれ表情が違う。

一つお顔でも、見る角度によって表情が微妙に異なる。

私は、正面から向かって右のお顔を、右斜め後方から見た表情が一番気に入った。

正面からお顔を見ると、阿修羅さんはどこか遠くを見ているようだった。

何を見ていたのだろうか?

朝日新聞 国宝・阿修羅展 紀年号外 と 日経おとなのOFF で阿修羅像について

学んだことを以下のとおりに整理してみた。

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1. 国宝・阿修羅像の誕生

  光明皇后が734年( 今から約1300年前 )に、皇后の母・橘三千代(たちばな

  のみちよ)を供養するために、興福寺に西金堂を建てた。

  このお堂の本尊を守護するのが八部衆(はちぶしゅう)で、阿修羅像はその中の

  一体。

  八部衆は仏に仕える神だが、人間の姿でリアルに表現されている。

2. 国宝・阿修羅像の物理的側面

  ①. 身体 : 漆を大量に使った乾漆像で、それまで日本では仏像は金属製だった。

  ②. 顔 : 3つの顔を持つ

  ③. 手 : 6本ある

  ④. 身長 : 153cm

  ⑤. 体重 : 約15Kg

  ⑥. 装身具 : ネックレス、腕輪

  ⑦. 履物 : 板金剛というサンダルのようなもの

  ⑧. 服装 : 上半身に細長い布をつけ、下半身にスカートのような腰布を巻いている。

           ネックレスや腕輪も美しい。

           当時の中国・唐の仏教や服装の最新流行を参考にしたと考えられる。

           他の八部衆は皆、鎧をつけているのに、阿修羅像だけは鎧を着けないで

           異なった服装をしている。

  ⑨. 製作者 : 仏師の長は、将軍万福と伝えられている

2009年3月14日

イスラム教の歴史概略

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6世紀頃、パレスチナから近いアラビア半島では、アブラハムの子孫「アラブ人」が遊牧

生活を中心に生計を立てていました。

ラクダを使ったキャラバンで貿易を行ない、次第に経済的に繁栄してくると部族間の連帯

が失われ、富めるものと貧しきものに分かれ、対立や戦いが起きるようになりました。

アラビア半島西部の都市メッカに生まれたムハンマドは、このような状況にある社会に

疑問を持ち始め、「なぜ人間は戦争や争いをやめようとしないのだろう。 ユダヤ教徒や

キリスト教徒たちも含めて、多くの人々は神の言葉を誤解しているのではないか」と思い

悩むようになりました。

610年頃、悩みを抱いてひとり山の洞窟で瞑想にふけっていたムハンマドの前に

大天使ジブリールが現れ「神の啓示を全ての民に伝えよ」と命ぜられます。

この時からムハンマドは自らを神の言葉を人々に伝える「預言者」であると自覚するに

至り、イスラム教が生まれました。

つまり、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教は共に唯一神ヤハウェを信仰する一神教

なのです。

最初ムハンマドが人々に伝えた啓示の教えはメッカで迫害されたため、621年

ムハンマドは、ヤスリブ(現在のサウジアラビアのマディーナ州)に逃れ、イスラム

共同体を建設。 次第に周辺のアラブ人たちを支配下に治め、630年ついにメッカを

占領。 その2年後にムハンマドはなくなりますが、後継者(カリフ)たちによって

異教徒に対する聖戦(ジハード)は始められ、東ローマ帝国からエジプト、シリア、

そしてパレスチナ地方を奪い取っていきました。

以降、パレスチナはイスラム教徒が支配する場所となり、アラブ人たちがやってきて

ユダヤ教徒やキリスト教徒とともに暮らすようになります。

ただ、イスラム教のユダヤ教徒、キリスト教徒たちに対する支配は寛容なもので、

税金さえ払えば彼らの信仰を保障していました。

西ヨーロッパで絶大な力を持ち始めたキリスト教は、聖地エルサレムをアスラムの

支配から奪還するため、1096年から約200年にわたって十字軍を送ります。

* 出典 株式会社晋遊社 「日本人が知らない恐るべき真実」 (安部芳裕氏 著)

2009年3月13日

キリスト教の歴史概略

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パレスチナのガラリヤ地方ナザレにイエスが誕生。

* Wikipediaによれば、イエス・キリストの 生年:紀元前4年頃、 没年:紀元後28年頃。

イエスはユダヤ教徒として育ちますが、当時のユダヤ教のあり方に疑問を持ち、本来の神

との契約に立ち返り「全ての人間は神の愛によって平等に救われる」と説くようになりました。

しかし、次第に影響力を増すにつれ、保守派(パリサイ派)ユダヤ教徒の反発を招き、「神を

冒涜した」と十字架に吊るされて処刑されてしまいます。

その後、「死んだはずのイエスが甦った」という噂が人々の間に流れ、かっての弟子たちが

「イエスこそが神によって遣わされた真のメシアである」と確信するようになってキリスト教が

成立。 その後キリスト教は弟子たちによってローマ帝国内に広められていくことになります。

キリスト教は、ローマ帝国内で次第に信者を増やし、ついにはローマ帝国から国教としての

地位を与えられます。 また、ローマ帝国滅亡後もゲルマン人の王や貴族に保護され、西

ヨーロッパで絶大な力を持つ宗教勢力となっていきます。

---- 中略 -----

西ヨーロッパで絶大な力を持ち始めたキリスト教は、聖地エルサレムをイスラムに支配から

奪還するため、1096年から約200年間にわたって十字軍を送り込みます。

パレスチナに入った十字軍の兵士たちは、住民を大量に虐殺し、1099年、エルサレム王国

を建設。 しかし、イスラムの反撃にあって、1291年、エルサレム王国は崩壊します。

---- 中略 -----

中世になってルネサンスや宗教改革が起こり、政治と宗教が分離されました。

それまではキリスト教会が政治権力や司法権を握っていたのですが、プロテスタント運動

などによって政治権力や司法権は国王に移り、その後フランス革命などを経て国民が

力を持つようになります。

---- 中略 -----

13世紀頃からヨーロッパのきりすと教社会では、ユダヤ教徒に対する迫害が強まって

行きました。

* 出典 : 株式会社晋遊舎 「日本人が知らない恐るべき真実 」 安部芳裕氏 著

2009年3月12日

ユダヤ教の歴史概略

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株式会社晋遊舎 発行 「 日本人が知らない恐るべき真実 」 (安部芳裕氏 著)に

ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の歴史概略がわかりやすく書かれていたので、ご

紹介します。

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旧約聖書に出てくる「ノアの方舟」は、知らない人がいないほど有名な話でしょう。

唯一神ヤハウェの啓示に従い方舟に乗って大洪水から助かったノアとその家族は、

その後全ての民族の祖先となったとされています。

紀元前3000年頃、ノアの子孫であるアブラハムは、神によって「カナン(現在のパレス

チナ)の地に行け」と命ぜられ、カルデヤのウル(現在のイラク)からカナンに移住しました。

アブラハムの子孫は、その後エジプトへ移住しますが、エジプト王国の厳しい支配を受け

るようになり、紀元前1280年頃、預言者モーゼが「約束の地カナンへ戻ろう」と、仲間を

引き連れエジプトを脱出します。 

このときモーゼがシナイ山で神と結んだ契約を「十戒」と呼び、のちにユダヤ教の教えの

中心となりました。

モーゼ一行(イスラエル人)は神の奇跡に助けられ、約束の地カナンにたどり着きますが、

そこには既に別の民族が住んでいました。

イスラエル人はカナンを奪い返すため戦争を起こし、ヘブライ王国という念願の国家を

建設します。 

ヘブライ王国はダビデやソロモン王の時代(紀元前1000年頃)に黄金期を迎えましたが、

ソロモン王の死後、王国は北イスラエル王国と南ユダ王国に分裂、。

その北イスラエル王国も紀元前721年にアッシリアに滅ぼされ、紀元前586年には

南ユダ王国も新バビロニアによって滅ぼされて、政治、宗教のエリート層全員捕囚として

新バビロニアの首都バビロンへ連行されてしまいます。

紀元前539年、ペルシャ王国(アケメネス朝)がバビロンを滅ぼし、捕らわれの身であった

イスラエル人は帰国を許されました。

カナンに戻ったイスラエル人は、自分たちの神への信仰の正しさを確信し、エルサレム

神殿を再建、ユダヤ教団を形成します。

しかし、イスラエル人は帰国を許されるも、独立国家の建設を認められたわけではあり

ませんでした。

その後もペルシャ王国、アレクサンダー大王、ローマ帝国という大国の支配を何百年も

受け続けることになります。

紀元前1世紀頃、ユダヤ教徒はローマ帝国に対して二度にわたり反乱を起こしますが、

敗北。 神殿も破壊されてしまいます。

その結果、ユダヤ教徒たちはエルサレムに住むことを禁じられ、各地に離散。

20世紀になってイスラエルを建国するまで、国家を持たない「流浪の民」としての生活

を送ることになります。

流浪の民となったユダヤ教徒は、いつ、どこに引っ越さなければならなくなっても

困らないようお金を蓄えておく用になりました。

---- 中略 -----

西ヨーロッパで絶大な力を持ち始めたキリスト教は、聖地エルサレムをイスラムから

奪還するため1096年から約200年間にわたって十字軍を送ります。

十字軍の兵士たちは、次々とユダヤ教徒を襲撃、虐殺し、金品を強奪、異教徒征伐に

かこつけて軍資金の調達を行なった。 時を同じくして、ヨーロッパのキリスト教社会では

ユダヤ教徒に対する迫害が強まっていきました。

ユダヤ教徒に対する迫害はますます強くなり、土地を持つことも制限されたため、農業を

行なうこともできなくなり、ほとんど全ての職業に就くことが禁止されました。

唯一残された職業が、キリスト教徒がやらない利子を取り扱う職業、高利貸(質屋)や

金塊の保管人、両替商(貿易決済業者)等でした。

当時ユダヤ教、キリスト教、イスラム教とも利子の徴収は原則として禁じられていました。

しかし、ユダヤ教は例外として、異教徒(外国人)から利子を取ることは許されていました。

以上がユダヤ教徒が金融業に強くなった理由です。

 

2008年3月11日

茶馬古道(7) チベットと仏教

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チベットのヒマラヤ地域には、7000メートル級の山が50、8000メートル級の山が11あり、最高峰はチョモランマ峰ノ8848メートル。

平均高度は4000メートル以上で、塩湖や沼が1500以上あるという。 寒冷、乾燥した台地だ。

産物は、ヤク、ヤギ、馬などで、ヤクは大事な物資の輸送手段であるとともに、バター、ミルク、毛皮等畜産物の原料でもある。 高地では小麦は取れないが、少し低い地域では小麦を栽培、主食のツァンパの原料になる。

仏教は7世紀前半にインドからチベットに伝えられた。

7世紀前半に「吐蕃(とばん)王国」が築かれ、761年ティソン・デツェン王によって仏教は国教とされた。 9世紀中ごろ、ランダルマ王が暗殺されて、吐蕃王国は崩壊した。

吐蕃王国の崩壊の際吐蕃王国の王族の一部は西チベットに逃れて「グゲ王国」を建国した。

グゲ王国の王たちは、荒廃した仏教再興のために、仏教先進地域のカシミールへ留学僧を派遣したり、カシミールの寺院、仏像、壁画を導入した。 11世紀にはインドから高僧を招へいし、仏教の振興をはかった。 現在グゲ遺跡にみる仏教壁画などはこの当時のものである。 テレビでも洞窟のすばらしい極彩色の仏様(壁画)が映し出されていた。

日本にも仏教が伝わったが、中国、朝鮮等で改変されたものもあると思われる。 それとチベットには伝わったが、中国、朝鮮、日本には伝わらなかった仏典もあると思われる。 インドで仏教が滅びた現在、チベットには貴重な仏典が残っているものもあるという。

 

2008年3月 8日

茶馬古道(6) 巡礼の旅

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茶馬古道は巡礼の道でもある。 11月のある日男たち5人が巡礼の旅に出発する。 2人の年配の男は、日用品、テントなどを荷車に積んで引く。 3人が五体投地(ごたいとうち)の祈りを捧げる。 目的地はチベットの首都ラサのポタラ宮、出発地から距離にして約2100Km。 途中ヒマラヤを越える過酷な巡礼のたびである。 約6ヶ月かかる。 ただ歩くのとはわけがちがう。 秋に出発してラサに着くのは春である。

五体投地の巡礼の旅は、チベット仏教では生まれ変わる次の世に備えるための準備、死に備えるためという。 五体投地で「体と心、言葉を釈迦に奉げる」のだそうだ。 彼らはお金を持たないで出かけた。 お金や食べ物は途中で人々が支援してくれる。 テレビで見ていて頭が下がる思いがした。 輪廻転生で次の世を目指して祈るのである。

チベット仏教巡礼の旅は、距離2100Kmを186日かけて達成している。 日本の四国八十八か所巡礼の旅は約1300Km、徒歩で40日余り、車で約10日かかる。 日本では昔は四国八十八か所巡礼の旅で行き倒れて死ぬ人もあったという。 チベット巡礼の旅がいかに過酷かが偲ばれる。 それだけ信仰心が厚いということことの証明のように思われる。

2008年3月 7日

茶馬古道(5) チベット高原の牛・ヤク

鳥1.jpg標高4000メートルを超えるチベット高原では穀物、野菜はとれない。 チベット高原の牛・ヤクを飼育し、ヤクの肉を主食とし、ヤクの乳からバターを作り、ヤクの毛で糸を紡いで布を作って暮らしている。 ヤクのフンは乾燥して燃料として活用する。 このためバターを小麦などの穀物、中国の雲南、四川などのお茶や日用品と交換する。 野菜が採れないので、ビタミンはお茶から摂取する。 時に塩湖で塩をとって、300Kmも離れた交易市場へ持参、穀物などと交換する。 交易にはキャラバンを組んで出かける。 番組では、5人の男が約40頭の馬、ラバでキャラバンに出かけた。 

キャラバンが通る道は、断崖絶壁の険しく危険な道だ。 道幅は1メートルもない。 足を踏み外すと谷に転落、命はない。 事故は度々発生する。 馬やラバの事故は多い。 人間は今までに2人亡くなっているという。 現地の人たちは、これらはヒマラヤへの生贄と考えているとのこと。 のんびりしているように見えるが、なんとも過酷な世界だ。

 

 My

2008年3月 6日

茶馬古道(4) 塩とヤクノバター、穀物などとの交換

紅葉74.jpg

塩は一番塩、二番塩、三番塩に分類される。 土の混じり具合による分類。一番塩は人間用で、二番、三番は家畜用になる。 人間用は勿論一番塩である。

雪が消えて、塩作りの最盛期になると女性たちは1日に少なくても50回は塩水を塩田に運ぶ。 重労働だ。 この塩作りは2000年前から続いているという。

チベットの高地では穀物は採れないので、ヤクやヤギなどの家畜を飼って暮らしている。 このため人間が食べる穀物を得るため年に数回ヤクのバターや毛皮を持って山を下り、塩や穀物、日用品と交換する。 塩は動物にとって必需品で、ヤクやヤギは人間より多くの塩が必要と番組で言っていた。 高地で塩を水にといて家畜に与える場面があったが、家畜たちは先を競って塩の水を飲みに来る。 人間は塩の入ったバター茶をよく飲むそうだ。 ビタミンはお茶からとる。

2008年3月 5日

茶馬古道(3) ヒマラヤ山中に塩田

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驚いたことに海から1000Kmも離れたヒマラヤ山中で塩がとれる。 大昔海だったところが隆起したため海水の塩分が塩になったり、塩水になって残っているらしい。 テレビでは、川淵の円塩水井戸で塩水を汲んでバケツに入れて担いで塩田へ持って行って、塩水を塩田に入れる。 塩水はバケツ1杯なんと10Kgもあり、これを前後ろに天秤棒で担ぐので1回に20Kgを運ぶことになる。 塩水は太陽と風によって塩になる。

私は塩田と言っているが、棚田のような感じだが、ちょっと違う。 昔岡山のの瀬戸内の塩田では、海っぷちの塩田に砂を入れてその上に海水を撒き、太陽の熱と風で塩分濃度を上げて、濃い塩水を煮詰めて塩を作っていた。川っぷちに柱を立ててその上に板を敷き、板の上に塩水を撒いて太陽熱と風で水分を飛ばし塩の結晶を方法だ。 やり方は同じ。 この作業は女性に仕事。 1日に塩水井戸と塩田の間を普段は20~30回往復する重労働である。 男は塩作りには携わらない。 男は女性が作った塩を持って交易に出ていない。 これがこの地方の男女の分業方法らしい。

男の兄弟2~3人が1人の女性を妻にする「兄弟同妻」の習慣が紹介されていた。 男性曰く「自分が交易に出かけている時に兄弟が家の面倒を見ていてくれるので安心だと言っていた。 我々から見ると考えられない習慣だが、この地方ではこれがいいのかもしれない。

My

 

2008年3月 4日

茶馬古道(2) 塩の道キャラバン

白梅5.jpg

テレビでは、50頭くらいの馬、ラバが重い塩を積んでキャラバンができあがる。 キャラバンは5月に始まる。 6月からは雨期になる。

キャラバンの先頭はメス馬、二番手がオス馬。 メス馬の方が度胸があるからという。 道幅が1メートルもない険しい道なき道を通る。 時には事故がある。山道なので落石もある。 落石で死ぬ馬、ラバは多い。 幸い人間は2人なくなったとのこと。

道がなくなって川を渡らざるをえなくなると、1本のワイヤロープで人も、馬も、荷物も渡す。 馬は怖くなって足が出ない。 フリーズ状態だ。 でも人がなだめすかして馬をワイヤロープに吊って川を渡す。 ロープの下は滔々とヒマラアヤの濁流が流れる。 テレビを見ている私だって足がすくむ。

キャラバンは立ち寄る村々で塩と小麦、ヤクのバターなどと交換する。 キャラバンの主目的は勿論交易だが、馬に良い草を食べさせるのも目的と言う。 ヤクは薬草を食べているので、いいバターがとれるそうだ。

男たちは交易のためキャラバンに出て村を留守にし、女たちが村を支えるというのが、この地方での男女の分業形態だ。

 My

2008年3月 3日

茶馬古道(1) もう一つのシルクロード

白梅8.jpg昨晩NHKのハイビジョン・テレビで「茶馬古道」という番組を見た。 ”茶葉”ではない。 私は知らなかったがお茶の原産地は中国・雲南省のプーアール地方だと聞いた。 「茶馬古道」にはサブタイトルがついていて、「もう一つのシルクロード」とあった。 シルクロードは文字通り絹の交易の道。 こちらは中国・雲南省のお茶とチベットの馬の交易(交換)の道である。 初めて聞いた。 ついでにお茶の木は椿から分かれた種類だという。 雲南省ではお茶の葉を火であぶり、煮出して飲むそうだ。 日本ではお茶の葉を取りやすいように木の高さを1メートルもないように栽培している。 これに対して、雲南では高さが5メートルを超える茶の木もあるそうだ。 木に登って茶葉を取っているところが映し出されていた。 昔は茶と馬を交易していたから「茶馬古道」と名前がついた。 でも、現在はチベットの人は主として塩を売り、雲南の茶、日用品などを買って帰るとのこと。交易は、ヒマラヤの狭くて、険しい、自動車も通れないような道をキャラバンを組んで行なわれている。

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