ブログトップ > 有馬幸三の自叙伝

2008年3月17日

釣りの思い出(11) 魚と潮

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釣りの行っても魚が針に刺したエサに食いつかないことには、またイカの場合は、餌木かイカズノを餌と見て食いつかないことには釣れない。 

家内によれば、魚をんだまして釣るのは卑怯だ、可哀そうだ、という考えもあるのだが。

魚がエサに食いついてくれるための条件は山ほど沢山ある。 これをすれば必ず釣れるということはありえないので、十分条件というのはない。 必要条件は、大きく分けると、潮(海水)に関すること、エサに関すること、仕掛けに関すること、仕掛けをどう使うか、に関することに分かれる。

潮について言うと、海水は地上の空気と同じように均一でなく、また流れもある。 まず、干潮、満潮による流れがあり、地形によっても流れは変わる。 流れるところもあれば、流れないところもある。 私の知っている瀬戸内では、満潮の流れはゆったりと緩慢だが、引潮の時は川の急流のように流れる。 地形にもよるが。     また、地上に黄砂があるように海水にも濁りがある。 濁りが全然なくてすごく澄んでいる時もあれば、濁っていて見通しが良くない時もある。 澄み過ぎても魚はエサを食わないが、濁っていると魚にエサが見えないので食いつかないで釣れない。

大きな要素としては、海水温がある。 海水の温度と地上の気温には2~3ヶ月の差がある。 海水温の方が2~3ヶ月遅れる。 魚によっては、冬になって海水温が下がると、深場へ移動して釣れなくなり、春気温が上がってくると浅場に帰って来て産卵するものもある。

瀬戸内では、5月ころになると海水温が上がり、鯛がとれ出し、回遊魚のサワラがまわってくるとともに魚が沢山とれる季節に入る。 この時期を「魚島(うおじま)」と言っている。 今年も間もなく魚島がやってくる。

2008年3月16日

釣りの思い出(10) 東京湾のタチウオ

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新安浦港、久里浜港から出て、観音埼沖でタチオウを釣る。 盛期は9月から12月くらいまで。 タチウオの歯は鋭く、触っただけで指が切れて血が噴き出す。 釣りは、タチウオ専用の針先にサバの短冊を付けて海底2~3メートルから上へリールを巻きながら釣り上げる。 これの繰り返しである。 中には水中ランプを糸につけて魚を寄せる人もいる。 あたりは強烈で、「ガツン」と来てグイグイ引っ張る。この感触が何とも言えない。 また釣り上げたばかりのタチウオの肌(皮)は銀色で光っている。 それは美しい! ただそのまま持って帰って家内に料理を頼むと、鋭い歯が危険だし、捨てるのに困るので、私は船上で頭を落とし、尻尾も切って捨てて帰っていた。タチウオは刺身でもうまいが、私は塩焼きか、から揚げを好みにしていた。

久里浜港の船宿の近くには漁協があり、タチウオのついでに「さわら」、や「タコ」を買って帰った。 あぶらののった「さわら」の刺身はなんともいえなく美味なものだ。

2008年3月10日

釣りの思い出(9) 新島の高瀬

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下田・須崎漁港の宝栄丸には泊まりがけで釣行に出かけた。 この釣り宿で初めてサンマ寿司を知った。 新島沖の高瀬というポイントがある。 ここでは40センチクラスの大きなイサキがよく釣れた。 よく釣れるもので下田あたりの船が大挙して高瀬に出かけたため、新島の漁協から少し控えてほしいとのクレームがあって、高瀬には釣り船は行かなくなった。 高瀬ではオナガという美味な高級魚もたまには釣れた。 オナガが釣れた時に自宅で刺身にして食べたらイサキや真鯛などとは違った上品な味がした。 それ以来いまだにオナガを食べる機会には恵まれていない。 

 My

2008年3月 4日

釣りの思い出(8) イサキの夜釣り

                                                             

紅梅20.jpg今ではもうやっていないようだが、昔は伊東ではイサキの夜釣りをやっていた。 家内の実家の近くに福屋さんという米屋さんがあり、そこの主人が川奈の港内に小さな船を持っていて、夏の日の夕暮時にイサキ釣りに連れて行ってくれた。 船は4人乗ると一杯になるくらいの小さな船だった。 船に乗るメンバーは、煎餅屋の主人、床屋の主人、福屋さんの主人に私が多かった。 時々煎餅屋さんか床屋さんの主人がホテルの社長に代わることがあった。 釣り場は、川奈のゴルフ場の真ん前で沖と言うほどは離れてはいない。

 みんなリールやロッドは使わず、手釣りである。 当時はサイズが30~40センチくらいの大きなのがよく釣れた。 1~2時間釣れば10や15は釣れた。 必要以上には多くは釣らなかった。 楽しみは、賭けだ。 3匹重量というゲームで、各人が釣った大きいイサキ3匹の重量で競う。残念ながら私は勝ったことがない。

 My

2008年3月 3日

釣りの思い出(7) 下田沖でイシナギ

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私がまだ運転免許を持っていない頃のこと。 下田・須崎の宝栄丸に乗って下田沖でイサキを釣っていた時のことだ。 その時は手釣りをしていた。 竿やリールを使用しないで、輪っかに糸を巻いているのを使用していた。   丁度夏の暑い日の昼過ぎだった。 糸を手繰っても根がかりしているのか(地球を釣ってしまったのか)手繰れない。 何度か自分で根がかりをはずそうとしたがはずれない。しようがないから船頭に頼んだ。 船頭に代わってもらった。 船頭いわくこれは根がかりではない。 魚が付いているという。 船頭と交代して今度は自分でゆっくりと糸を手繰る。 確か20分~30分かかったと記憶しているが、大きな魚が上がってきた。 それまで見たこともない魚だった。 魚種は「イシナギ」だという。 長さが1メートルくらいあった。 そんな大きな魚は今に至るまで釣ったことがない。 それでうれしくなって舞い上がったしまった。 タクシーを呼んでもらって伊東の家内の実家まで魚を積んで帰った。 タクシー代は1万数千円かかった。 家内の実家のすぐそばに遠藤さんという魚屋さんがあり、料理をお願いした。 フライとか焼き物にして食べたが味はたいしてうまくなかった。 どうやら私ひとり魚の大きさを喜んだだけだった。

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2008年3月 1日

釣りの思い出(6) スルメイカが133ハイ

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 あれは平成3年(1991年)3月3日のことだった。

 伊東の三好丸にのって川奈港のすぐ前でするめいかをやっていたときのことだ。 ちょうど日暮れ時で薄暗くなりかけていた。 7本イカ角をつけていたらそれに全部イカがついた。 イカが3~4ハイついても、リールを巻き上げるのは大変だ。イカと力くらべだ。イカの引っ張る力は予想外に強い。やっとイカが上がって、船べりを見るとイカだらけ。 重りを投げても仕掛けが沈まない。仕掛けを引き上げると、全部にイカがついている。 イカの群れ(ナブラ)に当たったのだ。 それからも6~7年イカ釣りをやったが、こんな興奮には一度も恵まれなかった。 私は竿とリールで釣ったが、船頭と元漁師は手釣りでさすがに手さばきがよい。 私が133ハイ、船頭は約250ハイ、元漁師も250ハイも釣った。 伊東の親の家に50ハイあげたら近所に配ったそうだ。 自宅へ持って帰って、やはり近所へ配り、スルメにしたり、イカの塩辛にしたり大変忙しかった。

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2008年2月29日

釣りの思い出(5) 針が親指に

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金目の仕掛けは、おもりを投入すると50センチメーターくらいの枠から糸と針がパラパラとリズミカルに出て行く。 ただし、きれいに仕掛けを作っていたらの話だ。 金目釣りをはじめて間がない頃パラパラt針がでたのはよいが、針が錘の重力で飛び出し私の右手の親指に突き刺さったことがある。他に4~5名乗船していたので、釣りが終了するまで帰港するわけにはゆかない。痛いのを我慢して、港に帰るとすぐ、伊東病院へ行って針を抜いてもらった。そのため自宅へ帰って仕掛けを作って、何回も2階のベランダから仕掛けの投入実験をして工夫した。

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2008年2月28日

釣りの思い出(4) 船のまわりは3Mの海水

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大島沖へ金目釣行の場合、冬はよく風が吹くので、船頭がよく大島の気象台へ電話をして気象状況を確認した。夜中の12時、1時にせっかく伊東の港へ行っても風が強いと波が高いので、船が出ないこともあった。私の場合家で仕掛けの針にエサをつけてから港へ行くので、船が出ない日は家へ帰ってから、針からエサを外さなければならない。針を洗うとともに外したエサをすてなければならない。

天神丸のエサはカツオのはらみを10~12センチメートルの長さに、短冊状に切ったものを使用していた。早めに港へ行き船頭からエサをもらって仕掛けの針に刺すこともあり、また家でエサを針に刺すこともあった。家で刺す場合はスルメイカを短冊状にして使った。

ある時波が高かったが釣行した。これは船頭の判断だ。大島沖へ着くとかなりの高波で、船が波と波の谷間に入ると周りは波ばかりで、船から見て横には波しか見えない。そうすると船のみよし(先頭)から甲板に海水が押し寄せる。しっかり船につかまっていないと体が海水に持っていかれる。こういう時はもう釣りどころではない。生きた心地はしない。安全のためキャビンへ入っても体はアッチへゴロゴロ、こっちへゴロゴロ、きわめて居心地が悪い。伊東の港へ帰って来てはじめてホットする。

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2008年2月26日

釣りの思い出(3) 大島沖は川のよう

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 40歳台に約10年金目ダイの釣りをした。

天神丸という船に乗って午前1時から2時に伊東の港を出る。3時間くらいで大島沖に到着する。夜明け前から夜が明けてしばらくの釣りだ。1回の釣行で5~6回しか仕掛けを投入できない。水深は400~600メーターあり、道糸が1000メートル出たこともある。天神丸では大体せいぜい5~6人の釣り人。最初の頃はお客は私一人で、よく船頭と2人だった。船頭は寝るわけには行かないが、私は狭いキャビンで座って寝ていた。天神丸の船頭は人柄温厚でよく面倒をみてくれた。今は体調をくずして引退したと聞いている。

夜明け前に(大島沖に)「着いたよ。始めるから準備してください。」と言われると。右舷の船頭が支持する席に行き、ロッド・ホルダーをセットする。次オリンピックの太鼓型の電動リールをロッド・ホルダーにつける。ロッドとは竿のことで、ロッド・ホルダーとは竿を固定する道具だ。50センチくらいのわっかに20本針がついた仕掛けを電動リールから引き出した道糸につなぐ。仕掛けの先には鉄筋を30センチくらいに切ったおもりをつけている。船頭が「はいやって」というとみよし(船の先頭部分)の人がおもりを投入する。しばらく間をおいて、頃合いを見計らって「はい、次の人どうぞ。」で2番手がおもりを投入する。もたもたしているとその回は投入できないでパスということになる。この調子で次から次へおもりを投入する。大島沖は潮は川のように流れていて、あっという間に船は流される。船頭は流れに逆らって船を進め鮒が流されないようにしながら、おもりを投入させる。

おもりを投入しても竿先を注視していなければならない。おもりが海底に着いたら道糸がそれ以上出ないようにしなければならない。おもりが海底に着いても道糸を出しっぱなしにすると、「お祭り」と言って他人に仕掛けと絡んでやっかいなことになるので、人に迷惑をかけることになる。おもりが海底についたかどうかは竿先を見ていればわかる。一瞬糸の出が遅くなるのを見て判断する。おもりが海底に着くころには糸は500メートルから700メートルくらいは出ている。一番長く出た時は1000メートルだった。

 そうこうするうちに金目が食いはじめる。金目が餌を食うと竿先がわずかにピクピクと動く。そうすると少し糸を送り込む(糸を出す)。他の金目が他の餌を食うとまた竿先がピクピクと動く。あの感触忘れられないね!20本の針に5匹のときもあれば10匹の時もある。一度など船頭が有馬さん、仕掛けをつないで50本針にしてみろというのでそうしてみた。金目が40匹くらい食っていた。もう24ボルトの電動リールがキーキーと悲鳴をあげる。こちらは悲鳴ではなく、大漁で顔がほころぶ。一度など1回の釣行で110匹も釣れて処分が大変だった。たまには良いことのマネをしてみようと老人ホームへ30匹、お年寄りに食べていただこうと思って持って行った。そしたら決められたところからしか買えない規則になっているといって断られた。残念だった。

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2008年2月25日

釣りの思い出(2) 雷に追いかけられて

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  ある年の6月、伊東の春平丸に乗ってイサキの夜釣りに出かけた。     港を出て15分くらいでポイントに到着した。船頭のきよしさんが「いいよ」  と言って竿を出し、仕掛けを投入すると同時に船が四方を雲に囲まれてし まった。船頭が「悪いけど今日は帰るよ!」と言ったので、釣り具をしまいかけたら今度は雷が船の真上で鳴り始めた。もう本当に20~30メーター 上空でドンガラガラが鳴り、稲妻が光る。赤い光ではなく、緑色のように見えた。竿は甲板の上に横にして置いて、自分は頭を低く下げた。今にも雷が落ちるのではないかと恐怖で頭はいっぱい。この状況は船が伊東の港に着くまで続いた。わずか15分が1時間にも2時間にも思えた。

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2008年2月24日

釣りの思い出(1) 強風でボート流される

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今はもう釣りを止めてから2年余りになる。                                              家内の実家が伊東にあり、家でごろごろしていてもお邪魔虫なので、子供の頃を思い出して、釣りを再開した。

その頃海辺近くに梅原さんとい人が釣具屋をしていた。                         釣りを再開した頃は、梅原さんの貸しボートをアンカー(錨)付きで借りてポイントを教えてもらって釣りをしていた。伊東の湾内のポイントには漁船が沈めてあり、そこに魚が集まるとのこと。ポイントにアンカーを打って船を固定した。ここではカイワリ、鯵などおかずくらいは結構釣れた。

あれはたしか5月頃だが、アンカーを打って釣りをしていたら、突然強風が吹き出した。これは危ないと思いアンカーを揚げようとしたが、水深が30メーター位あって、アンカーの真上まで行くのにかなり時間がかかる。

やっとアンカーの上に来たが、30メートル余りのロープをたぐりよせるのに時間がかかる。船が風圧を受けているので、アンカーが海底を離れてから船まで上がってくるまでに、ボートはまたたくまに数100メートルは流される。ぞっとした。怖くなった。どこまで流されるんだろうかと。

そこで考えた、いや岡山県の下津井でボートで流された時のことを思い出した。風に逆らうことはできない。そうだ、風に流されながら、陸の方へ向って斜めにオールをこぐことを。思い出したら恐怖心はなくなった。オールを漕いだ、漕いだ。なんとか宇佐美近くから陸伝いに伊東のb-ト置場へ帰ってきた。

反省点 : ①.気象、天気を調べてから釣りに行くこと。                                        ②.自分の力を過信しないこと。                                                  学生時代に貸しボートのオールを折ったくらい私は腕力があった。                         ③.他人を頼りにしてはならないが、困った時は素直に他人の助けを借りること。                    実はロープを引っ張っている時に漁船が引いてあげようと言ってくれたのを断っていた。

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2008年2月20日

悲しい言葉「間引き」

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私は岡山県の南部、玉野市に生まれ、18歳まで玉野で育てられた。
母は岡山県生まれ、父は香川県生まれ。
現在、岡山県は気候温暖で、豊かな国として知られている。
でも学生時代に母から忌まわしい、悲しい話を聞いたことがある。
昔食べて行くのがやっとという貧しい家では、赤ちゃんが生まれるとすぐ
菰に包んで旭川に流していたらしい、とのこと。
父からも似たような話を聞いたことがある。
食うや食わずの家に赤ちゃんが生まれると、この次はもっと金持ちの家
に生まれてくるよう諭して、穴を掘って埋めることもあったようだ。
これを称して「間引き」というのだそうだ。
父方の祖父は、6歳で高松に丁稚奉公に出され、行った先で同い年の
子供の子守りをした、という話も聞いた。昔は食いぶちを減らすために、
次男坊以下は早くに家から出されたそうだ。祖父は飢饉の時は、松の
皮まで食べたという。
昔凶作の時には、この物資豊富な世の中では考えられないような
「間引き」が時として生きるために行なわれることもあったようだ。
昔の人は、生きるためとはいえ、やむにやまれず、忌まわしく、悲しい
ことをせざるを得なかったこともあった、と聞いた。

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2008年2月14日

格闘技ファン

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私は子供のころ岡山県玉野市という瀬戸内の田舎町で育った。
小学生のころ近所の渡木の政子ちゃんの家へよくテレビを見せてもらいに行った。
悪がき5~6人でお邪魔する。目的はプロレスのテレビ番組を見るため。
力道山全盛のころだ。そのころ、三井造船の清輝寮でボクシングの試合があるという
ので見に行った。これがボクシングを目の前で見た初めて。2回目は社会人になって
まだ独身の頃だ。東京の後楽園で藤猛(ふじ たけし)の試合を見た。藤猛の相手が
簡単に倒れたのでびっくりした。
ボクシングを目の前で見たのはこの2回だけ。あとはテレビばかり。
ボクサーで名前を覚えているのは、ファイティング原田、青木勝利、大場政男、沼田義明、
海老原博幸などである。日本人ボクサーでノックアウト・パンチがあったのは、やはり
何と言っても海老原博幸だ。彼のパンチは「カミソリパンチ」で有名だった。1発で相手を
倒す醍醐味のあるボクサーだった。いまだに彼ほどのパンチを持ったボクサーを見たこと
がない。
外国の世界チャンピオンでは、ブラジルのエデル・ジョフレ。彼は「ロープ際の魔術師」と
言われ、ロープを背にしてカウンターで1発で相手をマットに沈めるハードパンチャー。
彼のボクシングは芸術品だった。
ボクシングの後は、キック・ボクシング。その次は現在K1(ケーワン)などを見ている。
格闘技は、世の中が豊かになると、弱くなる。
悲しむべきか?喜ぶべきか?

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2008年2月13日

大阪勤務の時代 : 大きな録音機で講演録作成

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関西IBM研究会の事務局を担当していた時、甲南大学の岸本英八郎先生に講演を
お願いしたことがあった。講演内容を講演録にすることになった。専門の人にお願い
する予算がないので私が会社の録音機を借りて、アパートまでタクシーに乗せて帰り
録音された講演を聞いては、文字にする。この先生早口で声が小さいので聞き取り
ずらい。何度も何度も聞き返す。話されたとおりでは文字にならないので、文字に直す。
こうして10倍以上の時間をかけてやっと講演録の原稿ができた。
なんでもやってみるものだ。やってみないとわからない。いい経験になった。
こんなバカなことは二度とやってはならないと。

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2008年2月11日

私が鳥をあまり食べない理由

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私が小学生のころ家では鶏を飼っていた。
雛を買ってきて、餌をやって大きくして卵をとるためだ。鶏が大きくなるよう育てると
愛着がわいてきて可愛くなってくる。
餌は米屋から買ってきた糠に大根の葉っぱを刻んでいれる。それに時々牡蠣や貝の殻を
金づちでたたいて細かくして混ぜる。カルシュームが不足すると卵の殻が柔らかくなるのを
防ぐためそうしていた。家の裏に鶏小屋を造って鶏を6~7羽飼っていた。
たまにイタチに取られたり猫にもっていかれた。
実は人間にももっていかれた。
当時は戦後で物のない頃、大人たちが集まると酒を飲み、酒には肴が要る。その酒の
肴に私が飼っている鶏が徴用されるのだ。鶏はスキヤキにされる。鶏でも、牛肉でも、魚
でも同じだが、とれたて、屠殺直後は肉が固い、あるいはしわい。うまみも少ない。
子供心に自分が飼っていた鶏を食べる気にはなれない。スキヤキにした鶏肉を口に入れても
固いのと、何かいけないことをしているような気がしてはきだした。
それと、大学生のころ友人と新宿を歩いていたら、鶏の足をもって刺身包丁のようなもので
首をチョンと切って、お湯が入った醤油樽に放り込んでいるのをたまたま見かけた。
また子供のころ近所の肉屋の裏の川に鶏を逆さにつるして首をはねて血が出ているのを
見たこともある。
どうも自分が飼っていた鶏とイメージがダブッテ、なんとなく食べたくないのである。
でも、冷静に考えると、私が食べているものは、いや人間が食べているものは皆生き物で
ある。自分が飼ったことのない豚肉、牛肉、自分が栽培したことのない米、麦、野菜、イモ
・・・は平気で食べている。
命をいただいて生きているのだから、贅沢しないでいただく命はできるだけ少ない方がよい
のではないでしょうか?

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2008年2月10日

大阪勤務の時代 : お願いしてないのに・・・

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確か昭和42年(1967年)の春ごろのこと。
関西IBM研究会が終わって、日本生命のK部長と一緒の帰り道のことだった。
梅田駅の地下道まで来たとき、K部長が突然「有馬さん東京へ帰りたいんでしょう?
今度東京で委員会がありお宅の竹下本部長と会うから帰れるように言ってきてあげます」
と言いだされた。私は「お気持ちはありがたいのですが、社内の問題なので、どうか
そのような話はなさらないでください。」とお断りした。
にもかかわらずK部長、竹下本部長と話をつけてこられた。K部長、東京から帰って
こられると「話しつけてきたよ。そのうち帰れるから、待っていなさい。」との話。
肥後もっこすの竹下本部長のこと、きっと雷が落ちてくる、と覚悟していたが、雷はなしで
その年の9月1日付で東京転勤になった。
これには訳がある。当時全U協(全国IBMユーザー協議会=IBMユーザー研究会の
全国組織)の事務局を担当していたWさん(日本では高校しか出ていない)が、会社を
休職してアメリカの大学へ私費留学するので後任にどうかと直接私に話がありOKの
返事をしておいた。多分WさんがK部長に打診したのだと思う。
それにしてもWさん、私なんかと比べると大したものだ。お父さんが早くなくなり、母親に
育てられたとのこと。私と同じ貧乏人の息子。どこだったか忘れたがちゃんとアメリカの
大学を卒業して帰国した、IBMに復職した。

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2008年2月 9日

大阪勤務の時代 : 夜中にお客さんを送ったが・・・

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ある時T社という商社のS次長と一緒に飲んで、箕面のご自宅へ送ることになった。
私が石橋に住んでいたので近く夜中でもあるのでタクシーでお送りすることにした。
Sさん玄関を開けて、是非寄って行けという。夜中なのでお断りしたが聞き入れない。
しようがないので、お邪魔した。そしてらSさん奥さんに「有馬君が是非寄りたいという
ので、連れてきた」と言うではないか。奥さん渋い顔をしている。この人今何時だと思って
いるのか、と顔に書いてある。Sさん自分が引っ張りこんでおいてそれはないでしょう?
と思ったが、Sさんに恥をかかせるわけにはゆかないので、黙って座敷に上がった。
幸いタクシーを待たせておいたので、ビールを1杯ご馳走になって、早々に失礼した。
このSさん日頃私を贔屓にしてくれていたので、まあしょうがないかと忘れることにした。

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2008年1月27日

大阪勤務の時代 : ビジネスショーのコーディネーター

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事務機部大阪営業課に1年くらい所属の間に、一度事務機部だけでビジネスショーに出展
することになった。NOMAとの交渉、広告会社との交渉、電動タイプライター、磁気会計機の
手配、搬入/搬出の手配、デモの内容のコーディネーション、デモンストレーターの手配、訓練、
のコーディネーション、CEの手配、予算管理を1人で担当した。
今考えるとよくやったものだと思うと同時に、すごくいい経験をさせてもらったと思う。
東京から来てもらった女性のデモンストレーターのHさんからちょっと話を聞いてほしいいと
言われて喫茶店で話を聞いたことがある。
彼女が宿泊していたホテルにSという男性のSEが宿泊していて、そのSがHさんの部屋へ
やって来て関係を迫った、と言って泣きつかれた。2人とも30歳前後だった。
ビジネスショーの期間中であり、私としても誰かに相談できる問題でもないので、なだめ
今度同じことがあったら言ってほしい、私がSと談判するから、と言って引き取ってもらった。
幸い再度私に連絡がなかったので、事件はなかったものと胸をなでおろした。

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2008年1月26日

大阪勤務の時代 : 零細企業?の事務担当

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大阪では最初事務機部という部門の営業事務を担当した。
営業、SE、計15~6名+CE6~7名の事務機部大阪営業課の事務だった。
大阪営業所とはラインが別になっていた。
事務機部という部門は、電動タイプライター、磁気会計機を販売する部門。
その頃電動タイプライターは、バー方式(バー(棒)の先に活字が彫られていて、それを紙に
打ちつけて印字する)とエレメント方式(エレメントというゴルフボール状のものの表面に活字
が彫られていて、それを打ち付けることで印字する)の2方式があった。
世の中のタイプライターはバー方式だったが、IBMのエレメント方式は特許製品ですごく
人気があった。
仕事の内容は、お客様からの電話応対、営業成績の集計と報告、電動タイプライター、
磁気会計機の在庫管理、部品の在庫管理、請求書/納品書/領収書の発行、入金処理、
お客様からの電動タイプライター、磁気会計機のトラブル、故障の電話受付とCEの手配等
事務全般を私と平井貴子さんという女性の二人で担当した。
丁度零細企業の事務屋をしているようなものだった。
当時も大変だとは思わなかったが、今思うと幅広く営業所の事務全般を経験してよかった
と思っている。

*C E = Customer Engineer 機械のエンジニア

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2008年1月25日

大阪勤務の時代 : 朝まで飲んだことも

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私のすぐ上の上司は、Mさんという柔道二段の酒豪だった。
時々3~4人で飲みに行った。
皆まだ二十歳代の若者ばかりで少々飲んでも酔わない。
そこで、まず安い飲み屋へ行き、少しほろ酔い加減になってから、北の新地へゆく。
まだ大阪万博の前で、梅田の阪神ビルの裏がスラムのような一角があって、その中に
立ち飲みの飲み屋があった。ここは安いのがとりえ。
立って飲むと、座って飲むより酔いが早いように感じた。
今となっては何を飲んだか、何を食べたか、さだかな記憶はない。
二軒目は北の新地のクラブ。ここのママさんが元某社のキーパンチャーのスーパー
バイザー(コンピューターに読ませる紙のカードに機械で穴をあける女性たちの主任
か係長)でMさんが前記某社へ出入りしていたので、話が合うし、IBMということで
好待遇してくれた。
大体二軒で終わるが、ある時はどこでどう飲んだのか朝空が白んでくるまで飲んで、
石橋までタクシーで帰り、顔を洗って、着替え9前には出勤した。
その日はたびたび水飲み場へ通った。2日酔いで水ばかり飲んでいた。
多分周りの人は酒臭かったろうと思う。
その晩は軽く石橋のスナックで飲んでアパートへ帰って寝る。
翌日は気分もスッキリ、バリバリ仕事をこなした。

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2008年1月24日

大阪勤務の時代 : 恐妻家の上司と飲んだが

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ある時Sさんという上司に北の新地でご馳走になった。
この方、浅草出身のチャキチャキの江戸っ子。奥さんも浅草でこちらも江戸っ子。
Sさん会社では総務課長で部下が6人いて、私はそのうちの1人。
口数は少ないが、白黒のはっきりした人だった。
北の新地で飲んで、今晩は家に泊まれ、一緒に帰ろうということになった。
Sさんも私もいい気分になったが、Sさんはアルコールに弱く、タクシーに乗ると間もなく
いびきをかいて眠り始めた。私はSさんの家にお邪魔するのは初めてで、本人と一緒な
ので安心していた。私はSさんの家が何号棟の何号室か知らなかった。
茨木の団地に着いたのでSさんを起こそうとしたが、呼べども、揺り動かしても一向に
起きてくれない。タクシーの運転手さんも迷惑顔。
その時あることを思い出した。Sさんは恐妻家だとの噂を。
そこでSさんに「奥さんが迎えに来られましたよ!奥さんが迎えに来られましたよ!」と
言うと、ガバッと跳ね起きた。それでやっとSさんの家へ到着できた。
奥さんは起きて待っていた。
Sさんは家に着くと布団に寝かされてまたいびきをかいて寝はじめた。
奥さんが「有馬さん飲みましょう」と言ってくれたので、寝てる旦那を横にして、奥さんと
差し向かいでビールを飲むことになった。
大変お世話になりました。ありがとうございました。
今Sさんと奥さんはどうしていらっしゃるのでしょうか?お元気でしょうか?

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2008年1月22日

天照大神様と大日如来様

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天照大神様といえばすぐ伊勢神宮を思い出す。
今まで天照大神様とはどんな神様だろう?とあまり考えたことはなかった。
ただ漠然と日本で最高の神様とぐらいにしか思っていなかった。
最近「天照」という文字から考えた。
天=頭上に高く広がる大空=宇宙と考えると、天照大神様とは太陽のことではないか?
と考えるようになった。私は子供のころから太陽のことを「お日さま」と呼んできている。
私の母は毎朝お日さまに向かって手を合わせて何事かを拝んでいた。
仏教でも「大日如来様」がいらっしゃる。多分大日如来様もお日さまのことだと思う。
大日とは偉大なる太陽=偉大なるお日さまのことだろう、と考えた。

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2008年1月21日

大阪勤務の時代 : ジュークボックス

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その毎晩のように寄るスナックには、ジュークボックスが置いてあり、石原裕次郎の
「夜霧よ今夜もありがとう」をよく聞いた。
ジュークボックスというのは、今ではお目にかかることはない音楽の自動販売機で、
内部に多数のレコードを内蔵し、硬貨を投入して聞きたい曲のキーを押して音楽を
演奏させるもの。カラオケと違って聞くだけ。
私は現在パソコンを2台、デスクトップ1台、ノートパソコン1台を持っており、iTunesの
ソフトを使用して、数千曲、演歌から、タンゴ、サンバ、ボサノバ、ラテン、ダンス音楽、
クラシックまで多彩に曲を取り込んである。デスクトップには約6000曲、ノートパソコン
には約4000数百曲が入っている。iPhoneを買おうかと思ったが、あまり出かけない
ので、これで十分である。出張の時は、夜ビールを飲みながらノートパソコンで音楽を
聞いている。

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2008年1月19日

大阪勤務の時代 : アパートを引っ越す

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冬には田んぼのど真ん中ではかなり冷える。そのため水道管が凍ってしまうこともある。
ある時水道の栓を閉めてそのまま会社へ行って帰ってきたら、大家からえらくお叱りを
受けた。水道の水が出っぱなしになっていて、下の部屋が水で濡れた、とのこと。
水道の栓を閉めないで凍って、凍結が溶けて、他人に迷惑かけたならならこちらの責任
だが、私は勿論水道の水を出しっぱなしにはしていない。申し訳ないとお詫びした。
大家の未亡人のおばさんがであまりにもひつこいので、アパートを変わることにした。
四男坊の功に引っ越しの手伝いにきてもらって、リヤカーに荷物を積んで、新しいアパ
ートへ引っ越した。途中小川に本を落としたりしながら移った。
新しいアパートは、石橋駅の裏手にあたる方向にある。
石橋駅からアパートへは、1本道でその道を通らないと帰れない。
その帰り道にスナックがあってかわいい女の子が1人いた。

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2008年1月16日

大阪勤務の時代 : 夏の暑さの逃避場所

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阪急・宝塚線の石橋駅の近くになじみの寿司屋があった。
おかみさんが浪速千枝子に似た人で、この店はバッテラ寿司がうまく、赤だしの味噌汁が
でる。暑い時はこの店でビールとバッテラで夕食をすませて、近くの3本立ての映画館へ行く。
当時はクーラーなどサラリーマンで持ってる人はいなかった。
西日に照らされた蒸し風呂のようなアパートへ帰るのは、どうも気がすすまなかった。
時に映画館で寝て帰る。
目が覚めると、網走番外地で高倉健が出ていたり、藤純子なども見たような記憶がある。
最近DVDで女博徒の藤純子を見た。ほんと若くてきれいだった。
九州弁がまた生きていた。

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大阪勤務の時代 : 関東、関西の塩味のちがい

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東京から大阪へ転勤して困ったのは、食べ物の塩味の違いだった。
石橋駅前の中華屋へよく行った。
ここではラーメンとチャーハンをよく食べた。
学生時代には、東横線・日吉駅前にある好楽という中華屋の醤油味のきいたチャーハン
がお気に入りで、よく食べた記憶があり、この好楽のチャーハンと比較しながら、食べた。
石橋の中華屋のラーメン、チャーハンは味が薄くてものたりないので、毎回醤油を持って
くるように依頼していたら、2~3ヶ月もしたらラーメン、チャーハンを頼むと黙っていても
醤油さしを持って来てくれるようになった。
大阪に2年勤務して東京へ転勤で帰ったら、今度は東京のラーメンはドンガラクなった。
人間の環境順応性ってどうなっているのでしょうか?


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2008年1月15日

大阪勤務の時代 : 冬の銭湯帰りの手ぬぐい

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私は昭和41~42年頃、順慶町にあるIBM大阪営業所勤務だった。
住まいは、阪急・宝塚線の石橋駅から歩いて15分くらいのところにアパートを借りて
住んでいた。西国街道に近い田んぼの中のアパートだった。そのアパートには、私を
入れてIBMの社員が住んでいた。アパートには風呂がないので歩いて10分ばかり
の銭湯へ行かなくてはならない。
冬など銭湯へ行って、手拭いと石鹸箱をぶらさげて帰り、アパートに着くと手ぬぐいは
半分凍って硬くなってパリパリの状態である。

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2008年1月 9日

七草粥

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正月7日に正月料理で負担の重かった胃をいたわるためと、無病息災を祈って
春の七草を入れた粥を食べる風習がある。
昔平安朝のころ中国から伝来したと聞いているが、今中国にこの風習が残って
いるかどうか?
上海あたりでは、フランス料理を食べているかもしれない。
我が家では七草粥に餅を入れて今年もいただきました。

春の七草とは、

  ①.セリ
  ②.ナズナ
  ③.ゴギョウ
  ④.ハコベラ
  ⑤.ホトケノザ
  ⑥.スズナ (かぶ)
  ⑦.スズシロ (だいこん)

* 私が生まれて育った家の前には川が流れていて、セリがいっぱい生えていた。
  セリが食べられる草だと知ったのは、結婚して家内に聞いてからだった。

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2008年1月 2日

中国のバブルは何時崩壊するのか?

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中国が今バブルだということに異論をとなえる人は見かけたことがない。
大体2010年~2012年にバブルははじけるというのがほとんどだ。
しかしこれに異論をとなえる人がいる。
中国は人口が15億もいてまだまだ10%以上の経済成長は続くという説がある。
まだ15年以上は大丈夫だというのだ。
私自身は2012年頃中国のバブルがはじけて、世界が大不況におちいるのではと
考えている。
バブルがバブルでなく、このまま行ってくれれば言うことはないのだが・・・。

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2008年1月 1日

氏神様への初参り

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2008年1月1日 零時がきたので、親子3人揃って、氏神様である氷川神社へお参りに
行った。
社務所で祈祷申込書に氏名、住所、生年月日などを記入して待つこと40分。
いよいよ呼ばれて拝殿に入りお祓いを受けた。
この慣習は相模原へ引っ越して来てからずっと続けている。すでに28年になる。
お祓いを受けない人は例年のように長々と列を作って並んでいる。
我々お祓いを受ける人は大きな焚火のまわりで暖を取りながら待つ。
お祓いを受けるのに例年1時間以上待たされるが、今年はお祓いを受ける人が少なく
40分くらいですんだし、焚き火のまわりの人の数も昨年より少ないように感じた。
また、これまで毎年拝殿にはお酒や米などが沢山奉納されていたのに、これもわずか
しかなかった。
これは日本が衰退してきていることの表れの一端なのだろうか?
さびしさを感じた。

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2007年12月31日

マネー・ゲームの悪循環

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中近東、北欧、中国・・・の国々がファンドを作り、世界に投資する。
証券化されたサブプライムローンに投資する。原油にそしてトウモロコシ、大豆・・・
に投資する。
原油に投資すると、原油の値段が上がる。原油の値段が上がると中近東等の国に金が
入る。その入った金をまた投資に回す。
これで行くと、金持ちはますます金持ちになる。
原価5ドルの原油が100ドルにもなる。トウモロコシも大豆も高騰する。
値段が上がった分は我々消費者が支払わされる。
ガソリンもトウモロコシも大豆も我々が普通の生活をするための必需品で、贅沢品ではない。
人を犠牲にして金持ちになるというマネー・ゲームはどこか間違ってはいないだろうか?
自由というのは何をしてもよいということなのだろうか?
人を喜ばせて金持ちになるのであれば大賛成だが。

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2007年12月30日

母と餅つき

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私の故郷は岡山の瀬戸内沿いの玉野というところ。
正月近くなると私の家では物置から石臼と杵を出して餅を搗く。
私が小学生の頃は父と母が二人で餅を搗いていた。
私は5人男ばかりの兄弟の長男で、体が大きかったので、中学生の頃には
母と二人で餅を搗くようになった。
10臼から12~3臼搗いた記憶がある。
おくどさんに槇で釜に湯を沸かし、その上にもち米を入れた蒸し器をかける。
蒸す時間は、確かな記憶はないが、40~50分くらいかかったのではないかと思う。
もち米が蒸しあがる頃、臼を暖めておく。薄が冷えているといい餅が搗けない。
もち米が蒸しあがると、臼の上へ蒸し器をもってきて、ひっくりがえし、臼に蒸した
もち米を入れる。そして、最初は杵でもち米をこね、いいかげん餅らしくなってから
杵で搗く。母にうっ手返しをしてもらいながら、杵を打ち下ろす。二人のタイミングが
合わないと怪我をすることになる。母と私は親子でとても気が合っていたので全然
心配はなかった。いつも母と一緒だといい餅ができた。
私は母の19歳の子だから中学生の頃は、私が13~4歳、母が32~33歳で、町を
二人で歩いていると兄弟と間違えられた。それは私自慢の美しいい母だった。
その母が1976年に亡くなってから来年ははや32年になる。
母との餅つきは昨日のことのように思い出せるが、時間はもう31年も過ぎてしまった。
思い出すとと母は昔のようにいつも微笑んでいる。

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2007年12月29日

鈴木さんのこと

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今から40年前私がまだ25~6歳のころ、私は日本アイ・ビー・エム(株)で全国IBMユーザー
協議会(通称「全U協」=ゼンユウキョウ)の事務局業務を担当していた。
全U協の事務局業務というのは委員長の秘書か雑用業務が仕事である。
ある時日本石油さんの鈴木部長様が全U協の委員長をされていた時代がある。
お酒の好きな方で、会社では侍のように無口で必要なことしか話されない。
しかし、お酒が入るとにこにこと多弁になるいいお酒である。
日本石油さんは西新橋にあり、筋向いに広島の酔心という料理店がある。
私はこの酔心で鈴木さんにずいぶんご馳走になり、酒の飲み方も教わった。
鈴木さんに教わったことでいまだに思い出し自分を戒めていることがある。
それは、「他人を逃げ場をなくしたり、徹底的に追い込んではならない、お互いにサラリーマン
同士だから。」という教えである。何もサラリーマンに限ったことではないと思う。
近頃はサラリーマンという言葉をあまり聞かなくなったが、鈴木さんの教えは現在のような
ギスギスした時代には昔よりももっともっと心しなくてはならないことだと思う。
最近の食品偽装の問題、政治のねじれにともなう問題などは、他人をだましたり、他人に
あまえているのではないか?

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2007年12月28日

かゆいシマノスケ

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シマノスケが右目のあたりを右足の鋭い爪で何度も掻いている。
右目の下がはれている。
とうとうシマノスケの右目の近くから出血した。
家内がそれを見てティッシュでふいてやる。
私がかゆいのなら、抗ヒスタミンの軟膏でも塗ってやったらどうかと言うと、なめると
どういうことになるかわからないので、できない、と言う。
しばらくは消炎剤と抗生剤をのませるしかないのか?

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2007年12月27日

シマノスケの不調

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この2~3日シマノスケが体調不良。
本人の右の眼の上が腫れている。かゆいのかしょっちゅう右足で盛んに掻いている。
生まれてこのかた爪を切ったことがないので、足の爪は長く、先は尖っている。
このためかくと眼のあたりに傷がついているのではないだろうか。
そこで今日3時に町田の動物病院へ家内と2人でシマノスケを連れて行った。
注射はシマノスケにとって大きなストレスになるので、やめて薬をもらってきた。
薬は、消炎剤と抗生剤でしばらくのませるように言われた。
人間と違って薬はそのままでは飲まないので、プリン、シュークリームなどに混ぜて
食べさせている。先日などモンブランに薬を入れて食べさせた。
シマノスケ、あまり気に入らないものだと、自分の手にとらないで、家内にプラスティック
のスプーンを持たせてスプーンにのったシュークリームヤモンブランを、口を持って行って
食べている。
ブドウは食べる、イチゴは食べる、ピスタッチオなんか大好物、シュークリームからモンブラン
まで食べるグルメなシマリス、シマノスケに長生きしてほしい。

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2007年12月26日

シマノスケの足の爪

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シマリスも7年半も生きていると爪が伸びる。
伸びるといっても、切らないから異様に長くなり、かつ鷹の足の爪のようにカギ状になる。
このカギ状の爪が布にひっかかり、動けないので一人バタバタともがく。
家内があわててケージを開けて布から爪をはづす。
人がいないときはどうなるのだろうか?
爪を切るといっても切ったままだと、角がギザギザになってまたひっかかるので、ヤスリ
でなめらかにしなくてはならない。
体を人の手で押さえたままではあぶない。
ネットにシマノスケを入れると、またストレスが大きい。
本人にストレスがかからな良い方法はないものか?

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2007年12月25日

シマノスケの治療薬

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シマノスケは季節の変わり目に時々生殖器が痛くなるのか、しょっちゅう自分で
患部をなめている。
患部がどす黒い色になり、少し腫れているように見える。なんだかかわいそうな
感じがしてならない。
動物は口がきけないから人間がよほど気をつけてやらいといけない。当たり前だ。
自然で暮らしているところを人間の勝手で籠に閉じ込めているのだから。
獣医さんへ連れて行くと大抵インターフェロンの注射をする。人間だとインターフェロン
はガンの薬だがシマリスの場合はこれで体力を回復するとのこと。我が家へシマノスケ
がきてから7年半だから合計すると多分インターフェロンの注射を50本は打っている。
注射を打つ時はネット(網)に入れて、動けなくして注射する。シマノスケ本人はすごくストレス
を感じるらしく、ギャーというような声をあげて逃げ回る。最後は観念せざるを得ないのだが。
シマノスケの体力が衰えるのを見るたびにかわいそうになる。
今さら戸外に放すわけにもいかず、グルメを続けて、大事にしてやるしかないのだろうか?

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2007年12月24日

シマノスケの食事

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シマリスには通常ヒマワリの種やトウモロコシを与えると聞いている。
我が家では、これに加えて、リンゴ、みかん、ヤーコン、とうふ、シュークリーム、プリン、
たまにケーキなどが加わる。 ヨーグルトを食べた時代もある。
つい先ごろまではシュークリームを好んで食べていたが、最近はプリンに好みが変わった。
シマノスケはかなり過保護で、食べ物を家内が差し出しても自分の手に取らず、家内が
持ったままで食べることがよくある。ひょっとして横着なのか?
シマノスケは、自然状態では冬眠するころよく体調をくずして、獣医さんの世話になる。
シマノスケ、最近は夕方寝る前に食べ物を食べて、お腹を一杯にして、水を飲んでから
自分のねぐらに行く。夜中に時々オシッコに起きてきている。

* 写真は、京都・清涼寺境内の豆腐料理店「竹仙」(ちくせん)の招きタヌキ

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2007年12月23日

シマノスケと暮らして

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そもそもシマリスは次女の希望で飼い始めたものだが、次女が3年前にアパート暮らしを
はじめてからもっぱら家内が面倒を見ている。家内はシマリス婆になってしまった。
シマリスのハウスは居間の窓際に置いてある。
人間と違って日の出とともに起きて、日没とともに寝ている。
うちのシマノスケは寝る前にご飯を食べて、水を飲んでから寝る。夜中に時々オシッコの
起きてきたり、お腹がすいて食べ物を食べに来る。
1日に2~3時間は室内に出してやると、ピョコピョコ飛び歩きながら、部屋の中を巡回して
まわり、あとは家内の背中にのってじっとしている。
シマノスケが我が家へやってきてから7年になる。シマリスの寿命は大体7~8年だから
シマノスケは人間でいえば70~80歳なんだろう。このところケージの中のハウスに帰る
時ときどき手こずって落ちることがある。年なんだ!でも1日でも元気で長生きしてほしい。

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2007年12月21日

我が家にシマリス来る

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2000年5月21日(日)に我が家に家族が2名増えた。
シマリスのシマ子(メス)とシマノスケ(オス)である。
次女の希望で買うことになり、名前は次女が命名した。
2匹は我が家の近くのアイワールドという店のペット・ショップで¥4,980.で買った。
シマ子は調子がよくなかったので、5月24日(水)他のメスと取り替えてもらった。
名前はそのままシマ子にした。
何も知らずにオスとメスだからワン・ペアーで1つのケージで買うのだと思っていたら、
交尾の時以外は別のケージで飼わないと血みどろの喧嘩をするといわれ、ケージを
2つ並べることになった。
当初はシマ子は健康で、シマノスケの方が虚弱で、町田の動物病院へ通い、よく
インターフェロンの注射を打った。
しかし、残念ながら確か2年後にシマ子が亡くなったが、虚弱だったシマノスケは
2007年12月21日(金)現在なんとか健在である。

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2007年12月20日

(株)アイエックス 合併へ

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1999年7月30日(金)、(株)アイエックスが創立35周年を迎え、東京湾クルーズの船上で、
安藤多喜夫会長以下幹部が出席、お祝いの会食を行なった。
それから約2ヶ月経って、同年10月1日、(株)アイエックスは、日本ナレッジインダストリ(株)
と合併、アイエックス・ナレッジ(株)が発足した。
日本ナレッジインダストリ(株)は西尾さんという方が三井情報開発を部下を引き連れて出て
作った会社と聞いている。
私は人にこだわらないので別に違和感をいだかなかったが、中にはお互いに対立感を持った
人もいたのではないだろうか。

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2007年12月19日

(株)アイエックス 入社

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1999年7月1日(木)

株式会社アイエックス に理事として入社した。
日本ジェイ・ディ・エドワーズ(株)を退社する時に、(株)アイエックス の取締役だった
安藤準一氏に誘われて、お招きに応じたものでした。未だに安藤氏には感謝している。
私が入社した時には、すでに日本ナレッジ・インダストリ(株)との合併が決まっていた。
(株)アイエックスは、社員数が約1,500人で、ソフトウェア会社としては、大企業。
同社は1964年に現社長の安藤文男氏の父安藤多喜夫氏が(株)データプロセス
コンサルタントとして創業、1990年に(株)アイエックスに社名変更したもの。

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2007年12月18日

夫婦でハワイ旅行 (7)

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1999年6月21日(月)

08:50 ヒルトン・ハワイアン・ビレッジ レインボー・タワー をチェックアウト

09:45 ホテル発 Olioli Airport Express で空港へ向かう

10:15 ホノルル空港着

11:00 North West チェックイン

11:20 DFS で財布とバッグを買う

North West 21便 20番H/J席

 ホノルル発 13:43

 成田着 21:15

------------------

これより日本時間

1999年6月22日(火)

 16:15 成田空港着

 17:30 JTBパル・パーキング発

 自家用車運転

 19:30~20:10 古淵イトーヨーカドーで買い物

 20:30 帰宅

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2007年12月17日

夫婦でハワイ旅行 (6)

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1999年6月20日(日) 

オアフ島 サークル・アイランド・ツアー 08:00~17:30

①.ダイヤモンド・ヘッド

②.ワイアラエ

③.ハナウマベイ

④.ワイメア滝 (昼食&ダイビング・ショー)

⑤.Dole (パイナップル・プランテーション)

⑥.パール・ハーバー

19:00~20:00

⑦.Kirin Chinese Restaurant で夕食

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2007年12月16日

夫婦でハワイ旅行 (5)

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1999年6月19日(土) マウイ島日帰りツアー

①.ハレアカラ山頂散策

②.オリジナル・コーラル・ファクトリーで黒真珠他を買う

③.イアオ渓谷観光

④.マウイ・トロピカル・プランテーションで昼食

⑤.ラハイナ散策

⑥.砂糖きび列車に乗る

⑦.ホノルルのKumi’s Bistoro で夕食

(往路) ハワイアン・エアライン 516便 4番A/B席
     ホノルル発 08:47 カフルイ空港着 09:08

(復路) ハワイアン・エアライン 195便 14番A/B席
     カフルイ空港発 18:38 ホノルル着 18:56

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2007年12月15日

夫婦でハワイ旅行 (4)

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1999年6月18日(金)

①.08:00~08:50 タパ・ケフェで朝食

②.08:50~09:30 ワイキキの浜辺散歩

③.10:30~12:10 アラモアナ・ショッピング・センター

④.13:00~14:30 ワイケレ・アウトレットでショッピング

⑤.18:00~19:30 ヒルトン・ハワイアン・ビレッジ・レインボー・タワー1Fの
              Golden Dragon で Welcom Dinner
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2007年12月14日

夫婦でハワイ旅行 (3)

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1999年6月17日(木)  ハワイ島日帰りツアー

(往路) ハワイアン・エアライン 148便 14番 E/F席
       ホノルル空港発 08:52 ヒロ空港着 09:28

(復路) ハワイアン・エアライン 361便 20番 A/B関
       ヒロ空港発 18:13 ホノルル空港着 18:48

①.レインボー滝観光

②.ビッグ・アイランド・キャンディ・ファクトリー見学 (マカデミアナッツ手作り工場)

③.キラウエア火山観光

④.アカツカ・ガーデンで蘭見学

⑤.カラパナ海岸観光

⑥.マウナロア・ビジター・センターでマカデミア・ナッツ工場見学

21:30~23:00 ニコラス・ニコラス (アラモアナ・ホテル36F)で夕食

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2007年12月13日

夫婦でハワイ旅行 (2)

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1999年6月16日(水) 

 8:00~ 9:00 レインボー・ラナイで朝食
 9:00~ 9:30 レインボー・ファッションでアロハなどを買う
11:00~12:45 サブマリーン・アトランティス・ツアー参加
            観光用の潜水艦に乗り、ワイキキ沖の海底を見た
            一面白い砂で階層は全くない、魚もあまりいない
13:00~14:00 アラモアナ・マウイダイバーズ
14:00~15:00 アラモアナ・ショッピング・センターで娘のためルイ・ヴィトンの
            財布を買う
15:00~16:00 ワイキキのDFSギャラリアでショッピング
16:00~17:00 ヒルトン・ホテルへ帰りシャワーをあびる
17:00~18:00 アイランド・コロニー Room No 1718 に尾崎 功 を訪問
18:00~20:00 尾崎 功 にアイランド・コロニーの中華店でご馳走になる。
20:00~22:00 尾崎夫妻他とハワイアン・ショッピング・センター他を散策

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2007年12月12日

夫婦でハワイ旅行 (1)

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1999年6月15日(火)夫婦でハワイ旅行に出発した。」
飛行機は、North West 22便、成田発21:05、ホノルル着09:02(現地時間)。
座席は38番のA/B。
11:00~12:00 OLIOLI PARK で昼食。
13:00 ヒルトン・ハワイアン・ビレッジ レインボー・タワーにチェックイン。
Room Number 2609 。
20:00~22:20 シェラトン・プリンセス・カイウラニでハワイアン・ディナー・ショーを見る。

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2007年11月14日

就職 : 日本ジェイ・ディ・エドワーズ(株) (5)

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デンバーの街をあるいて日本のような酒屋をさがしたが1軒も見つからなかった。
ウィスキーかブランデーを買ってホテルの部屋で水割りで飲もうと思ったが、ウィスキー
にもブランデーにもお目にかからなかった。
ホテルの部屋に冷蔵庫がありビールは入れてあったが、高い。
スパーマーケットなら酒を売っているだろうと思ってホテルでスパーマーケットはないか
聞いてみたら街はずれにあるという。
確かタクシーで20分くらいのところにスパーマーケットがあった。
ハワイのアラモアナのスーパーほどきれいではなかったが、ビールを売っていた。
このスーパーにもウィスキーもブランデーもなかった。
ビールの小瓶を1ダース買った。
値段は、ホテルの4~5分の1くらいだったように記憶している。
夜デンバーのも寿司屋がると聞いて原嶋さん、正木さんと3人で出かけた。
アメリカ大陸のど真ん中に「しのだ寿司」という寿司屋があった。アメリカ人が沢山来ていた。
六本木でも経験があるが、あの毛むくじゃらの腕で寿司を握られると味が落ちるような気が
した。大西洋から飛行機で運んでくると時間もかかり、味が落ちたのかもしれない。

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2007年11月 1日

就職 : 日本ジェイ・ディ・エドワーズ(株) (4)

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1998年6月22日(月) 13:00
次のお客様が到着されるので、デンバー・インターナショナル・エアポート(DIA)
までお出迎えに行った。
①.ビジネスバンク 浜田様
②.ダイヤモンド・コンピューター 三戸様、桑原様
③.中央クーパース 和田様、笠原様
この時だったと記憶しているが、生まれて初めてリムジーンという乗り物に乗った。
まあなんと豪華な車か。走る応接室という感じがした。いかにもアメリカらしいと思った。

その夜、「The Fort」 (砦=とりで)というところで Welcome Party があった。
昔西部劇でよく見たアメリカの騎兵隊が使用した砦が今や観光場所になっていた。
子供のころ西部劇を何度も見たが、いつも騎兵隊(白人)がインディアンを攻撃し、
勝利する単純明快な映画だった。子供だから何も考えないで面白いと思った。
しかし、今考えると、アメリカ人というのはとんでもない人種だ。
先住民を鉄砲で殺し、追い散らして、自分の国にしてしまうのだから。
ヨーロッパから夢を求めて新大陸に渡るまではよい。でも、自分のものにする権利は
ない。アメリカ人は今またイラクで同じことを繰り返している。

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2007年10月28日

就職 : 日本ジェイ・ディ・エドワーズ(株) (3)

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デンバーという町は治安のよい町で、夜一人で歩いても怖いと思ったことは一度も
なかった。
町の中心街を無料のバスが巡回しておりこれもいいなと思った。
ある時このバスに乗ってレストランへ食事に行った。パンを頼んだら、まな板のような
板(ただし形は正方形にちかい)の上に大きなメロンパンの何倍もありそうなパンが
乗せられて、そのパンにナイフを突き刺して持ってきた。これとは別に大きな皿に
オリーブオイルを入れて持ってきた。パンをナイフで切ってオリーブオイルをつけて
食べろという。その大きさ、荒っぽさに驚いた。
ある時ブラウン・パレス・ホテルでベーコン・エッグが食べたくなって注文したら
大きな皿にスクランブル・エッグとベーコンが山のように乗ってきた。
やはり我々日本人と違って体のサイズが大きいので食べる分量もそれに応じて
多いのかもしれない。でもあんなに食っていると病気になるだろうと思った。

デンバーから高速バスに乗って1時間くらいのところにボルダーがある。
日本では有森さんがボルダーで高地トレーニングすることがあると聞いていた。
また、当時ボルダーでジョンベネちゃん事件というのがあった。
第一勧銀の落合さんという方がボルダーへ行ってきたと自慢していた。
私も時間が空いたので、高速バスでボルダーへ行ってきた。
タクシーに乗ってコロラド大学周辺とジョンベネ・ハウスを見てきた。
タクシーの運転手さんがジョンベネ・ハウスの側に住んでいたことがあるとの
ことで喜々として案内してくれた。
その頃はジョンベネ・ハウスには人は住んでいなく、庭へ入ったが草がかなり
伸びて木造の家はなにか幽霊ハウスのような感じがした。

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2007年10月24日

就職 : 日本ジェイ・ディ・エドワーズ(株) (2)

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1998年6月20日~6月27日 初めてアメリカ本土へ出張することになった。
そのころ日本ジェイ・ディ・エドワーズ(株)の社長は日本人でIBMOBのHさんだった。
デンバー出張に条件を出されたので、実行、条件を満たしたが、なかなか出張命令
を出さないのでいらいらしたがやっと出張命令が出た。
6月20日(土)成田から UA1196便に乗り、ロサンジェルス経由でコロラド州の
デンバーへ行った。ロサジェルスを飛び立って小1時間経つと飛行機の下にグランド
キャニオンの渓谷が見える。渓谷がどこまでも続いている。アメリカの広さを実感した。
一緒に行った女性秘書は何度もデンバーと日本を往復しているらしく気持ちよさそうに
寝ていた。私はおのぼりさんのように広大な渓谷を見てどきどきした。
デンバー空港についてまた驚いた。空港の周りには家が全然見えないのである。
成田などは空港の周りに家が沢山あるがデンバーにはない。しかも確か滑走路が
3本もある。こんな国と戦争したって勝てるわけがないと思った。
デンバーではブラウン・パレス・ホテルという一流ホテルに泊めてくれた。
しかし、冷蔵庫のビールの価格はスーパーマーケットの何倍もするので、タクシー
に乗って郊外のキング・スーパーまで買いに行った。
このホテルの部屋のバスは、湯船はなくシャワーがあるだけ。しかも、シャワーは上
から一方向にしか出てこないので、シャワーに体を合せなければならない。
アメリカ人はお尻をどうやって洗うのだろうか?それとも洗わないのか。
私は小さな洗面器を日本から持って行ったのでお尻も前も洗うことができた。
器具に人を合わせるというアメリ人の思考方法に問題アリと見た。

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2007年10月22日

就職 : 日本ジェイ・ディ・エドワーズ(株) (1)

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日本アイ・ビー・エム(株)OBの金子一郎氏のお誘いがありビジネス・パートナー
部長として1998年3月1日入社した。
私が入社した頃は会社は九段の靖国神社のすぐ近くにあって昼食時に金子氏
と時々靖国神社にお参りしたり、散歩した。
金子氏は若くして亡くなられたが、日本ジェイ・ディ・エドワーズ(株)の名前もなく
なり、会社も引っ越したそうだ。
J.D.Edwards は OneWorld というクライアント・サーバー・システムの
ERPで失敗した。トラブルが続出して正常に対応ができなかったので、売れなく
なった。
第一番目に集中処理のシステムである WorldSoft は安定しており、実績も
あったが、クライアント・サーバー・システムをあまく見たようだ。私のような素人
が見てもクラサバは集中処理のシステムと比べると、複雑怪奇なシステムだ。
第二番目は、いかにもアメリカ的と言おうか、悪い話は上司に報告したがらない
という体質が問題だった。当時は私は何も知らなかったが、後日アメリカのデン
バーに駐在していた技術者からこのことを聞いて驚いた次第である。
製品のトラブルがトップに届いていなかったそうだ。
1998年6月にアメリカ・コロラド州デンバーでコンベンションがあり参加したら
成績の良い営業の連中が名前と成績を紹介されて登壇、賞状、商品をもらう。
なんと、これが2時間以上続いた。それにゲスト・スピーカーに宇宙飛行士を招い
たりで、日本アイ・ビー・エム(株)の同種の会議と比べてもはるかに豪華版だった。
1999年に入ると、 OneWorld の不調が明確になり売れなくなったため、リストラ
を行なうに至った。
あのデンバーのコンベンションは幻だったのだろうか?
私は、1999年5月31日付けで日本ジェイ・ディ・エドワーズ(株)を退社した。

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2007年10月19日

就職 : エス・エイチ・エル ジャパン(株)

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次にエス・エイチ・エル ジャパン(株)という会社への就職が決まった。
この会社は、カナダのSHL(ソフトウェア・ハウス・リミテッド)という会社と三井物産、
三井造船が出資して作った会社で、SHLが持っているクライアント・サーバー・システム
のノウハウを売る会社だった。
だった、というのはこの会社は、もう数年前に清算して今はもう存在しない。
私が在籍している時に売れたと聞いたのは1件だけだった。
行ってみると、社長は三井造船から、SHLから1名、三井情報開発から1名、以上以外
は皆さん三井造船からの出向だった。
ここでも営業部長を担当したが、在籍期間は、
1997年8月1日~1998年2月28日
だった。

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2007年10月16日

就職 : (株)○○エス

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○○コムを辞めることになったので、お客様に挨拶に行くと、ある横浜のソフトウェア会社
の社長がうちへ来ないか、と誘いがあった。
60人くらいの従業員数の会社で、従業員数が増えてもすぐ元に戻り、60人よりなかなか
大きくなれないとのうわさを聞いた。
突然何の予告もなく、給料が3万いくら下がっていたとか、常識で考えられないようなこと
が何度もあったと聞いた。
この会社では営業部とTPモニター/グループウェアの開発を担当した。
そう短期間に売れるはずもないが、半年も経たないうちに売れないと、責任を追及された
ので退社することにした。
結局この会社には、1996年8月1日~1997年3月31日の間在籍した。

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2007年10月12日

就職 : (株)○○コム

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1996年の5月だったと記憶しているが、ソニー系の人材紹介会社の紹介で
江戸川橋の(株)○○コムという会社に就職することになった。
この会社は製品情報誌を発行配布している会社でかなり儲かっていると聞いて
いた。薄暗いオフィスで長時間いると気がめいってしまうので、毎日お客様訪問
で出かけた。
社長は大いに気に入ってくれたのだが、息子の取締役とその腰ぎんちゃくが
もともと私を受け入れることに反対だったため、1年で辞めてまた無職に戻った。
結局この会社には、1995年7月1日~1996年6月30日までいた。

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2007年10月10日

無職 : 娘2人の成長

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私には娘が2人いる。
上の娘は1974年生まれ、下の娘は1976年生まれ。
上の娘は短大を出て、英語が好きで、1年間カナダ、バンクーバーへ留学した。
1995年4月9日に出発、成田まで夫婦で見送った。
若い娘の外国暮らしで毎日心配したが、無事1996年3月31日戻ってきた。
丁度円高の時で、1ドル=80円くらいまでいったときだったので助かった。
下の娘は、1996年4月東京理科大・薬学部へ入学した。
当時薬学部は神楽坂にあり、夜遅くなることが度々で、夜中に相模原からよく
車で神楽坂まで迎えに行った。
家内のお陰で2人とも立派に成人し、私は家内に感謝している。

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2007年10月 5日

無職 : 四国八十八ヶ所 (14)

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1995年3月27日(月)

 08:30 玉野の実家を出発

 09:00 玉野市営・深山公園の母の実家・尾崎家のお墓に参拝

 16:15 四国八十八ヶ所の巡礼が無事終了したお礼のため、
       高野山・奥の院参拝に参拝

 高野口町 → 和歌山 → 阪和道 → 近畿道 → 吹田 →
 名神高速 (養老サービスエリアで仮眠) → 
 東名高速 (牧の原サービスエリアで仮眠)

1995年3月28日(火)

 10:00 無事相模原の自宅に到着。

 これで本当に四国八十八ヶ所の巡礼が完了したことになる。

ホーッムページの案内やものの本には次とおりでているが、私にとっては
四国八十八ヶ所全体が「忍耐と修行の道場」であった。
今になって四国八十八ヶ所を考えると、「人生の旅路」とも思える。

 第1番札所~第23番札所 : 阿波の国 「発心の道場」
第24番札所~第39番札所 : 土佐の国 「修行の道場」
第40番札所~第65番札所 : 伊予の国 「菩提の道場」
第66番札所~第88番札所 : 讃岐の国 「涅槃の道場」

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2007年10月 3日

無職 : 四国八十八ヶ所 (13)

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1995年3月26日(日)

 06:30 高松ワシントンホテル発

 ①.第81番札所 白峰寺
 ②.第82番札所 根香寺
 ③.第83番札所 一宮寺
 ④.第84番札所 屋島寺
 ⑤.第85番札所 八栗寺
 ⑥.第86番札所 志度寺
 ⑦.第87番札所 長尾寺
 ⑧.第88番札所 大窪寺

 13:40 88ヶ所無事完了

 15:00 香川県大川町田面(たずら)の父方、有馬家のお墓参り
 17:00 香川県坂出市の母方の祖母、小川家のお墓参り

 18:00 岡山県玉野市の実家着、泊

これでやっと88ヶ所を終了した。
終了の証に大窪寺で巡礼の終了証書をいただいた。
お大師様のお陰で無事88ヶ所のお参りが終了しました。
ああ「南無大師遍照金剛!」。
お大師様、ありがとうございました。
わがご先祖様に感謝します。

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2007年10月 1日

無職 : 四国八十八ヶ所 (12)

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1995年3月25日(土)

 07:00 観音寺グランドホテル発

 ①.第67番札所 大興寺
 ②.第68番札所 神恵寺
 ③.第69番札所 観音寺
 ④.第70番札所 本山寺
 ⑤.第71番札所 弥谷寺
 ⑥.第72番札所 曼荼羅寺
 ⑦.第73番札所 出釈迦寺
 ⑧.第74番札所 甲山寺
 ⑨.第75番札所 普通寺
 ⑩.第76番札所 金倉寺
 ⑪.第77番札所 道隆寺
 ⑫.第78番札所 郷照寺
 ⑬.第79番札所 高照寺
 ⑭.第80番札所 国分寺


 18:00 高松ワシントンホテル着、泊
       (香川県高松市瓦町1-2-3)

 この日は14ヶ寺お参りで来た。
 残り8ヶ寺、明日で88ヶ寺を終了する。
 私にとって、四国八十八ヶ所の巡礼はご先祖様の供養、そのためだけだった。
 他には何も考えることはなかった。
 父母に感謝し、ご先祖様に感謝することだけだった。

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2007年9月14日

無職 : 四国八十八ヶ所 (11)

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1995年3月24日(金)

 06:15 ホテル菊水発

 ①.第57番札所 栄福寺
 ②.第58番札所 仙遊寺
 ③.第59番札所 国分寺
 ④.第60番札所 横峰寺
 ⑤.第61番札所 香園寺
 ⑥.第62番札所 宝寿寺
 ⑦.第63番札所 吉祥寺
 ⑧.第64番札所 前神寺
 ⑨.第65番札所 三角寺
 ⑩.第66番札所 雲辺寺

 18:00 観音寺グランドホテル泊
       (香川県観音寺市観音寺町甲1488-1)

 この日は10ヶ寺お参りで来た。あと22ヶ寺ある。
 ああ忍耐の旅、修行の旅だ。
 まあ両親を含めてご先祖様から受けた恩に比べれば何ほどでもない。
 ああご先祖様に感謝、感謝。お大師様に感謝。

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2007年9月 9日

無職 : 四国八十八ヶ所 (10)

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1995年3月23日(木)

 05:40 心付けをテーブルの上に置いて挨拶抜きで山本様宅を出発

 ①.第44番札所 大宝寺
 ②.第45番札所 岩屋寺
 ③.第46番札所 浄瑠璃寺
 ④.第47番札所 八坂寺
 ⑤.第48番札所 西林寺
 ⑥.第49番札所 浄土寺
 ⑦.第50番札所 繁多寺
 ⑧.第51番札所 石手寺
 ⑨.第52番札所 太山寺
 ⑩.第53番札所 円明寺
 ⑪.第54番札所 延命寺
 ⑫.第55番札所 南光坊
 ⑬.第56番札所 泰山寺 

 18:30 ホテル菊水着、泊 (今治市中浜町1-2-5 )

 早朝出発したため本日は13ヶ寺お参りで来た。

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2007年8月31日

無職 : 四国八十八ヶ所 (9)

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1995年3月22日(水)

 07:00 まるか旅館発

 ①.第37番札所 岩本寺
 ②.第38番札所 金剛福寺
 ③.第39番札所 延光寺
 ④.第40番札所 観自在寺
 ⑤.第41番札所 龍光寺
 ⑥.第42番札所 仏木寺
 ⑦.第43番札所 明石寺
 
 19:00頃 山本宗清様、カズ子様方の「千人宿記念大師堂」に泊めていただいた
        (愛媛県喜多郡内子町大瀬)

 この日は7ヶ寺しか回れなかった。
 お遍路をしていて何度道に迷ったことか。行ったり来たりで時間をロスることも多々
 あった。
 この日もホテルか旅館はどこへ行ってもあると高を括っていたらとうとう日暮れに
 なったのにホテルも旅館も見つからない。
 車で走っていると万屋のような店が見つかったので、そこでパンを買って泊まれる
 ところはないか聞いてみた。
 その店のおばさんがここからしばらく行くと「うどん屋」があるからそこへ行ってお
 願いすればたぶん泊めてくれるだろう、と教えてくれた。
 山本さん(名前は行ってから聞いた)宅は旅館でも何でもない「うどん屋」さんだった。
 山本さんのおばあさんは気持ちよくどうぞ、と言ってくれ、お風呂に入れてくれて、
 夕食まで出してくださった。山本さん宅には大師堂を建ててお大師様(の像)をお祭り
 しておられた。私はそのお大師様の御像の前で寝かせていただいた。
 山本さんのおばあさんに聞くと、なんでも昔お遍路さんをお泊めしたところ、その
 お遍路さんが高松の人でうどんの作り方を教えてくれ、それからうどん屋をはじめて
 繁盛したとのこと。それで大師堂を建て、高野山からお大師様を勧請してお祭りし
 ていると聞いた。本当に見ず知らずの人間を温かくもてなしていただきいまだに感謝
 しています。
 泊めていただいてから確か6~7年経ってからお供えを持参してお礼にうかがった。
 山本さんのおばあさん今でもお元気でいらっしゃるでしょうか?
 お元気、ご長寿、ご繁栄をお祈り申し上げます。
 ありがとうございました。

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2007年8月22日

無職 : 四国八十八ヶ所 (8)

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1995年3月21日(火)

 06:40 国民宿舎むろと発

 ①.第26番札所 金剛頂寺
 ②.第27番札所 神峯寺
 ③.第28番札所 大日寺
 ④.第29番札所 国分寺
 ⑤.第30番札所 善楽寺
 ⑥.第31番札所 竹林寺
 ⑦.第32番札所 禅師峰寺
 ⑧.第33番札所 雪蹊寺
 ⑨.第34番札所 種間寺
 ⑩.第35番札所 清滝寺
 ⑪.第36番札所 青龍寺

 19:10 まるか旅館着、泊 (高知県高岡郡窪川町琴平)

 どこのお寺だか忘れてしまったが、お参りするのに車を置く場所を探していたら
 魚市場に出くわした。見るともなく見ると、大きな風呂のような四角い入れ物の
 中が真っ赤っかだ。よく見るとキンメダイだ。ここでもキンメダイが釣れるのかと
 ある種の感動と懐かしさを覚えた。私が40歳代に大島沖で釣りをしたあのな
 つかしいいキンメダイだ。静岡県の伊東から漁師と二人だけでよく釣りに出か
 けた。最高1回の釣りで110匹釣ったことがある。今はあの腕のいい漁師は
 体を壊して漁師を廃業したとのこと。

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2007年8月10日

無職 : 四国八十八ヶ所巡礼 (7)

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1995年3月20日(月)

 06:30 徳島ワシントン・ホテル発

 (1).第16番札所 観音寺
 (2).第18番札所 恩山寺
 (3).第19番札所 立江寺
 (4).第20番札所 鶴林寺
 (5).第21番札所 太龍寺
 (6).第22番札所 平等寺
 (7).第23番札所 薬王寺
 (8).第24番札所 最御崎寺
 (9).第25番札所 津照寺

 17:30 国民宿舎むろと(高知県室戸市室戸岬町6892-41)着、泊

 確か最御崎寺直前の室戸岬に洞窟があって、そこでお大師様が修行されたと
 聞いた。その洞窟に入った。洞窟から外を見ると、空と海しか見えない。
 お大師様の「空海」というお名前はひょっとしてここでできたお名前ではないか
 と思った。
 徳島県の薬王寺から、室戸岬までは今でこそいい道ができて楽だが、お大師様
 の時代には道らしい道もなく大変だったと思われる。
 道がなく宿もない時代にお遍路さんはどうしたのだろうか?
 昔はお遍路さんの中には生き倒れで亡くなる人もあったそうだ。
 四国が死国になった人もあって、お遍路に出る時は水杯を交わしたという。

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2007年8月 9日

無職 : 四国八十八ヶ所巡礼 (6)

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1995年3月19日(日)

 06:40 徳島ワシントン・ホテル発
 次のお寺を参拝した。

 (6).第6番札所 安楽寺
 (7).第7番札所 十楽寺
 (8).第8番札所 熊谷寺
 (9).第9番札所 法輪寺
 (10).第10番札所 切幡寺
 (11).第11番札所 藤井寺
 (12).第12番札所 焼山寺
 (13).第13番札所 大日寺
 (14).第14番札所 常楽寺
 (15).第15番札所 国分寺
 (16).第17番札所 井戸寺

 17:40 徳島ワシントン・ホテル着、泊

  第16番札所 観音寺 は翌日にした
  2日間で16ヶ寺参拝した。後72ヶ寺ある。
  八十八ヶ所は忍耐の道場ではないか?
  各お寺で参拝した印に納経帳に墨でお寺の名前を書いて朱印を押してくれる。
  1ヶ寺¥300.だった。
  
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2007年8月 8日

無職 : 四国八十八ヶ所巡礼 (5)

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1995年3月18日(土)

 08:50 岡山県玉野市の実家発
 09:25~10:40 四国フェリーで瀬戸内海を渡る

 次を参拝
 (1).第1番 霊山寺
 (2).第2番 極楽寺
 (3).第3番 金泉寺
 (4).第4番 大日寺
 (5).第5番 地蔵寺

 16:30 徳島ワシントン・ホテル着、泊

 ほとんど何も知らずに出かけたので、霊山寺ではじめてだけど何も知らない
 ので教えてくださいといって教えていただいた。
 傘、杖、経本、等々必要なものを買った。
 数珠は高野山の数珠屋で勝手おいた。
 最初はお遍路さんのグループのお経について経本を見ながらお経を唱えた。

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2007年8月 4日

無職 : 四国八十八ヶ所巡礼 (4)

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1995年4月17日(金)

 06:40 白浜「明光白浜ロッジ」発 (中国自動車道経由)
 12:45~13:15 法然上人の誕生寺(岡山県)参拝
 16:30 岡山県玉野市深山公園の父母の墓参り
 17:00 岡山の実家に到着、泊

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2007年8月 3日

無職 : 四国八十八ヶ所巡礼 (3)

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1995年3月16日(木)

 08:20 龍神村発 (龍神スカイライン経由)
 09:30 高野山着
 09:30~12:00 高野山奥の院、金剛峯寺参拝 (高野口→阪和自動車道)
 16:00 道成寺参拝
 17:00 国民宿舎「明光白浜ロッジ」着、泊

 四国八十八ヶ所を巡礼する時は、まず高野山にお参りし、巡礼が終了したらお礼
 参りのためもう一度高野山へお参りするものと聞いている。 
 高野山奥の院にはお大師様をお祭りする廟がある。
 廟への沿道には何万基だか、何十万基だか知らないが歴史上有名な人たちの
 墓石が所狭しと並んでいる。
 高野山は真言宗だが並んでいる墓石は宗旨を問わず並んでいる。
 高野山は確か海抜1,100メートルくらい。
 道の脇には雪が残っていた。
 昨年(2006年)4月15日に高野山に泊ったらまだ寒かった。
 道成寺は、安珍・清姫の恋の伝説がある寺。
 田舎道を通ってやっとたどりついた。

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2007年8月 2日

無職 : 四国八十八ヶ所巡礼(2)

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1995年3月15日(水)

 08:50~09:30 熊野本宮大社参拝
 10:05~10:35 熊野速玉大社参拝
 11:30       妙法山・阿弥陀寺参拝
 11:40~13:40 熊野那智大社、青岸渡寺参拝
 14:00~14:30 補陀洛山寺参拝
 18:00       国民宿舎「龍神温泉ロッジ」着・泊

 那智大社から眺める那智の滝は絶景である。
 平安時代には京都、奈良から熊野古道を歩いて熊野三山にお参りしたという。
 補陀洛山寺からは大昔西の浄土を目指して船出したときいた。
 今もその時の船が展示されている。
 龍神スカイラインを通って高野山へ入ろうとしたら、時間が確か5時ころだったので
 凍結の恐れありということで通れず、急きょ龍神温泉ロッジに泊ることにした。

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2007年8月 1日

無職 : 四国八十八ヶ所巡礼(1)

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失業している時一念発起してご先祖様の供養のため四国八十八ヶ所を巡礼する
ことにした。父母のことを考えると親の愛のありがたさに涙することがある。
失業をチャンスととらえて車で巡礼の旅に出ることにした。

1995年3月14日(火)

 05:20 自宅発
 08:55~09:30 豊川稲荷参拝
 11:55~12:35 伊良湖から鳥羽へフェリーで渡る
 16:00 熊野の「徐福荘」着、泊
       徐福は秦の始皇帝に命じられて不老長寿の薬を探すべく航海
       熊野の浜に上陸したとの言い伝えがある

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2007年7月31日

会社生活: 日本エム・イー・ティ(株)時代 (10)

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1994年辞表提出、1995年1月末退社に決定した。
1994年秋頃OEM先へ納入したLANボードにトラブルがあり、トラブルのあったボード
を客先から借用、製造元へ送り原因究明と対策を要求した。
何度テレックスを打っても、電話しても返事がない。
最初の1~2枚のうちは大したことを言われなかったが、6~7枚になるとお客様から
強いクレームが来た。終いには損害賠償の要求まできた。
それでも製造元からは何の返事もない。
日本人のエンジニアにお金を払って原因を究明してもらったところ、コンデンサーを逆
につけていたため発火、発煙したことがわかった。
そこで考えた。トラブッテモ原因も対策も出さないような製品を売ることに疑問を感じて
退社することに決めた。
12月5日代謝届を提出、1995年1月末日本エム・イー・ティ(株)を退社した。

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2007年7月29日

会社生活: 日本エム・イー・ティ(株)時代 (9)


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1994年10月1日(土)
 家内と二人ドライブ、宿泊。
 12:30 自宅発
       相模原 → 厚木 → 厚木小田原道路 → 小田原 → 熱海 
       → 伊東 → 稲取 → 下田 → 田牛
 17:00 伊豆半島・田牛の温泉民宿「三軒屋」着、泊。
      伊勢海老の刺身等を食べる。
      夏は海水浴客で混雑するが、普段は静かなところ。
      船着場から小アジが泳いでいるのが見えた。

10月2日(日)
 08:10 田牛発
       石廊崎 → 伊浜 → 妻良 → 松崎 → 土肥 → 戸田 →
       久料 → 沼津 → 東名高速 →厚木 → 相模原
 18:00 帰宅
       戸田の魚清で昼食。アカイカの刺身で昼食。
       途中漁協の直売所で、伊勢海老とあわびを買う。
       西伊豆は東伊豆とちがい静かでよい。

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2007年7月27日

会社生活: 日本エム・イー・ティ(株)時代 (8)

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1994年9月18日(日)
 08:00 男鹿半島、民宿「浜本」発
 本庄 → 酒田 → 鶴岡 → 山形自動車道 → 東北自動車道
 久喜 → 川越 → 相模原
 22:00 帰宅
 酒田の蔵が記憶に残っている。
 商売は成功すれば大財閥になることもできる、いい教訓だと思う。

今にして思うと、思い立った時に行っておいてよかったと思う。
60歳を過ぎると長距離ドライブは休み休みでないと行けない。

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2007年7月24日

会社生活 : 日本エム・イー・ティ(株)時代 (7)

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1994年9月17日(土)
 08:00 浅虫温泉・双葉荘 出発
 青森 → 五所川原 → 鰺ヶ沢 → 能代 → 寒風山 →入道崎 → 戸賀浜
 17:30 男鹿半島 民宿・浜本 着 泊

 ①.五所川原→鰺ヶ沢 の途中にリンゴ園があり、おじさんとおばさんが作業を
   しており、つい話したくなり車を下車。
   おいしいリンゴをプラスティックの箱に1杯買った。
 ②.鰺ヶ沢のあたりにはイカを干して打っている店がを見かけた。
 ③.寒風山の頂上まで車で登った。とても見晴らしの良い所。
   昨年(2006年)4月高野山の蓮華院に泊まった時に秋田の寒風山の近くから
   お参りにきていたおばさんに会ったことがある。
 ④.入道崎の夕日はとてもすばらしく印象に残っている。
 ⑤.民宿・浜本ではよくも遠いところから来てくれたと言って、鯛を1枚サービスで
   出してくれた。ここで出された「イガイ」の吸い物は今までに飲んだ吸い物の中で
   最高だった。鯛の潮と同じくらい、あるいはそれ以上だった。

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2007年7月22日

会社生活: 日本エム・イー・ティ(株)時代 (6)

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9月16日(金)
 06:00~07:00 浄土ヶ浜を散策
 08:00 民宿「たかえい」発
 久慈 → 八戸 → 十和田湖町 
 ①.八甲田山
   こんなところで大勢の兵隊さんが亡くなったのかと思うと悲しくなった。
 ②.奥入瀬
   是非紅葉のころにまた来たいと思った。いい所だ。
 ③.十和田湖
 野辺地 → 浅虫温泉
 浅虫温泉 「双葉荘」泊
 
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2007年7月21日

会社生活: 日本エム・イー・ティ(株)時代 (5)

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1994年9月15日(木)~18日(日)東北地方を家内と二人でドライブ。

9月15日(木)
 05:00 自宅発
 東北自動車道 盛岡ICで下りる
 ①.小岩井農場
 ②.田沢湖
 アスピーテ・ライン
 東北自動車道 松尾八幡平 → 盛岡
 盛岡 → 宮古
 盛岡から宮古までは雨でしかも真っ暗の初めての道をこわごわと走る。
 20:00 宮古・民宿「たかえい」着、泊

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2007年7月20日

会社生活: 日本エム・イー・ティ(株)時代 (4)

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1994年8月9日(火)~11日(木)
夏休みをとって家内と二人ドライブに出かけた。

8月9日(火)
 ①.善光寺参詣
 ②.戸隠神社・奥社参拝
    ここで昼食に食べた岩魚が大変うまかった。
 鹿教湯 鹿鳴荘泊
  鹿教湯は大学2年生の時法学セミナーの合宿をした思い出の地。

8月10日(水)
 ①.飛騨高山
 ②.白川郷
 ③.五箇山
 最初白川郷に泊るつもりだったが、気が変り宿を探し探し行くうちにとうとう
 富山まで来てしまった。
 富山・第一ホテル泊
  ホテルの近所の海鮮料理屋で食べた岩ガキがうまかった。
  それまで夏食べられるカキがあるとは聞いていたが初めて食した。

8月11日(木)
 糸魚川 → 国道147号線、148号線 → 岡谷JCT → 中央高速 →
 八王子IC
 17:30 帰宅

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2007年7月18日

会社生活: 日本エム・イー・ティ(株)時代 (3)

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1994年5月29日(日)
家内と二人で平泉の中尊寺を見に行った。
ついでに近くの毛越寺も見てきた。
藤原氏の財力と芸術レベルの高さに驚嘆した。
それにしても金は東北地方のどこから採掘したのであろうか?
金色堂は藤原氏の宗教心の厚さと芸術レベルの高さを表していると思った。
毛越寺はあの池に船を浮かべて平安貴族のマネをしたのかと思うと、何か
わびしさを感じた。
日帰りで1,003キロメートル走った。
65歳の今では考えられないことをしたものである。

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2007年7月17日

会社生活: 日本エム・イー・ティ(株)時代 (2)

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気分転換でドライブすることにした。
1994年5月22日(日)
家内と2人でドライブに出かけた。
八王子から中央高速にのって中津川インターで降りて馬込へ向かう。
学生時代に六本木の俳優座で滝沢 修主役の「夜明け前」を見て、そのイメージ
しか残っていなかった。
馬籠宿と藤村記念館を見学した。
建物の小ささに驚いた。昔の日本人はよほど体が小さかったものと見える。
多分現代の我々と食べ物がまったく違っていたに相違ない。
馬籠宿の後、東名高速へ入り、豊川稲荷さんへお参りして帰った。

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2007年7月16日

会社生活: 日本エム・イー・ティ(株)時代(1)

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1993年9月1日 日本エム・イー・ティ(株)に営業部長として入社した。
この会社、とにかく接待の多い会社で、お客様が来られると接待が多い。
基本的に接待の習慣がない会社が長かったので、こういう営業もあるのかと参考になった。
小さい会社の方がいろいろ規則もなくて自由にやれると思っていたが、間違いだった。
小さい会社は社長の天下で社長と違う意見を表明するには退社覚悟でなければならない
ということがよくわかった。
社長とうまくいっている内は居心地は良い。
社長と考え方が違うのがわかった時には一転地獄に変わる。
相談する相手はいない。まわりの連中は社長のお気に入りばかりが残っているので、
何時社長に告げ口されるかわからない。

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2007年7月14日

無職 : ヨーロッパ旅行(9).

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8月27日(金)
 05:30 モーニング・コール
 06:00 ルーム・サービスで朝食
 07:00 コンコルド・ラファイエット ホテル 出発
 08:50 パリ シャルル・ドゴール空港 発
 09:40 ロンドン ヒースロー空港 着
 13:23 ロンドン ヒースロー空港 発 BA005便

 ヒースロー空港で待っている間に空港内のオイスター・バーでカキの生にレモンを
 かけてビールを一杯やった。これが日本のカキよりずっとおいしいような気がした。

8月28日(土)
 08:50 成田空港 着
 10:00 成田空港 発 タクシー
 13:45 自宅着 タクシー代¥36,000.

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2007年7月13日

無職 : ヨーロッパ旅行(8).

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8月26日(木)
 ①.オルセー美術館 見学
 ②.セーヌ川クルージング
 ③.ブローニュ森のレストランで昼食
 ④.大丸等で土産を買う
 ⑤.矢野さん夫妻とムーラン・ルージュへ行く

 1).オルセー美術館はではゆっくりと絵画を鑑賞できた。
   もう一度是非行ってみたい。
 2).セーヌ川の水はテームズ川よりずっときれいだった。
   船から見たノートルダム寺院が今でも瞼に浮かぶ。
 3).ムーラン・ルージュはとんでもなくすばらしかった。
   出てくる女性の美しさに見とれた。横に座った家内と比べるべくもない。
   顔は美人で、プロポーションはとれている、アメリカ、ヨーロッパの白人のように
   どでかくない。イングリッド・バーグマン、オードリ・ヘップバーンを超える美しさ
   であった。感動した。

 パリ コンコルド・ラファイエット ホテル泊

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2007年7月12日

無職 : ヨーロッパ旅行(7).

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8月25日(水)
 次を見学。
 ①.ノートルダム寺院
 ②.ルーブル美術館
 ③.コンコルド広場
 ④.エッフェル塔
 ⑤.凱旋門
 ⑥.モンテーニュ通りで買い物
 ⑦.シャンゼリーゼ通でお茶を飲む
 ノートルダム寺院を見て教会が大きな政治力を持っていたと思った。
 ルーブル美術館ではモナリザを見たが、2~3日かけて見たいと思った。
 昔学校の教科書にシャンゼリーゼでお茶を飲む場面が出ていたように記憶しているが、
 シャンゼリーゼでお茶を飲んではじめてフランスへ来たんだとチョットいい気分になった。
 パリ コンコルド・ラファイエット ホテル泊

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2007年7月11日

無職 : ヨーロッパ旅行(6).

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8月24日(火)
 ローマ発 10:00
 パリ着  11:50
 ベルサイユ宮殿見学
 とてつもない規模の宮殿を見た。
 イギリスのバッキンガム宮殿、ウィンザー城の規模をはるかに越えているように
 思える。
 国民と王との落差が想像をはるかに越えるもので、フランス革命でギロチンで
 王、王妃を処刑する大きな一因になったのではないか。
 貧富の差は合理的で許容できる範囲でないとこんなことになるのかと思った。
 パリ コンコルド・ラファイエット ホテル泊

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2007年7月10日

無職 : ヨーロッパ旅行(5).

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8月23日(月)
 バス旅行
 ①.ナポリ見物
 ②.ポンペイ遺跡見学
 治安が良くないとのことで、ナポリでは丘の上からバスを降りてナポリを見物。
 カンツォーネを聞きながらの昼食もおつなもの。
 ポンペイ遺跡を見て、イタリアは今も昔もネアカなのがいいと思う。
 同時にいつ死が来ても心残りがないようにしておかなければとも思った。
 ローマ マッシモ・ダジリオ ホテル泊

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2007年7月 9日

無職 : ヨーロッパ旅行(4)

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8月22日(日)
 下記を観光
 ①.ボルゲーゼ美術館
 ②.トレビの泉 コインを投げ入れたのでいつかもう一度行けるかも
 ③.コロッセオ ローマ人の技術に敬服するとともに、人間の娯楽は2000年
          経ってもあまり進化していない感じがした
 ④.真実の口
 ⑤.ベネチア広場
 ⑥.バチカン サンピエトロ寺院
 ⑦.スペイン広場 アイスクリームを食べながらローマの休日を思い浮かべていた
 夕食 アッピア街道のレストランでカンツォーネを聞きながら飲んだワインは
     ことのほか美味しかった
 ローマ マッシモ・ダジリオ・ホテル泊

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2007年7月 8日

無職 : ヨーロッパ旅行(3)

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8月21日(土)
 ①.バッキンガム宮殿見学のチケットを並んで買い(1人8ポンド)宮殿内を見学
 ②.バッキンガム宮殿の衛兵の交替をを見学
   宮殿の前の緑で鬱蒼とした公園にリスがピョコピョコ跳んでいた
 ③.ウィンザー城見学
 17:00 ヒースロー空港発
 18:30 ドイツ フランクフルト空港着
       とてつもなく広い空港でえらく歩かされた
 21:00 フランクフルト空港発
 22:30 イタリア レオナルド・ダヴィンチ空港着
 23:30 ローマ マッシモ・ダゼリオ・ホテル着

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2007年7月 7日

無職 : ヨーロッパ旅行(2)

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8月20日(金)
 次を観光。
 ①.バッキンガム宮殿(外から)
 ②.テームズ川の向こう岸から国会議事堂、ビッグ・ベンを見る
 ③.ロンドン塔
 ④.ハウス・オブ・ハノーバー土産物を買う
 ⑤.昼食 : Sea Shell で Fish and Chips 
 ⑥.マダム・タッソー館
 ⑦.大英博物館 (ロゼッタ・ストーン記憶に残る)
 ⑧.ハロッズ百貨店

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2007年7月 6日

無職 : ヨーロッパ旅行(1)

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恐らく今後家族4人そろって旅行することは多分ないだろう、いいチャンスだということで
家族4人そろってヨーロッパ旅行に出かけた。
旅行先はロンドン、パリ、ローマ、ナポリ&ポンペイだった。

8月19日(木) 
 成田空港発 11:15 British Airways 006便
 ロンドン ヒースロー空港着 同日 11:00
 16:30 ハイドパーク近くの Cumberland Hotel チェック・イン
 インバネス・ストリートの Bar Gansa でスペイン料理の夕食。
 コベント・ガーデン散策。
 タクシーの運転手さんに「コベント・ガーデン」と何度言っても通じないのには閉口した。
 タクシーでテームズ川畔をドライブ。
 テームズ川の水は東京の隅田川よりもずっと汚かった。

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2007年7月 5日

無職 : 就職先決まり、台湾へ行く

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そうこうしている内に台湾人が社長の日本エム・イー・ティ(株)という30人くらいの
会社に就職が決まった。仕事は営業部長。
LANのボードやケーブルなど電子製品を輸入、OEM販売する会社だった。
入社する前に輸入先の台湾のメーカーを見ておいてほしいい、航空運賃、ホテル代、
食事代は会社で負担します、とのこと。
それで8月8日(日)から8月11日(水)まで台湾へ行った。

8月8日(日) : 羽田空港から中華航空で台北へ。
           円山飯店でヤムチャで昼食。その後故宮博物館見学。
           夜は、梅子で韋社長と会食。
           ブラザーホテル泊。
8月9日(月) : 午前中、Computer Application Showを見学。
           午後、韋社長の運転で車で新竹のテクノパークへ移動。
           中信大飯店泊。
8月10日(火) : MUSTECK、ACCTON を見学。
            台北への帰途、林口でDATATECHを見学。
            夜四川料理のラウンジ・ロマンで台湾エム・イー・ティーの
            社員と会食。
            ブラザー・ホテル泊。
8月11日(水) : 台北から中華航空で羽田へ。


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2007年7月 4日

会社生活(91). 家族で京都旅行

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日本IBMに在職中に健康保険組合の補助で泊まれるホテルを探して、家内、
娘2人と私の4人で乗用車を運転して京都へ観光に行った。
観光旅行は1993年6月5日(土)~9日(水)の5日間である。
ホリデー・イン京都に宿泊した。
京都ではできるだけ多くを見たいので、観光バスと観光タクシーを使った。
見学先は次のとおり。

6月6日(日) : ①.伏見稲荷大社 ②.東福寺 ③.清水寺 ④.三十三間堂
           ⑤.嵐山 ⑥.金閣寺 ⑦.銀閣寺 ⑧.平安神宮

6月7日(月) : ①.栂ノ尾・高山寺 ②.仁和寺 ③.竜安寺 ④.西芳寺
           ⑤.広隆寺 ⑥.大覚寺 ⑦.祇王寺 ⑧.大徳寺
           ⑨.八坂会館で舞妓の舞を見る

6月8日(火) : ①.京都御所見学 ②.二条城 ③.六波羅蜜寺 ④.高台寺
           ⑤.南禅寺 ⑥.知恩院 ⑦.八坂神社 ⑧.曼殊院

6月9日(水) : ①.大原三千院 ②.寂光院 ③.鞍馬寺

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2007年7月 3日

無職 : 自衛隊の軍艦見学

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1993年の6月末で日本アイ・ビー・エム(株)を退職してぶらぶらしていたら、
高校時代の同級生の新田雅敏君から自分の指揮下の軍艦が東京港に一般見学
のために入港するからよかったら来い、とのお誘いを受けた。
新田君は玉野高校を卒業して防衛大学へ行った人で、その当時准将の要職にあり
軍艦3隻を指揮していた。
私は一度乗りたいと思っていたが、機会がなかったので、喜んで参加させてもらった。
我が家からは家内と娘2人と私の4人が花束を抱えてお邪魔、玉野高校の同級生も
参加、確か総勢20名位になった。
大変なコース料理をご馳走になり、艦内を案内してもらった。
艦内の通路の狭いことには閉口した。閉所恐怖症になりそうだった。
軍隊でありながら軍隊と呼べない常識?に違和感を覚えた。

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2007年7月 1日

会社生活(90). 日本IBMで教えられたこと

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1.教育熱心な会社
  私が汎用機の営業になるのに確か15ヶ月の教育を受けた。
  半分は会社の中のスクールに通い、週に2~3回のテストがあり、1回でも不合格
  になるとドロップ・アウト、もう半分は営業所で先輩について見習を行なうこと。
  また、年間10日とか15日は義務として教育をいけさせられた。
  職種によって日数は異なる。

2.お客様の経営者に対応できる営業
  お客様の社長をはじめとする経営者にビジネスができる人材を養成していた。

3.営業優先の会社
  当時は社内の人事制度、給与を見ても営業優先になっていた。
  営業成績優秀でプロモーションされライン・マネジャーになっても人事管理が下手で
  部下とうまく行かないケース、部下が辞めていったケースを時々見た。

4.営業は会社を代表
  営業は与えられたテリトリー/アカウントに全責任を持つ。お客様に対しては、レプ
  リゼンタティブ(代表)と名詞に書いていた。

5.営業は固定給とコミッション
  確か年収の20~30%はコミッションで、コミッションと販売目標額が対応していた。
  大体販売金額が目標額の150%以上になると目標額をアジャストされた。

6.営業はアプリケーションを売る
  営業はコンピューターを売るのではなく、アプリケーションを売れ、バリューを売れと
  言うことを徹底的に教え込まれた。

7.お客様最優先
  お客様最優先をあらゆる場面で教えられた。

8.THINK(考えよ)
  「THINK」のプレートが机の上に置いてあり、考えよ、自分の意見を持てto鍛えられた。

9.ルールに厳しい会社
  日本IBMはアメリカの独禁法の適用を受けていたので、例えば、未発表製品について
  話してはならない、互恵取引をしてはならない、競争相手を誹謗してはならない・・・等
  厳しく言行を禁止されていた。

10.世界一の誇り
   当時は世界一のコンピューター会社の誇りを持っていた。
   学閥がなく、年齢、性別、人種に関係なく処遇されるグローバルな会社で、私にとって
   極めて居心地の良い会社であった。

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2007年6月29日

会社生活(89). 日本IBMでの経験

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日本IBMではおおよそ次の5つの仕事を経験した。

1.電動タイプライター、会計機の部門の事務職。
  事務の基本は、数字に間違いがないこと、論理的でなければならないこと、後で
  トラッキングできるようにエビデンス(証拠)を残すこと、無駄をしないこと、などを
  学んだ。
  最近の社会保険庁のニュースを見ていると、どんな手順で、どう作業をしている
  のか説明がない。聞いている範囲だけでいうと、事務の基本ができていないの
  ではないだろうか。

2.IBMユーザー研究会の事務局業務。
  日本の大手企業の幹部から物事の筋をとおすこと、気配り、他人との付き合い方、
  などを教わった。大手企業の幹部の方々の考え方も教わりました。

3.汎用機の営業。
  営業の仕事は、お客様の問題を解決し、お客様に価値を提供する、お客様にいかに
  して信頼されるか、であることを実践できたことは大きな収穫になりました。

4.中・小型機の営業。
  金額の小さいコンピューター、サービスをいかに大量に販売するか、を更地で考えだし、
  実践、成果をあげることができたことは、すばらしい経験になった。

5.ソフトウェア会社の窓口。
  アプリケーションは現実にはソフトウェア(プログラム)になる。
  その価値を生み出すソフトの開発を行なうソフトウェア会社の幹部の方々と一緒に仕事
  でき、ソフトウェア会社の経営者が何に悩み、どういうレベルにあるかを知り、幾分かでも
  お手伝いできたのは幸いでした。

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2007年6月28日

会社生活(88). 早期定年退職

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バブルがハジケテしばらくすると会社の経営状況が良くないとの噂が入ってきた。
入社以来一生働けると聞いてきたので、まさか退職するなど考えてもみなかった。
そうこうするうちにどうやらプレミア付きで早期定年退職を募集するらしい、という
情報が入ってきた。
私自身はやりたいことをやらせてもらったので条件次第ではと考えた。
たしか1993年の2月だったと思うが、早期定年退職の説明があり、募集が始まった。
条件は悪くないので応募した。
応募したものは仕事をしなくてもよい、仕事を探しに行ってよいとの指示があった。
3月から6月に退職するまで毎日仕事探しに出ていた。
ハローワークにも行ったし、人材紹介会社も訪問した。
仕事は容易には見つからなかった。
仕事が見つからないまま1993年6月30日、約30年お世話になった日本アイ・
ビー・エム株式会社を退職した。

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2007年6月27日

会社生活(87). 杉田哲之さんのこと

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私がソフトウェア会社を担当した時に先輩に杉田哲之さんとい先輩がいた。
性格はスッキリした人なんだが、仕事もしないのに時々仕事に嘴を入れてくる。
それで私はご意見を返上した。それ以来嘴を入れることはなくなった。
この人と仕事をしていると時々予告もなく姿を消す。私は理由を知らないもの
だからクレームをつけると、本人は言い訳もしないで、申し訳ありません、という。
後でわかったことだが、週に何回も姿を消して、人工透析に行っていたそうだ。
ある時宮崎の有名ホテルでソフトウェア会社のシンポジウムを開催した時、
前日になってホテルの会長(宮崎の名士)に特別講演を依頼していることが
発覚して大騒ぎになったことがことがある。
杉田さんが会長に依頼して、どうやら忘れていたらしい、と聞いた。
杉田さんが定年退職する時に当時私の上司橋本公允氏が私に送別会の幹事
をやれという。私はいいかげんな上司の依頼(仕事ではないから)を拒否した。
どういうわけかまた依頼してきたので、面倒臭くなって幹事をやり虎ノ門の
パストラルというところで送別会を開催し、無事終了し、橋本氏からタクシーの
チケットを出させて藤が丘の杉本氏の自宅まで送った。
私がIBMを退職して数年したころ、杉田氏が亡くなったという連絡が入り、葬式
に出かけた。葬儀場でお参りして帰ろうとしていたら、モック・オフィス・コンサル
タント株式会社の金子社長から火葬場まで同行、お骨を拾ってやってほしい、
との要望があって、金子社長と二人で杉田さんのお骨を拾うことになった。
杉田さんとは不思議な縁であった。
杉田さんのご冥福をお祈りいたします。

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2007年6月25日

会社生活(86). SIに未来はあるのか?

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ソフトは膨張する。
日本のユーザーの場合、システムのスペックが決まっていないのに、先に
金額が決まることが多い。
後から後からこれもあれもと要求が膨張する、あるいは要求がころころ変わる。
ソフトウェア会社のプロジェクト・マネジャーはユーザーの要求を切ることに精を
出すことになる。
こんな状態で、ソフトウェア会社はSIをやると赤字を出すことが多い。
要員を遊ばせておくわけにはゆかないのでつい引き受ける。
でもこんなことを続けていたのでは企業は継続できない。
若人も逃げることになる。
SIに未来はあるのだろうか?
解決策としてスペシャリティとコンサルティングが必要になるのではないだろうか?

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2007年6月24日

会社生活(85). 原価積み上げ方式のソフト開発価格

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本来ソフトウェアの開発価格は、原価積み上げ方式ではなく、付加価値方式で
なければならない、と私は考えている。
月給いくらの人が何か月かけて作成したソフトだから、これに経費、利益・・・を
加えていくらになります、というのは原価計算をするためには必要だが、営業と
いう観点で考えると、私どもで開発するソフトウェアはこれだけの利益を生むので
いくらです、というのが正しいと思う。
でないと、価値あるソフトウェアを開発する意味がない。どんなに大きな利益を
生むウェアを開発しても原価ベースの価格設定ではビジネスとして意欲がわか
ない。
儲かるのは、ソフトウェア開発を発注した側だけということになるのではないか?

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2007年6月23日

会社生活(84). 若者がソフトウェア業界を避ける

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ソフトウェアの開発、特にプログラムの作成は若者から3K職場として避けられていた
面があった上に、バブルがはじけてかなりの人員整理が行なわれたため、若者が
ソフトウェア業界は安定性、成長性に欠け、危ないと避けるようになった。
現在インドや中国のソフトウェア会社が繁盛している一因であると思う。
私個人としては、現在の世界はソフトウェア無しでは動かない世界になっており、
非常に残念な気がする。
もっとも、産業は産業革命以来西へ西へと移動しており、ソフトウェア業界における
中国、インドもそうなのかもしれない。

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2007年6月22日

会社生活(83).バブルとソフトウェア会社担当

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リース会社担当としてはすることもなく遊んでいたら、こんどは再度ソフトウェア会社
を担当しろという。
中小のソフトウェア会社の社長、役員の相談に応じるというのが役目だった。
その頃は、IBMがソフトウェアの子会社を設立したり、最初はソフトウェア会社はエンド・
ユーザーと直のビジネスをしてよいとしていたのを、IBM経由でなければならない、という
やり方に変えたりして、状況は最初の頃とはかなり変わってきていた。
それでも世の中はバブルの最盛期で、SE,プログラマーが厚遇されていた。
新卒を採用するために旅行に連れて行ったり、マンションに住ませたり・・・と他社へ
行かれないよう囲い込みを行なった。
大学出たてのプログラムも書けない人に100万円/月払うというような現象もあった。
ただし、バブルがはじけると、保険会社などでは明日から100人~200人おひきとり
いただきたい、という話も方々にあった。
来る日も来る日も、あのソフトウェア会社が危ないとか、あのソフトウェア会社が倒産
したというような話が入ってきた。

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2007年6月19日

会社生活(82). IBM復帰と車の運転免許

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IBMへ復帰して担当したのは、当時協定リース会社14社があってその窓口だった。
体調を崩したので暇なところへ回してくれたのだろう。
暇なので休みを利用して車の運転免許を取りに行くことにした。
実は42歳まで運転免許なし、車なしだった。
埼玉県の鷲宮団地に住んでいる時に、子供が夜中に熱を出して、子供を毛布で
くるみ、家内と二人交替で病院まで歩いて行ったことがあり、車がほしかった。
自動車学校は八王子で3~4ヶ月通って運転免許を取得、ブルーバードを買った。
免許取立てで、中央高速を走って、小淵沢まで「元気甲斐」という弁当を買いに
行き家内をハラハラさせたりした。

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2007年6月18日

会社生活(番外). JAL御巣鷹山事故

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1985年の夏、家内の伊東の実家で夏休みを過ごしていたらテレビでJALの飛行機が
群馬県の御巣鷹山に墜落したとのニューズがあった。
休みを2日残して相模原の自宅へ帰ると、私とおなじSSCにいた林貞夫さんから電話
があり、IBMの社員が3名乗っていたので、会社から遺品探しに行くことになった。
ついては、有馬さんを指名したので一緒に言ってほしい、とのこと。
3人の内の1名は私と同じ客先を担当した中島 誠さんだと聞き了承した。
林さんの車に乗せてもらって高崎まで行った。
高崎駅前のホテルに泊って前橋の警察学校まで遺品探しに行った。
中島さんのマドラスの靴も何も見つからずだった。
帰りに遺体安置所になっている学校の体育館へお参りに行った。
体育館の中は線香の煙でもうもうとしており、遺体を洗ったホルマリン、遺体、線香など
の異様な匂いで3分も中に居られなかった。
その後体育館は匂いが取れないので、建て替えたとのこと。

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2007年6月17日

会社生活(81). 急性糖尿病

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出向してから1年あまり経った10月のある日、JR四ツ谷駅の階段を昇っていると
心臓がいやに動悸するので午後半休をとって相模原の更生病院へ行って検査して
もらうと急性の糖尿病だという。
それまでの生活を振り返ると、毎晩11時~12時まで仕事をしてビールを飲みながら
タクシーで帰宅することが週2~3回という生活だった。
翌日向野副社長に報告したら、3~4ヶ月待てるかと聞かれたので、できればすぐ
IBMへ復帰して療養したい、と返事した。
向野さんがすぐIBM栗生取締役に連絡をとってくれ、1週間後に復帰することになった。
会社を定時に退社し酒を控え、体重を落としてランニングを始めたら、3ヶ月くらいで
血糖値は正常値にもどった。

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2007年6月16日

会社生活(80). 部下も色々、上司も色々

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ゴマすりで仕事のできない人、約束の時間に来ないので電話するとまだ寝ていた人、
出張で一人でホテルで寝られない女性、面と向かっては柔順だが裏では悪口を言う
人、提案書を書くのに任せてくれと言うので任せたら出来上がったら全然提案書の体
をなしていないIBMからの出向者、他人の話を居眠りしながら聞く上司、依頼に行くと
にげる上司・・・などなどいろいろな人に会った。
仕事ができない社員が30万人もいれば、人減らしに子会社を作りたくなるのも無理
はない。労働組合の手前首をきれないから。
公社というのはお役所だから何十万人いても問題ないかもしれないが、民間会社は
仕事のできない社員を抱えていると倒産して給料をもらえなくなる。

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2007年6月15日

会社生活(79). 出向

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NTTから出向で来ている自分の部下は、NTTへ復帰することしか考えていない。
仕事に対する対する姿勢に積極性が見えない。
IBMとはえらい違いだと思った。
電話局で電話の申し込みに来るお客に応対することが営業だと考えているように
見えた。私に言わせればあれは業務で、営業ではない。ビジネスライクでもない。
私が出向して数か月経ったころ、向野副社長が体調不良ということで、数か月
休まれたことがある。食べた物がそのまま出てしまう、と聞いた。
恐らく笛吹けど踊らず、で指揮官が命令しても兵隊が突撃しない、ので神経を病
まれたのではないだろうか。
私としてはいい経験をさせてもらった、と考えている。

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2007年6月14日

会社生活(78). 同床異夢

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ある時日本電信電話株式会社(以下NTTと略称)の真藤 恒 社長 (1985年4月1日 
公社から株式会社へ変更)が半蔵門へやってきて講演するから集合せよとの指示があった。
それで聞きに行った。
真藤氏の話を聞いてNTTが日本情報通信(株)を作った意図が明確に分かった。
当時NTTには約30万人の社員がいて、社員数を減らすために日本情報通信(株)を作った
と真藤氏ははっきり言ったのを今でも覚えている。
片や日本IBMは、NTTあるいはNTTをとおしてコンピューターを売ろうとしていた。
2人で一つベッドに入って、違う夢を見ていたことになる。

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2007年6月13日

会社生活(77). 日本情報通信(株)への出向


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そうこうしているうちに日本情報通信(株)へ営業部長として出向する話が持ち上がった。
前任者がローテーションでIBMへ復帰することになり、白羽の矢が当たったわけだ。
私は元来じっとしていたり、同じところに長くいるのがいやな方で、かつ話があると何でも
乗ってみる性質なのですぐOKした。
日本情報通信(株)は、日本アイ・ビー・エム(株)と、日本電信電話(株)(NTT)(当時)
の折半出資の会社。
社長はNTT、副社長がIBMと決まっていて、マネジメント層は、NTTとIBMがサンドウィチ
の状態になっていた。当時IBMからは向野圭蔵副社長、畠野欣三常務、青山取締役が
いた。一般社員はほとんどNTTからで、NTT内の専門学校を出た連中ばかりだった。
私のグループには6名の社員がいて、なかには労働組合の委員長をやっているT君が
いたが、特別問題はなかった。
会社は、半蔵門の麹町警察のすぐそばにあった。

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2007年6月12日

会社生活(76). ソフトウェア会社の成長と分裂

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多くのソフトウェア会社を見ていると、奇妙な現象を発見することがある。
最初5人か10人でソフトウェア会社を始めて社員数が50~60人になると、半々
くらいに分裂する傾向を発見した。
社長になりたい連中が2~3人で会社を始めるが、創業時は会社を大きくすることに
中なので問題はない。
でも、社員数が50~60人になり一段落するとうまくゆかなくなる。
3人とも社長になることができないからだ。
このような現象を沢山見てきました。

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2007年6月11日

会社生活(75). ソフトウェア会社の悩み

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ソフトウェア会社の経営者に対しては、業種、業務に特化することをお勧めしていた。
技術レベルを上げてより高い価格で仕事ができるようにするためだ。
しかし、小さなソフトウェア会社では仕事があれば要員をアサインして、空きを作ら
ないようにするので、業種、業務はバラバラになり特化するのは容易ではない。
また、社員の教育に関しては、教育に出せばお金がかかって、売上がなくなるので
会社の経営にはダブルで効いてくる。
おまけに社員は条件が良ければ自社を辞めて他社へ移動する。
ソフトウェア会社の経営者にとっては頭の痛いことばかりなのだ。

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2007年6月10日

会社生活(74). D-PACK研修コース

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流通IM( Industry Marketing )という部門で流通業向けパッケージ・ソフトウェア
「D-PACK]を発表することになり、ソフトウェア会社を担当している私にサポートして
ほしいとの依頼があった。
依頼内容は、DーPACKをインストールしたり、売ったりしてくれるソフトウェア会社を
全国で10社作りたいので、10社のセレクションとその社長の面接を手伝ってほしい。
もう一つは、選択した10社のソフトウェア会社のSEにテクニカル教育を1年間で7日
間実施したいので手伝ってほしい、というものだった。
この仕事で流通IMの松尾俊秀さん、山崎宏明さんと知り合いになり、一緒に仕事を
した。
ある時研修をしていたらI社のSE 3名が昼食に出たまま帰ってこないで、夕方帰っ
てきた。本人達に確認したらさぼっていた、とのこと。
度胸がいいというか、バカというか、こんな連中も中にはいた。
本人達に断ってI社のK社長にその旨報告した。
K社長から預かって研修を受けてもらうことになったので、研修を受けなかったのでは、
約束を履行したことにならないからだ。

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2007年6月 9日

会社生活(73). 鳥羽のSE管理者研修コース

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IBM大阪の主催で三重県の鳥羽でSE管理者研修コースの手伝いをしたことがある。
鳥羽観光ホテルで開催された。内容は大体営業管理者研修コースと同じだった。
私はコールテイカーを依頼されて、自分の出番が来るまでかなりの時間があいた。
そこでホテルに頼んで船を手配してもらい釣りに出かけた。
狙いはメバルだったが、メバルはほとんど釣れず、連れたのはウマズラハギばかりだった。
そこでホテルに依頼してカワハギの刺身を作ってもらい、私の部屋で飲み会を持った。
キモを醤油にといて食べると美味で結構いけた。評判は上々でまたたくまになくなった。
大好評であった。
勿論研修コースも成功裏におわりました。

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2007年6月 8日

会社生活(72). 営業管理者研修コースの評判

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コースは、
1日目 : レクチャー 夜は懇親会 
2日目 : 午前中 レクチャー 午後 RFPを与える → プロポーザル作成作業 
3日目 : 午前中 ロールプレイ( プロポーザル・プリゼンテーション )
だった。

1日目は懇親会で一杯飲みゆっくり寝られるが、2日目はほとんどの人が徹夜
あるいは徹夜に近い状態で、3日目のロールプレイには朦朧とした状態で臨む
ことになり、有馬さんの研修コースは2泊3日ではなく、1泊3日
という評判だった。

料金が安いので、私のコースは大体熱海の先のシャトーテル赤根崎というホテル
で開催した。私は毎回全力投球なので、なれても3日間15人の人を預かると、
終わればぐっと疲れが出て翌日は1日中寝ていた。
気持のよい疲れだった。

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2007年6月 7日

会社生活(71). 営業管理者研修コースの内容

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営業管理者研修コースは、IBM社内のセールスマン教育をモデルに作った。
内容は、レクチャーとロールプレイに分かれていた。
ロールプレイは、RFP ( Request For Proposal = 提案書提出依頼書 )を
与えて、プロポーザルを作成させ、お客様を訪問、プリゼンテーションを行なわせる
ものだった。
この研修コースの内容は、20数年経った現在でも十分有益な内容と今でも思う。
毎回参加者から実務に役立つと高い評価をいただいた。
レクチャーは私が担当したが、ロールプレイは私一人では人数が足らず、コールテイカー
(ロールプレイのお客様役)としてIBM社内のSE課長やSEを3~4名依頼した。
もちろん私もコールテイカーも担当した。
つまり、私は、クラスマネジャー(研修コースの企画、セットアップ、運営担当)、講師、
コールテイカーと3役を担当した。
仕事内容はきつかったが、人を育成するのに役立つと思うとやりがいがあり楽しかった。
私がソフトウェア会社を担当した2年間で、私が企画、運営した営業管理者研修コースは
10コース、生徒数約150名だった。

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2007年6月 6日

会社生活(70). ソフトウェア会社の育成

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ソフトウェア下位者を募集したらわんさと押し寄せてきた。
2年間で600社くらい増やした。
ところがふたを開けてみると営業力のレベルが低いということで、教育をすることになった。
S/38をサポートするソフトウェア会社は従業員数のすくないところが多く、小さいところ
では10名位の会社もあった。
このため教育対象を役員、部課長から始めた。
営業管理者研修コースは、1回の定員約15名、2泊3日で、参加者1名2万円の参加費
をとったが、毎回IBMは50万円くらいの持ち出しだった。
IBM社員の人件費、出張旅費を入れると150万円くらいはかかったのではないか。

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2007年6月 5日

会社生活(69). ソフトウェア会社の募集

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2年くらい営業推進の仕事をしていたら、営業企画へ移ってこんどはソフトウェア会社
を担当しろという。
仕事は、S/38のアプリケーション・ソフトを開発してくれるソフトウェア会社を勧誘、
募集、審査すること、ソフトウェア会社の相談にのること、ソフトウェア会社の人材育成
だった。
それまではIBMは、プログラムは自社で開発すべきだ、要因教育はIBMがお手伝い
しますと、という方針で来た。
それが一転してS/38のお客様のプログラムを開発するソフトウェア会社を募集する
というのだからえらい変身である。
IBMは、お客様のプログラム開発はIBM経由でなくお客様と直の取引をしてよいという
ことだったので、ソフトウェア会社がわんさと押し寄せた。

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2007年6月 4日

会社生活(68). SSCへの異動

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そうこうしているうちにGSに SSC ( System Service Center )が新設される
ことになりそちらへの異動が決まった。
SSCでは、第二SSC(三納担当)で営業支援を担当することになった。
マーケティング・データ・ベースの設計に参加したリ、営業支援活動を行なった。
マーケティング・データ・ベースから、資本金、年商、従業員数、業種、地域などの条件
で該当顧客を抜き出し、デモ/セミナーを企画、案内状を作成、発送、こちらからデモ/
セミナーを電話で案内する、という仕事。7~8名担当者をもらい、私を含めて朝から晩
まで電話し続ける。4~5日。これはきつかったがいい経験になった。
デモ/セミナーに来ていただいたお客様を見ていて、可能性が高いお客様を営業に
渡してクローズするという段取りである。
なにしろ金額が大きい汎用機と比べてS/38などGSのシステムは金額が小さいので
大量販売しなければならず、大量販売のシステムを皆で知恵を絞った。
SSCでの仕事は、新しく始める仕事だったので、非常に楽しく、やりがいがあった。

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2007年6月 3日

会社生活(67). DPとGSの営業方法の違い

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DPの営業は大企業担当なので、アカウント・プランを作り、ストラテジーを考えて、
セリング・プランを立てて営業活動を行なう。大体3年くらいの大まかなプランの中
の1年プランを実行する。
これに対してGS営業は、中堅企業を担当する。汎用機と比べると金額が小さいので
多くの客先を担当し多くの台数を売らなければならない。
したがって、1件のセリングにそうそう時間をかけていられない。
とにかく走ることが中心になる。
私は後にGS部門に異動になったので両方の長所、短所がよくわかる。

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2007年6月 2日

会社生活(66). DPとGSの対立

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私が営業をやっていた時代には、営業部門は汎用機のDPと中小型機のGSの
二つに分かれていた。
DPの営業の中には、富士通に負けてもGSには負けるな、という人もいたくらい
対立した一面もあった。
私は別に部門の対立観は持っていなかった。
しかし、後に営業本部長になってJALの飛行機事故で亡くなったN君と2件客先
を担当したが、私が話を決めて、N君は見積書、契約書を持ってくるくらいで、
ほとんど営業活動をしないのにはまいった。
こんな営業が後に営業本部長になったのだから驚きだ。
私が見たのはN君は一面で、私が知らない他の面が評価されたのかもしれない。
人というのはわからないものだ。

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2007年6月 1日

会社生活(65). 分散システム

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IBMには3790という分散システムの原型があった。
本格的な分散システムとして8100が発表され、私は汎用機の担当を外され
8100のセールスマンになった。
分散システムという名前はカッコいいが、とても複雑なシステムだ。
処理を分散していると、エンド・ユーザーが勝手にプログラムを動かすようになる。
システム部門ではだんだんシステムを把握できなくなる。
データを分散すると、どのようにして同期をとるのかが難しい。
処理を分散してもホスト・コンピューターと分散システムの間には通信回線が存在
して転送速度に制約があるし、トラブルにも対応しなければならない。
処理とデータを分散するとセキュリティも難しくなる。
最近はセキュリティの問題でシン・クライアントにしようとの動きがあるが、システム
的に見ても単純明快な集中処理のシステムをお勧めしたい。

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2007年5月31日

会社生活(64). 漢字とコンピューター

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建設機械で世界的に有名なK社をチームセールスで担当したことがある。
当時支社をつないだ販売オンライン・システムのセリングをしていた。
IBMには3270というすばらしい端末があったが、まだ漢字の機能がなかった。
S/34には漢字があったのにである。
私は端末サイドの営業を担当していたのでお客様の要求にお応えできないで
困りはて、藤沢研究所の所長をしていた先輩のWさんに相談に行った。
Wさんによれば開発中とのことで、部下の部長に有馬に研究室を見せてやれ
と言ってくれた。部長の案内で見せてもらい、状況を説明してもらった。
説明に納得したのは別にして見て驚いた。テスト中の機械が何台も置いてあるのだ。
IBMの懐の深さ、力を見たような気がした。
それから間もなく3270漢字が発表された。

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2007年5月30日

会社生活(63). くじら屋

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SSCへ移ってからは六本木の「くじら屋」へよく行った。
くじらのステーキ、ベーコンを好んで食べた。
マスターにわがままを言って、脂身は要らないので、赤身だけのベーコンを
出してもらった。これは逸品で美味かった。
ステーキは尾の身の上等なやわらかく、脂もほどほどのっている肉だった。
私はいまだに牛肉よりも鯨肉の方がうまいと思っている。
酒は焼酎で、紅乙女か白波、一升瓶で置いていた。
紅乙女をお湯割り、中に梅干しを入れた。どちらかというと薄めの方が好みだ。
このくじら屋、鯨が禁漁になってからもしばらく在庫品で店をやっていたが、
在庫がなくなり店を閉めざるを得なくなった。
そんなわけで鯨を食べられなくなった。残念至極だ。

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2007年5月29日

会社生活(62). 四季里というスナック

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全U協の事務局を担当している時代は、中国大使館の隣のマンションの1階にある
小枝(さえ)へよく行った。
営業の時代には会社に近い六本木の四季里が多かった。
この店はこじんまりしていて、魚のおいしいのを出すので行くようになった。
この店のマスターの妹が柳橋の芸者をしていて、9持か10時になると友達の芸者を
3~4人連れて帰りがけに寄る。
ある時四季里へ寄るとジーンズをはいた女性が1人で飲んでいる、見るとなく見ると
なんとマスターの妹の友達芸者で顔を知っている人だった。
話していると、赤坂で芸者数人でクラブをやっているので行きませんか、ご馳走します、
とのこと。そんなで一度だけついて行ったことがある。
また、この四季里はお花で有名な勅使河原霞さんが若いボーイフレンドと逢引きする
場所だった。何度も霞さんと出くわしご馳走になったこともある。

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2007年5月28日

会社生活(61). 雷とコンピューター

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ちょうど1年間だけ、1月から12月まで軽井沢のミニチュア・ベアリングで有名な
N社を担当したことがある。
この会社の会長は東京と軽井沢をヘリコプターで行き来するのをよく新聞、雑誌
で報道されていた。
ところで長野県というところは雷で有名なところだ。
落雷するとコンピューターは記憶はなくなり、CPUも使い物にならなくなる。
これは今のパソコンでも昔の汎用コンピューターでも同じだ。
N社の事務管理課長もそれを心得ていた。
客先では勿論避雷針を設置していた。
雷は、伊奈谷から軽井沢へやって来ることが一般的なので、伊奈谷で雷が鳴り
始めると連絡がくるように手配していた。
連絡が来ると速やかにコンピューターの電源をオフにし、回線を切り離して、
コンピューターそのものに落雷しない限り安全な状態にした。
お陰さまで私が担当している間は無事でした。

夏の軽井沢は新宿か銀座のようにごった返しているが、12月~2月になると
人っ子一人見かけない、犬も猫もみかけないゴーストタウンになる。
それでも駅前に数軒鯉料理を出す店がある。
出張のたびに鯉コクを楽しんだ。

ついでだが、長野ではあられや雹がふることがあり、屋外に駐車していると
車の屋根に傷がついたりへこみができることがあるので要注意。

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2007年5月27日

会社生活(60). システムの移行でトラブル

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D社は2年くらい間をあけて2度担当した。
2度目は、D社でシステムを移行することになり私は貧乏くじを引かされた。
何故かって、他人の売ったシステムの導入を担当させられたからだ。
営業は売るのが仕事なのに、導入だけを担当させられた。
当時客先では、IBM S/370 Model125 DOS/VS を使用していたが、これを
IBM S/4331 VM and DOS/VS に移行することになっていた。
ハードとソフトを同時に変えるのである。
リスクを考えると、まず第一段階でハードだけ変え、第二段階でソフトを変える、そして
第二段階では、1ヶ月くらい現行システムと新システムを並行稼働させる、というのが
賢明な移行方法だ。
客先のM課長、K係長、SEなどに安全な移行方法をとるように説得した。
M課長曰く「わかるが二段階方式と並行稼働はできない」との回答。
私は「システムの移行にはトラブルがつきもの。トラブルが出ても責任もてません。」と
まで言ったが効き目がない。
移行作業に入ったら案の定トラブルが出て、1週間システムは止まった。
現場からは毎日矢のような催促がくる。M課長は対応に追われた。
しかし、M課長は私には私の提案を受け入れなかったので、文句は言えない。
私は自社のSEやCEには客先には直接説明するな、私に逐次報告してほしい、
私からM課長に報告するといってそのとおり実行した。
約1週間朝から晩までD社駐在した。
小さなトラブルはあったが、SEとCEの尽力で約1週間でシステムは動き始めた。
お客さんの説得というものは難しいものだ。
客先を説得できなかった営業の責任は重い。

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2007年5月26日

会社生活(59). 約束をまもらない客先

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私は釣り具で有名なD社も担当した。
D社にはN次長という大学の先輩がいた。
このNさん人はいいのだが、約束を守らない。D社とI社合同のミーティングを開催して
ミーティングで決めたことも守らない。
仕方がないので、ミーティングが終了したらすぐ議事録を作成し、サインまで求めて
実行を迫ったがそれでも約束を守らない。
こんなお客様も担当していい経験になった。

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2007年5月25日

会社生活(58). 紹 介

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私はK社のN部長には社内の幹部を多数紹介していただいた。
ご紹介いただけると決まったらその場で「申し訳ありませんが、今その方にお電話
していただけませんでしょうか? お差支えなければ、今すぐでもお邪魔させていた
だきたい。」旨お願い、話がまとまればすぐ訪問した。
実は後日になると大体紹介していただいた方の秘書に電話を入れ、アポをとるのに
時間がかかる。下手すると断られることもある、ので考えたやり方だ。
一度会ってもらえば、必ず次のアポをその場でいただいたので、その後は問題ない。
K部長は昔社長候補だったそうで、なかなかのキレ者でご紹介いただいて断られる
ことはほとんどなかった。
紹介者は選ばないとこちらまで評価をさげることがあるので、要注意だ。

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2007年5月24日

会社生活(57). 客先キーマンの交代

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K社のN部長が子会社の社長になって神戸へ転勤になった。
後任はK部長になった。
N部長は理詰めで考える方で大体お考えを予測できたが、K部長は営業出身だと
聞いていたが、何を考えているのかわからない人だった。
後に私に自宅へ遊びに来いと言っておいて、私が担当を外れる時に営業としては
来るべきでなかった、という人だった。私に娘の就職の世話までさせておきながら。
でも私に稟議書を見てもらいたい、とういうくらいの関係になったので、営業としては
まあまあ成功したと思っている。
その稟議書を5分見て私はコメントした。
この稟議書には効果を書いていないので、是非書くべきだと。
私にはKさんには稟議書をレビューする熱意も能力もないのではないかと推測した。
課長に書かせたのを知っていたからだ。

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2007年5月23日

会社生活(56). CPU水をかぶる

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1973年の正月の仕事始めだったと思う。
K社でコンピューター・ルームの電源をいつもの年と同じようにあげた。
電源をあげると同時にCPUの真上のダクトからバケツ3杯くらいの水が流れ出てきた。
当然コンピューターは使用できない。問題はどうして復旧するかだった。
客先管理者、IBMから技術部長、CE、SE、営業の私がおおよそ1日鳩首協議した。
新しいコンピューターをインストールするのが早いか、それとも乾かした方が早いか、
それらのリスクは?
その間に私は技術担当役員に顔があったので窮状を訴えた。この役員、千鳥町事業所
にほぼ同じコンピューターがあるから持っていってよいと言ってくれたので、運送の手配
をし客先コンピューター・ルームの前に新品のコンピューターを1セット置きながら鳩首
協議した。
結論は、乾かした方が早くて安全ということになった。客先のシステム管理部員は自宅
から物置にしまっていた扇風機やら毛布を持ってきた。一方客先ではCPUに熱い光を
当てるための機会を手配した。それから3日3晩光を当てながら、扇風機で風を送り乾燥
した。コンピューターがやっと復旧したのはほぼ1週間後だった。
コンピューターには銅版を使用しており、銅板が水をかぶると緑青がでてトラブルの原因
になるということで、客先では新しいコンピューターの導入を検討、丁度IBM 3031が
発表されたので発注された。
この復旧にかかった費用は技術所の予算1年分に相当した。IBMのM技術所長はかん
かんになって私に怒りをぶちまけた。ご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした。
お世話になりありがとうございました。

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2007年5月22日

会社生活(55). ゴルフ

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ゴルフは確か24歳の年に始めた。
筆おろしは箱根カントリークラブ。チャンピオン・コースだ。
今でも覚えているが、雨が降り、風が強く、しかも霧にもたたられた。
一緒にまわっていたお客様のゼロックスの鈴木課長さん、東亜合成化学の岡本課長さん
に「有馬さんこれよりひどい条件はないから、いい経験だ」といって慰められた。
確かに言われたとおり雨、風、霧の3つに同時にたたられることはその後一度もなかった。
というのはもう20年位ゴルフはやったことはない。
営業になってK社を担当してしばらくすると、N部長さんが東大の時の友人が栃木県の
大平台という新設クラブの支配人をすることになった。自分は月賦で会員になるので、
有馬さんも入れとおっしゃる。当時は高給取りだったので、まあいいか、と月賦払いで
会員権を購入した。
そのころ私は埼玉県の鷲宮団地に住んでいた。家を買う頭金を貯めるため自動車は
買わないでいたので、東北自動車道の久喜インターまでタクシーで行き、N部長にピック・
アップしていただいた。帰りにもたびたびN部長運転で団地まで送っていただきました。
たまには大宮まで帰ってきてマージャンをしたこともあった。
私はこのK社のN部長には仕事でも大変お世話になりました。
Nさんはずいぶん前になくなられました。
こころからお礼申し上げるとともに、ご冥福をお祈りいたします。

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2007年5月21日

会社生活(54). マージャン

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K社を担当することになって、N部長に挨拶に行った。
趣味の話になって、そのN部長がマージャンが好きだとわかった。
N部長に宣言された。
「営業マージャンをしないでほしい。営業マージャンをしたら二度とあなたを誘わないから。」
私はこの客先を担当している間営業マージャンは一度もしなかった。
と言えば聞こえがいいが、それほどの腕ではなかたからできなかっただけのこと。
でもプラス、マイナスするとすこし勝っているくらいだ。
マージャンで一度怖い思いをしたことがある。
ある夏休みのこと、コンピューターの据え付けの立ち合いにK社へ行っていると、係長の
Yさんが弟の一級建築士の家でマージャンをやることになっているので来いという。
Yさん、キーマンなので断れない。
弟さんの家へ行ったら冷凍機会社の専務、鮨屋のおやじがすでに来ている。
今日はお金を持っていないからNOというと、Yさんが負けたら立て替えとくからやれという。
しかたないから腹をくくった。
鮨屋のおやじなどハンドバッグニに札束を入れてきている。
驚いたことに点棒を使用せず、その度にキャッシュで清算する。
夕方6時くらいから始めて12時間くらいマージャンをした。
終わってみると私が2000円~3000円勝っていた。
それ以来有馬さんは手つきは下手糞だが、ほんとは強いとK社内で評判になった。
こんな怖いマージャンは後にも先にもこれ一度だけだ。
・・・という夢を見た。
20年以上マージャンをしていないので、今では点数も計算できない。

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2007年5月20日

会社生活(53). リアルとバーチュアル・メモリー

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今から34~5年前は、メモリーも磁気ディスク装置も価格が高かった。
当時のシステムは、リアルの主記憶域(リアル)が256KBしかなくても、プログラマーは
たとえば1MBの仮想記憶域(バーチュアル)を想定してプログラムを書くことができた。
この仮想記憶域を4~5の区画に分けてプログラムはそのいずれかの区画で
動くしかけになっていた。人には4~5のプログラムが同時に動いているように見えた。
K社のN部長は東大卒ですばらしく頭のよい人で、「リアルとバーチュアルの比はコンピュ
ーターのパフォーマンスには関係ないと日頃言っておられた。
しかし、販売物流オンライン・システムが動くようになるとシステム・ダウンの回数が激増
した。
よくよく調べてみると、リアルとバーチュアルの比が大きくなると磁気ディスク装置への
アクセスが大きくなる。磁気ディスク装置へのアクセスが大きくなると、それだけエラー
を拾う回数が増える。当時K社ではC社の磁気ディスク装置を使用しており、微妙な
ところでIBMのCPUとのインタフェースが違っているのもシステム・ダウンの原因に
なったようだ。
K社のN部長はシステムはマージャンでいえば国士無双(こくしむそう)が良いといい、
私は清一色(ちんいいそう)がよいといっていた。
私の清一色が勝って、まもなく磁気ディスク装置はC社からIBMに替わった。
そして主記憶域も増設することになった。

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2007年5月19日

会社生活(52). オンラインシステムのコンペティション

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セールスマンになって2年目にK社が高島平の近くに流通センターを新設して、
客先本社、流通センター、特約店3社を結んで販売物流のオンライン・システム
を構築することになった。
自動倉庫業の会社や端末機のメーカーなど5社とコンペになった。
総合力だはIBMが勝っていたが、通常の端末機ではどうしても価格で負けてしまう、
という状況だった。IBM3270端末では勝てない。
そこで銀行用の3600という安い端末があることを知り、これで提案して勝った。
端末機のメーカーS社の社長は、K社のN部長に「御社で値段をつけてください」と
まで言ったそうだ。
この販売物流オンライン・システムは、客先業種、アプリケーション、使用端末、ソフト
の組み合わせで世界で初めてだと言われた。
何分世界ではじめての組み合わせのシステムなので、来る日も来る日もトラブルが
続出したがSEのI君が頑張ってくれて無事本番稼働した。
このシステムが本番稼働した時、私はクリエイティブ・アプリケーション・アワードを
受賞した。
為せば成る、為さねばならぬ何事も。

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2007年5月17日

会社生活(51). コンピューターの性能

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私はIBMで汎用機部門の営業をしていた。
当時は IBM S/370 の時代で、私の担当していたK社では M138 を使用
しており、主記憶装置は256KBだった。主記憶域の最大は1MBだった。 ディスク
の容量は覚えていないが、3330磁気ディスク装置1台の記憶量量は100MBと
当時の SYSTEM/370 REFERENCE CARD に書いてある。
空調設備のある大きな部屋に S/370 は鎮座していた。
今私が使用している デスク・トップのパソコンは、メイン・メモリーが1GBで、ディスク
は260GBでマルチ・ジョブで動く。
しかもお値段はパソコンは25万円で買い取り。汎用機はディスクをふくめるとレンタル
で「毎月」小さくても1000万円~2000万円。
コスト・パフォーマンスはいったい何倍になるのだろうか?

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2007年5月16日

会社生活(50). セールスの船出

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IBMマーケティング・スクールを卒業、1972年7月1日セールス・リプリゼンタティブ
として船出した。
最初担当した客先は2件。
馬込の事務機メーカーのR社と八王子のカメラ、フィルム、印画紙、複写機メーカーK社。
R社では先任のセールスマンが売ったプリンター:1403-N01の据え付けだった。
このプリンターは、良い鉄で有名なスウェーデン製で頑丈な機械で、私の好きなタイプの
機械だった。
K社に関してはVANDEL-1(バンデル・ワン)というデータベース・ソフトのセリングを
して8月に受注に成功年間目標を達成した。
このソフトはカナダのVANCOUVER(バンクーバー)で開発したのでこの名がある。
セールスマンとしてはじめての仕事で、契約書にハンコを頂いた時は、うれしくて、
お客様の気が変わらないうちにと急いで失礼した。
あまりにもうれしかったもので、興奮して八王子から六本木までタクシーに乗って帰った
ことを昨日のことのように覚えている。
私は初年度の目標を100%以上達成して賞品として生まれてはじめてハワイへ行った。
ハワイからアイスクリーム、パイナップル、愛妻用のムームー、ショートパンツ等等を土産
に買って帰った。JTBの担当者から笑われた。

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2007年5月15日

会社生活(49). IBMのセールスマン教育

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今から36~7年前の汎用機のセールスマン、SEの教育期間は約15ケ月だった。
期間的に半分は会社の中のセールス・スクールで勉強、半分はフィールド(営業所)で
先輩の営業について見習をする。
教育方針は、お客様の役員と対等に話ができる人材を育てることにあった。
セールス・スクールは、厳しく一度でも落第点をとると、セールス・トレイニーを首になる。
毎週1~2回は必ずテストがあるので、居眠りなんぞしていられない。
営業所での見習だが、私は営業所長アシスタントということで、営業課長と机をならべて
いたので、先輩の営業はやりにくかっただろうと思う。
でも、私がついた先輩(年下)は、岡 雅顕さんという早稲田出身の人で人柄のすばらし
い人だった。大変面倒をみていただきました。
15ケ月の教育の総仕上げが2週間のマーケティング・スクール。
私たちの時は、神戸の六甲山ホテルで開催された。
このスクールでは、レクチャーもあるが、最大のヤマは自分が書いたプロポーザルを持参、
ロールプレイでインストラクターふんするお客様に契約印をもらえないと、卒業できない。
つまりセールスマン、SEになれない。
私のケースは岡さんのお陰で、早々と契約印をもらったので楽をさせていただいた。
若いクラスメートの中には、難渋お客役に按摩をしてハンコをもらった人もいた。
岡さん大変お世話になりありがとうございました。お元気でしょうか?

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2007年5月14日

会社生活(48). エノケン

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全U協事務局を担当している時に、名古屋でシンポジウムを開催したことがある。
中心は、中部IBM研究会で、N陶器のK部長、NゴムのS次長など。
これをサポートするIBMは、中島 敏本部長、担当は野田三枝子さんだった。
名古屋では名古屋の威信をかけて企画。特別講演に石田退三トヨタ会長を担ぎ出した。
大成功であった。
シンポジウムが終了して慰労会があり2次会で名古屋の栄のクラブ:たんぽぽへ行った。
たまたまその時にはエノケンが健在で、出演していた。いまだにあの顔を記憶している。
あのサルのお面を被ったような顔の印象は強烈で、一度見たら忘れられない。
エノケンが歌っている時に芸達者なNゴムのS次長が舞台に這い上がろうとして、制止
されるという珍事が起きた。
たいした騒ぎにならず、ほほえましい思い出として残っている。

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2007年5月13日

会社生活(47). お客様を自宅へ送って

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大阪時代にお客様と飲んで送る機会があった。
お客様はN商事会社のS次長だった。ご自宅が箕面で私が住んでいた石橋と
比較的に近いので、S次長を送って帰ることにした。
タクシーに乗ってS次長の自宅に着いた。するとSさん大きな声で奥さんを呼び
有馬君が是非お邪魔したいと言うので連れて来た。
タクシーは待たしておいて「上がれ上がれ!」という。時間は夜中の12時を過
ぎていた。私はそのようなことは一度も言ったことはない。
図られた、と思った。当然奥さんはいやな顔をされた。
これはSさんが自分が奥さんに責められるのを言い訳するのにSさんが考えた
計略だとわかった。
私はそんなこといってませんよ、言ったが取り合ってくれない。
Sさんがあまりひつこくいうので、仕方なしに上がって奥さんに挨拶、言い訳を
して早々に退散した。
Sさん肥後モッコスで日頃は厳しい人だがもう一面を見た気がした。

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2007年5月12日

会社生活(46). 千鳥町の教育センター通い

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向野取締役に相談して2ヶ月待って、2月から千鳥町の教育センターに通うことになった。
インストラクターは自分と同年輩が多く、スクールが始まるまで、私はインストラクターの
部屋の一番前に机を与えられた。
来る日も来る日もPI ( Programmed Instruction = 自習書 )での勉強だった。
その頃私は、結婚したてで、埼玉県の久喜の近くの鷲宮団地に住んでいたので、毎日
片道2時間半以上かけて千鳥町まで通勤した。
身体に相当負担がかかったが、自分で選んだ道、弱音は吐けなかった。

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2007年5月11日

会社生活(45). ローテーション

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私が勤務していた当時日本IBMでは、一つの仕事を担当する期間は大体3年
が目安になっていた。
私は全U協の事務局を担当して既に5年を過ぎていた。
その間上司は飯田課長、渡邉課長、石黒部長と上の人は変わるのに、私は
ローテーションの対象にならず取り残されていた。
一つ仕事を長期に担当すると仕事の勘どころを会得して楽にはなるが、挑戦
する気がだんだんなくなってくる。
直接の上司に言っても埒が明かない。
そこで私のハイヤリング・マネジャー(採用したマネジャー)である取締役営業
本部長の向野圭蔵さんに相談に行った。
朝7時半に六本木の本社へ来い、とのこと。
部屋に入ると向野さんはすでに書類に目をとおしておりポコン、ポコンと承認の
デート印を押している。
用件を話したら、「営業をやるつもりはないか?」とのこと。
そこで「やらしてください」と返事した。
向野さん「すでに来年1月1日の人事は決定しているので、来年の3月まで待て。
4月から所属を変えるから。」とのこと。
私「ありがとうございます。よろしくお願いします。」
話はわずか5分くらいで終了した。
これがIBMのメインストリームである汎用コンピューター部門の営業になる入り口に
なった。確か28歳の時と記憶している。
この向野さんの配慮がなければ今日の私はない。
向野さん、ありがとうございました。心から感謝しています。
惜しくも昨年向野さんは亡くなられました。ご冥福をお祈りいたします。

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2007年5月10日

会社生活(44). 酒が飯の代わり

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数年前に亡くなられた鈴木正六(しょうろく)さんのことが思い出される。
この方も全U協の委員長をされていた。
私はこの方からサラリーマン道を教わった。
この方は福島県の小名浜ご出身で、身体は骨と皮だけのようにやせておられた。
ご自分で言っておられたが、ご飯はほとんど食べないで、代わりに日本酒を飲ま
れるという方だった。肴は簡素なものが多かったように記憶している。
午前中に鈴木さんのオフィス日本石油へお邪魔すると、昼食を付き合うことにな
って、筋向いの広島の酔心へ行く。
そこではビールになる。こちらが払おうとすると、俺はこれだけ予算を持っていて
使い切れない、とかいって私に払わせない。
IBMでは酒を飲んで社内に入ってはならない、とのルールがあるし、ご馳走に
なるのも困るので、昼過ぎにお邪魔するようにしていた。
ある時どうしても鈴木さんの自宅へお邪魔しなければならない用件ができて、
池袋・要町のご自宅へ(社宅)へ上司の渡邉さんとお邪魔した。
朝10時に来いとのことで、ご指示の時間に伺った。
座敷に通されて待っていると、「おい!」という鈴木さんの声がして、奥さんの
「はい」という声が聞こえて鈴木さんが丹前を着てお出ましになった。
しばらく話をしていると奥さんが小さな四角いお盆にお銚子1本と1つの小皿に
塩ウニそれにお猪口3つをのせて現れた。
まさか朝の10時に酒が出るとは思っていなかった。
お断りしたが、聞くようなかたでないことはよくわかっていたので、渡邉さんも
私もやむを得ず朝から酒を飲むことになった。
私は飲んでも顔に出ないので問題なかったが、渡邉さんは酒に弱く赤くなって
会社へは帰れない。やむを得ずパチンコ屋で酔いをさまそうということになり、
これまた朝からパチンコに付き合わされた。
鈴木さんは酒ばかり飲んでおられたが86歳まで生きられ、数年前鎌倉の自宅
で亡くなられた。ご冥福をお祈りいたします。ありがとうございました。

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2007年5月 9日

会社生活(43). 料亭でマージャン

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全U協の委員長をされていた博報堂・常務取締役の豊田 連(むらじ)さん、前任の
ブリジストン・部長の萱田晴巳さんと時々銀座一丁目や新宿御苑近くの料亭で飲み
ながらマージャンをした。
IBMサイドは渡邉さんと私だった。
豊田さんも、萱田さんも マージャンが弱くて、大体私が勝っていた。
萱田さんからはよく「有馬さんはお小遣いが乏しくなるとマージャンを誘いに来る」
と揶揄された。懐かしい思い出だ。
萱田さんお元気でしょうか?お世話になりました。ありがとうございます。
豊田さんはずいぶん前に亡くなられました。
ご冥福をお祈りいたします。ありがとうございました。

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2007年5月 8日

子供時代(49). マル老衰で死す

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私が高校生の2年生の時マルは老衰になった。
獣医さんに何回か来てもらって、注射をしてもらったが老衰には効かなかった。
「マル」と名前を呼ぶとフラフラしながら歩いて、寄ってくる。
可愛そうでならなかった。
2~3日そんな状態が続いて、マルはムシロの上で動かなくなった。
父と2人でムシロでマルを担いで裏の畑の端に埋めに言った。
涙が流れて止まらなかった。今でも思い出すと涙が出てきそうだ。
老後は犬と暮らそうとずっと思っているのにまだその機会は来ない。

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2007年5月 7日

子供時代(48). マルと名古屋コーチン

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マルがもらわれてきた時には内で名古屋コーチンという鶏を一羽飼っていた。
マルが小さい時は、マルが鶏に寄って行くとよく嘴でつつかれていた。
瞬く間にマルが大きくなると、鶏の方が分が悪くなった。
その内に子犬の時の恨みか?まるが名古屋コーチンを噛み殺してしまった。
名古屋コーチンにはかわいそうなことをした。
でも犬を叱ってもわかるわけがないので、叱らなかった。
ついでの話。名古屋コーチンが玉子を抱いて孵そうとしたことがある。
近くに寄るとものすごく臭かった。
こんな臭いがするものなのでしょうか?

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2007年5月 6日

子供時代(47). 多産系のマル

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犬の成長は早い。1年くらいで瞬く間に成犬になった。
マルも年頃になるといろんなオス犬と恋をした。
犬というのはセックスする時、オスとメスがつながると水をかけようが、スコップで
叩こうが離れない。
セックスをすると子供ができる。
犬はセックスする時は人の前でもするが、子供を生む時は飼い犬でも家族の見え
るところではお産しなかった。
一度など床の間の下の縁の下でお産した。
父が畳と床板をはずして子犬を取り出したら、なんと13匹出てきた。

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2007年5月 5日

子供時代(46). 私の兄弟マルという犬

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私の父が荘内とういうところから鰯トロバコ1杯と交換に子犬をもらってきたのは、
父がジャンバーの内側にその子犬を入れて帰ってきたので、多分冬だったと思う。
子犬に「マル」とういう名前をつけた。マルは女の子だった。
マルはシルバーのシェパードで、何でも犬と狼の混血だといっていた。
高木という肉屋で牛の筋肉を買ってきて煮てやっても一向に食べない。
お腹がすくと私たちが食べているテーブルへやってきて、テーブルに前足を載せて
食べ物をねだる。人間がたべている魚など好んで食べるので、箸で与えていた。
人間の食べ物は犬には塩分が強すぎるのか、よく皮膚病を患った。
食べるのが一緒なら、寝るのも一緒のこともあった。
冬など私が離れで寝ていると、前足でかなり重い戸を開けて、私が寝ている掛け
布団の足元に丸くなって寝ている。
朝起きてみるとマルの足跡がいくつもついている。
マルにはよく遊んでもらった。
そんなわけでマルと私は兄弟だった。

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2007年5月 4日

会社生活(42). 昇進と昇給

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私は日本アイ・ビー・エム(株)に入社して4年で管理職に昇進した。
当然給料は上がる。
ハードとソフトの価格分離の営業政策実施への貢献が評価されたものと思っている。
その時の上司は渡邉 覓(もとむ)さんである。
渡邉さんは「お前の給料は周りの同期の人と比べて低い」といって2度昇給してくれた。
これで1年間に3度昇給したことになる。
後にも先にもこんなありがたいことはなかった。
聞くところによると、当時は1度昇給して、3ヶ月経つと成績がよければ昇給できた。
多分現在は考えられないことだと思う。
今では一生の良き思いでになっている。渡邉さんありがとうございました。

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2007年5月 3日

会社生活(41). 新聞の取材、編集の手伝い

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全国IBMユーザー協議会(全U協)の機関紙に「 IBM Users ]があった。
当時 IBM Users の発行は元NTT統計局の職員だった宮本さんの
会社に委託していた。
私は事務局担当だったので、カメラを持って取材に出かけたり、編集を手伝っ
たりしていた。
ある時全U協の委員会で宮本さんが儲けすぎているのではないかという意見
が出されてもめたことことがある。
同席していた宮本さんは必死になって防戦したが防戦し切れなかった。
私の上司の渡邉さんは宮本さんと懇意で宮本支持派であったが、私は常々
儲けすぎているようだと思っていた。
その後宮本さんはかなり取り分が減少してこの案件は決着がついた。
自分だけいい目ををしようとするとどこかでストップがかかって、常識的な線に
もどる、という私にとっての教訓になった。

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2007年5月 2日

子供時代(45). ハゲ山

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第二次大戦後私の生家の前の山々はいたるところハゲ山であった。
戦後燃料がなくて山の木を切って燃料にしたとのこと。
私が小学生の頃は山の砂防工事がおじさんやおばさんの失業対策事業になり、
彼らの収入源になっていた。
山に木を植えないと山は崩れてくるので、その後植林事業が続いた。
私の生家の前の山の天辺に大きな岩があるので、山が崩れて落ちてこない
かとヒヤヒヤしたものだ。
最近帰省すると山にはハゲたところは全く見えない。
前の山の天辺の岩も見えなくなった。
しかし、生家の近くでは山を崩して埋め立て住宅地を作ったり、工場団地を
作った。
失われた自然は2度と帰ってこない。
人間の勝手さに自然のお返しがないことを祈りたい。

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2007年5月 1日

子供時代(44). 「しゃこ」の獲り方

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岡山県玉野市の宇野の近くに喜兵衛島という島がある。
ここには母方の親戚の漁師の家が4~5軒あり、母方の尾崎家のお墓があった。
過去形であるのは、後に玉野に深山公園という公園墓地ができて、そこへお墓を
移したからである。
この島へお墓参りに行くと、親戚の山本 明という年上の兄貴が遊びに連れて行っ
てくれる。
ある時「しゃこ」(あの寿司のネタになる)獲りに行った。
しゃこは砂浜に一匹が1本の穴を掘って住み家にしている。
穴の両端に出口がある。つまり砂浜に2つの穴がある。立派なしゃこ様の家である。
どうやって獲るか?
穴を掘って獲るのではない。
棒で穴をつついて獲るのでもない。
穴の一方からしゃこを1匹入れる。そうすると穴の中間で2匹のしゃこがかちあわせ
して両端の穴から1匹づつ飛び出してくる。
卵(こ)持ちのしゃこを塩茹(しおゆで)すると大変美味である。
大人がそうしてしゃこを獲っているのを見て覚えたものだか、あそびで考え出した
ものだか知らないが、習性を利用した知恵がすばらしい。
今でも島の子供はしゃこ獲りをして遊んでいるのだろうか?

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2007年4月30日

子供時代(43). 塩蔵(えんぞう)クジラ

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戦後物がない頃カマス(わらむしろを二つ折りにした袋)に入った塩蔵クジラが
時たまやってきた。塩蔵クジラとは塩漬けのクジラ肉のこと。
その臭いたるやくさいことくさいことはなはだしい。クサヤよりももっと臭い。
肉類はほとんど入手できないので、これを食べた。
どう料理したかと言うと、塩蔵クジラの肉を塩出しして、醤油と砂糖であまからく
煮て食べる。時にコンニャクを入れて煮る。臭い消しに生姜を入れることもある。
燃料は薪(まき)や練炭(れんたん)だ。
なにしろ食べ物がないので、米や魚が配給制度の時代である。
今のように自由に買えない時代の話だ。

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2007年4月29日

子供時代(42). 紫雲丸事故

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私が中学生の頃紫雲丸事故というのがあった。
高松港の港外、ほとんど高松港の目の前で、国鉄・宇高連絡船の下りの宇高丸
(うこうまる)と上りの紫雲丸(しうんまる)が衝突し、紫雲丸が沈没、168名が亡くなら
れたという事故である。
ご冥福をお祈りいたします。
翌日の新聞には大々的に新聞に写真が載っていたのを思い出す。
なぜ記憶しているかと言うと、私が通った玉野私立日比中学校に高松に住んでいて
通っている先生がいたからで、事故の日はその先生が来なくて、学校中で心配した。
不幸中の幸いでその先生は無事だった。
168名の内100名以上が広島から修学旅行で来ていた広島の小学校の児童だった
そうだ。なんともかわいそう、哀れでならなかった。
衝突原因は霧による視界不良だった。
備讃瀬戸では3月~5月の春から初夏にかけて時に霧が発生することがあるのは、
私でも知っている。何とかならなかったのだろうか?
最近は太平洋で船同士が衝突する事故が何度も起きている。
あの広い太平洋でどうしたら船同士が衝突するのか?
不思議だが事故は現実にはある。
機器が発達しても人間が注意を怠ると事故になるということではないだろうか?
船長、パイロット、運転手・・・さんにはルールを教えるだけでなく、安全に対する意識を
徹底していただきたい。
ちょっとした不注意が大事故を招く。

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2007年4月28日

子供時代(41). 小学校の便所

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私が通った小学校:岡山県玉野市立日比(ひび)小学校は海抜100メートルくらいの
山のふもとにあり、山にのぼると瀬戸内海が見渡せる。
すぐ下には三井造船・玉野造船所があり船の進水式など山上から見学できる。
この山にはヤマイヌが住んでいた。
私が通った当時は小学校は木造(杉材が多く使用されていた)で廊下を歩くとよくギシ
ギシと床が鳴いていた。20年位前に行ってみたら鉄筋の建物に建て替えられていた。
小学校の端に便所があった。便所の後ろには墓地がある。夕方薄暗くなってくると幽霊
が出るとか言って生徒は近寄らなかった。
時には悪がきが集まってジャンケンして、負けた奴が気味の悪い便所まで行って来る。
校舎が鉄筋になって気味の悪い便所へ行く必要はなくなったが、今時の悪がきは肝試
しなどやっているのだろうか?

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2007年4月27日

子供時代(40). どじょう(鰌)

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私が育てられた家の前は道路で、その向こうには幅4メーターくらいの川が流れている。
家から200~300メーター下流に高さ50センチくらの堰が作られていた。その堰には
水が溜まるがドロも溜まる。このドロがどじょうの住みかになる。時期は忘れたが、時々
どじょうが息継ぎに水面に上げって来る。見ると腹が金色にそまり少々赤っぽい。
どうやら腹に児を持っているらしい。すごくきれいだ。
そこでどじょうの使用法を1つ伝授しよう。どじょうを裂いて骨をとって身だけにする。
これを熱をもった我々の身体の一部に貼る。すごく熱をとってくれる、ときいて実際に
使ったことがある。私の右の親指の先の爪の下がヒョウソウになって化膿して、隣町の
内田外科で爪をはがす手術をした時指がものすごく熱をもった。近所のおばさんが
ドジョウを裂いて貼ると熱を取ってくれるとアドバイスしてくれた。
やってみたら朝貼ったどじょうを見たら熱を吸収、煎餅のようにカリカリになっていた。
社会人になってから浅草の駒方へどじょうを食べに行ったことがあるが、あの子供時代
のドブ川を思い出して鍋に手がでなかった。

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2007年4月26日

子供時代(39). 小学校の給食

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小学校の給食で記憶に残っているのは、カレーライス、ミルク、あんず、である。
カレーライスに、肉がないのでサバ(鯖)の身が入っていた。家ではあまりカレー
ライスを食べた記憶がなく、給食のカレーライスがおいしかった。
ミルクは、脱脂粉乳を溶かして甘みをつけたもの。家内などマズかった、というが
私にはあの丸いアルマイトの食器で飲んだ温かい脱脂粉乳のミルクはおいしかった。
ある時風邪かなんかで学校を休んだら、近所の同級生の子が今日は給食に「あんず」
が出たといって持ってきてくれた。おいしかった。
今のようにチューインガムなど売っていなくて、麦を噛んで代用品を作った。
大人はコンサイスの薄い紙にタバコをくるんで吸っていた。
そんな時代の話である。

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2007年4月25日

子供時代(38). 旅回りの芝居

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私が小学生のころには我が岡山の田舎町にも旅回りの芝居がやってきた。
芝居小屋は原っぱにわらで編んだ莚(むしろ)で囲われ、簡易に作られる。
にわか作りの芝居小屋に入ると、莚がしかれておりその莚の上に座って芝居
見物する。直接莚にすわると足が痛いから家から座布団(ざぶとん)持参する。
見物料は10円か20円だったような気がするが確かではない。
出し物は3~4日連続物である。初日に芝居小屋に入ると大体終わりの日まで
見物することになる。
今でも記憶に残っているのは、鬼婆(おにばば)が出刃包丁で人殺しする出し物
があり、子供心に怖い思いをした。
田舎の便所(トイレ)には小さな豆球の電球しかついていないので薄暗く、夜など
芝居を思い出して怖くて便所へ行けなかった。

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2007年4月23日

会社生活(40). 上司の添削

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上司が飯田課長から渡邉 覓 (わたなべ もとむ)さん(通称ナベさん)に替わった。
渡邉さんは、1964年の東京オリンピックの時に報道課長を務めた人で、なかなか
の自信家であったが、文章のうまさには敬服した。
社内レター、お客様の名前で出す書簡を私が書いて提出すると、真っ赤赤に添削して
くれた。たしかそんなことが1年くらい続いた。
来る日も来る日もレターは真っ赤赤で気分はよくなかったが、何とか赤がはいらない
レターを書くよう努力、1年くらいしたらかなり赤が少なくなった。
一度など、ソニーの井深さんに全U協の論文審査委員長になっていただき、そのスピ
ーチの原稿を書くことになった。井深さんの三田マンションのご自宅に伺い、応接まで
渡邉さん口述、有馬筆記したこともある。
昔は今のようなパソコンの時代と違い、赤字で直されると、書き直さなければならない。
大変な作業なのだが、考えながら書き直すので、教育効果は高かったと思う。
今考えるとありがたいことだ。渡邉さん、ありがとうございました。
お返しに自分が若い人に添削などするチャンスがればお役に立ちたいと思う。

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2007年4月22日

会社生活(39). コンピューターの価格分離

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大阪から転勤で東京へ帰ってきてしばらくすると、ハードウェアとソフトウェアの価
格を分離するという価格分離を実施することになった。
それまでは込みの価格だった。価格は分離されていなかった。
全U協(全国のIBM研究会の連合体)はIBMユーザーの集まりでもあり、ある時
経団連会館で向野営業本部長が10名あまりの委員に対して、価格分離について
説明した。今から考えると合理的で至極当然な話だが、説明を聞いた広島のM自
動車のM部長など、激昂して真っ赤な顔で反論したのを覚えている。
多分値上げと受け取られたのだろうが、本当はそれは違っていた。
その後ハードとソフトの価格分離方式は国産機メーカーが従うことになり、世の中
の大勢となった。
私は全U協事務局担当者として、全U協委員各位の意見を会社に伝え、価格分離
の実施に雑用係りとして貢献した。

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2007年4月20日

会社生活(38). 正誤表のない論文集

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全U協(全国IBMユーザー協議会)では、その頃は毎年論文を募集、論文集
を刊行していた。
本を出す時には当然校正をする。しかし、校正(後世?)恐るべしとはよく言ったものだ。
私が担当するようになるまでは毎年正誤表を出していた。
400~500ページの本だから正誤表を出してもいたしかたない、と言うのが一般常識。
でも私は正誤表を出さないことに決めて頑張った。出張校正を何度もやった。
しまいには出版社のの日本経営出版が泣きを入れてきたが許さなかった。
私が担当している間に5冊論文集をだしたが、一度も正誤表は出さなかった。

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2007年4月19日

会社生活(37). お客様出迎えで大失敗?

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ある年の暮れに全U協の幹部とIBMの役員で忘年会を柳橋の料亭でやろうという
ことになった。
私が幹部お二人をハイヤーでお迎えに行くことになって、まず最初に田村町の日本
石油さんへ伺った。今は亡き鈴木室長をお迎えした。次に浜離宮の三井造船さんの
吉永部長をお迎えに伺った。
三井造船を出て間もなく事件は起きた。
三井造船を出て間もなくのところで鋼材を積んでいたトラックが横倒しになっていて
警察官が交通整理をしている。丁度夕方で懐中電灯をもって方向指示している。
ハイヤーの運転手さんは当然指示にしたがって走った。
そしたら行く道は首都高速しかなかった。首都高速へ誘導されたわけである。
運の悪い時は重なるもので、首都高速が夕方で大渋滞。
二人のお客様は悠々としていたが、私は気が気でない。冷や汗だらだらだ。
今と違って携帯電話などない時代。どうしようもなかった。
柳橋の料亭にはIBMの社長、副社長はじめ役員が10人くらいが待っていた。
結果として連絡がとれずに約1時間遅れて料亭に到着した。
私の上司の渡邉さんは青筋立てて怒っている。そら当然だ。
私は詰問するように叱られた。
そしたら日本石油さんの鈴木室長(全U協委員長)が事情を説明してくれ、有馬
せいではないということがわかり皆機嫌を直してくれて事なきを得た。
鈴木室長には大変お世話になりました。ありがとうございました。
数年前に亡くなられました。ご冥福をお祈り申し上げます。

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2007年4月18日

会社生活(36). 穿孔管理調査報告書

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全国IBMユーザー協議会の事務局を担当して間がない頃穿孔管理調査報告書を
出そうではないかという話が持ちあがってきた。
当時はデータ入力するのに80欄のIBMカードに穴をあけてその穴を機械が読み取る
という入力の仕方が一般的だった。このカードに穴をあける仕事をしてくれるのが女性
で「キーパンチャー」という職種だった。
生命保険会社などでは大量のデータが発生するので、100人とか150人とかいう
大勢の女性がキーパンチルームにいた。若い女性ばかりの部屋だった。
私など恥ずかしくては入れなかった。
という話は置いといて、このキーパンチという仕事、指でキーを叩くので腱鞘炎になる
ということで、労働省から1日ナン・ストロークとかいうキー・タッチの基準が出ていた。
以前に調査報告書を出してからかなりの年数が経っているので、新しくしようという
ことになった。
私はそのころはまだコンピューターのことは何も知らなかった。
IBMにはキーパンチで有名な2人の女性がいた。一人は古宇田さん、もう一人は
竹内さんで、お二人の指導よろしきを得て確か10年ぶりくらいで穿孔管理調査報
告書をだすことができた。お二人に今でも感謝しています。
ありがとうございました。

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2007年4月17日

会社生活(35). 野田一夫先生と上司

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IBM本社の筋向いのマンション「北野アームス」には我が上司・渡邉 覓
(わたなべ もとむ)さんの友人である立教大学教授・野田一夫先生の事務所があった。
家賃が高いだろうによく大学教授がマンションを借りられるものだと不思議だった。
それに美人秘書がいた。我が上司はずっとチョンガでその美人が目当てでよく出入り
していたのかもしれない。そのせいか私はめったに連れて行かなかった。
この野田先生、虎ノ門会館でIBMユーザーズ・シンポジュームを開催した時、パネル・
ディスカッションの司会を引き受けてくださった。
どういう行きがかりか知らないが、京都の○○機械製作所の社員が、「野田先生は
きれいごとを言い過ぎる。現実派そんなものではない。あなたはやはり世の中を知ら
ない大学の先生だ。」と発言。野田先生、カットきたらしく、司会をパネリストに代わっ
てもらってヒト・ディスカッションが展開された。
その時はひやひやしたが、今となっては懐かしい出来事だ。

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2007年4月16日

会社生活(34). 4月10日の大雪

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今から40年くらい前のことだ。
4月に入って春らしくなったと思っていたら、大雪が降った。
そのころ勤務場所は、三宅坂のアサヒペンタックスのビル。
赤坂見付けで地下鉄を降りて、信号を渡り、左の方へ坂を登って行く。
結構な勾配でビジネスシューズでは滑って危ない。
北海道のように靴底にギザギザの滑り止めがついた靴など売っていない。
そこで、ゴルフ・シューズを持参、赤坂見附の駅で靴を履き替えて、坂を
登って事なきを得た。
そのころはまだ地球温暖化など聞かない時代だった。
ひょっとするとその頃にはもう温暖化が始まっていたのかもしれない。

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2007年4月15日

会社生活(33). 北野アームスの裸体体操

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IBM本社の筋向いに北野アームスというマンションがあった。
誰から聞いたのか忘れたが、IBM本社の7階から北野アームスの
ある部屋で毎朝外人の美人が裸体体操しているのが見えたと言う。
こちらから見えるくらいだから、向こうからも見えるはず。
ひょっとしたら見せびらかしていたのかもしれない。
もっと早くいってくれれば見てあげたものを。拍手くらいしたのに。
ああ残念。おしいことをした。

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2007年4月14日

会社生活(32). 自民党本部の火災

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IBMの本社が永田町にあったころ、丁度本社の裏が自民党の本部だった。
ある時自民党本部が火災になった。非常ベルが鳴って全員社外へ退避した。
本当だか嘘だか知らないが、赤軍派のしわざだという噂が耳に入ってきた
のを覚えている。南圃円という中華料理屋がIBMの隣にあって、ここの近くが
一番火が強かった。周りの道は人でごった返していた。
テレビや新聞で見た記憶のある人がポケットに手を突っ込んで、お付が傘を
さし掛けて歩いてくる。いくぶん微笑んでいるように見えた。
なんと渡辺美智雄さんだった。さすがに大物は違うものだと思った。

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2007年4月13日

会社生活(31). 飲めない上司がクラブ

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飯田課長(途中で渡邉課長に交代)の上に次長?の豊田敏夫さん(通称TT=
ティーティー)がいらっしゃった。豊田さんのことは亀田さんや門脇さんなど我々
仲間内ではティー・ティーと呼んでいた。
この人九州出身の東大卒で、ゴルフはシングル。落ち着いたしゃべり方でなか
なかの紳士だった。背が高く1メーター90くらいあったと思う。顔はちょっと失礼
だが昔のテレビのライフルマンに似ていた。でもいろいろお世話になりました。
飲めもしないのに時々銀座の泰明小学校の近くに確か「あざみ」という高級ク
ラブがあって、連れて行ってくれた。ここの店は九州が本店だといっていた。
この店で何度か紀伊国屋の社長をしていた田辺茂一さんに出会った。酔って
いるのか見かけたときはいつも微笑んで、フラフラと歩いていた。
あざみでは一度野球の中西 太さんを見かけたこともある。
私は若いサラリーマンとしては高給取りだったが、自分で銀座のクラブに行くほ
ど裕福ではなかったし、個人的にはそんな趣味はなかった。
当時私がお客様の幹部とのお付き合いがあったので、ちゃんとしたところへ出
てもビビラナイようにとの親心から連れて行ってくださったのだと思う。
それにしてもえらいご迷惑をおかけした。残念ながら今の私にはそんな力はない。
豊田さんありがとうございました。お元気でしょうか?

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2007年4月12日

会社生活(30). 優秀な同僚達

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営業計画課(戸倉課長)に同年輩の門脇弘樹さん、亀田 登さんがいた。
門脇さんは会社が終わったら四ツ谷の日米会話学院に通っていた。アメリカの駐在員
を目指して頑張っていた。この人度の強い眼鏡をかけていたが、ある時コンタクトレンズ
に変えた。コンタクトをしっぱなしにしていて失明寸前まで行ったことがあった。
門脇さん、後年目標のアメリカ駐在員になり、日本に帰ってきてから営業部門で日産
自動車を担当の営業になった。おしいことに数年前になくなった。
亀田さんは、鵠沼の亀田病院の令息で、湘南の和歌大将といわれていた。
彼は早稲田の大学院を卒業していた。
後年彼はLBSというIBMの子会社の常務にまでなった。惜しくも先年亡くなられた。
また、勝部 雄さんという係長がいて気が合ってよく話をした。
勝部さんが旗の台の自宅へ遊びに来いとさそってくれお邪魔したことがある。
彼、見かけによらず情熱家でタンゴが好きだった。レコードを何枚も聞かせてくれた。
勝部さんは私のことを「ザ・マン(男っぽい男)」とよんで、可愛がってくれた。
この方はもうかなり前になくなられた。本当にまじめな人だった。
こうして同年輩の昔の同僚が2人、先輩が1人亡くなられている。
いい人は早くなくなる。
私は別に長生きしたいわけではない。せいぜい彼らを見習っていい人になりたい。
門脇さん、亀田さん、勝部さんのご冥福をお祈りします。

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2007年4月11日

会社生活(29). もてもて!

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昭和42年(1967年)9月1日から営業推進本部、営業推進課(課長:飯田和雄さん)
の配下に入った。飯田課長ゴルフのうまい人だった。だけど、仕事の方は、たいしたこと
なかった。正直言って、仕事でいくら頑張っても評価する人ではなかった。上司や同僚の
課長と部下の評価を頑張ってくれるような人ではなかった。
でも、楽しいことがあった。
同じフロアに技術部があって男性はおじさんばかり。だから女性の秘書や事務担当者
はこちらに注目。中には誘いをかけて来る子もいる。
桑原さん、斉藤さんお元気でしょうか?その節はありがとうございました。
毎朝、お茶を入れてきてくれる。時にはお菓子をいただく。
IBMに30年近く勤めたが後にも先にもこんな天国はなかった。

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2007年4月10日

会社生活(28). ありがたい「おせっかい」?

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若松延男さんから転勤の話が合ってから暫くしてのことだった。
関西IBM研究会の会合の後、日本生命の金山部長さんといっしょになった。
帰る方向が同じだったから。
今でも覚えている。梅田の駅の構内で、金山さんいきなり「有馬さん、東京へ
帰りたいんでしょう? 近く全U協の委員会があるので、その時におたくの
竹下さん(営業推進部長)に話をつけてきてあげるから安心しなさい」と言われた。
どこから話を聞きつけられたのだろうか?
私は、「社内のことでお客様にそのようなことをされると私が困ります」と申し
上げたが聞き入れてくれない。「安心しなさい」とおっっしゃる。
私は「お気持ちはありがたいのですが、でも本当にお止めいただきたい」とお願い
した。しかし同意していただけなかった。
本当に東京で金山部長さん、竹下本部長と話しをされた、とのこと。
実は、竹下 毅という人、肥後モッコスで、特攻崩れの一本気な人。
千鳥町でインストラクターをしている時、お客さんの受講生が居眠りをしていたので
チョークを投げつけた」という逸話の持ち主で、筋の通らない話で彼を怒らせると、
まとまる話も壊れてしまうと心配したからである。
結果としては、竹下さんに怒られることもなく、転勤の話はまとまり、転勤が決まった。
昭和42年9月1日付けで、営業推進本部、営業推進課へ異動になった。
金山さんありがとうございました。お元気でしょうか?

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2007年4月 9日

会社生活(27). 九州美人

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ある時大阪の中之島のホテルで、お客さんのパーティーがあり出席した。
変なクセにお客さんがいて、酔ってくると誰かれかまわずホッペにチュウーをする。
別にホモではなかった、とのこと。
逃げて回っていたら、すごい美人のホステスに出会って、話し込んでデートの約束
をしているところへ邪魔が入って話不成立。NHKの部長に大島さんという部長が
おられてパーティーに参加していらっしゃった。この部長が邪魔をした。
ああ残念なことをした。そのホステス、父親が九州の炭鉱夫といっていた。
まれに見る美人だった。ああ残念、無念!
話のついでにもう一人の九州美人を紹介します。
福岡へ出張、飛行機の中で事務管理課長の清水 潔さんと一緒になった。
タラップを降りる途中で清水さんが私の袖を引っ張る。何だろうと思ったら、前を行く
女性は中尾ミエさんだという。私はそれまで気がつかなかった。言われてみると
そのとおりだ。中尾ミエさんだ。真っ赤なコートを着て、サングラスをかけていた。
スタイルも良いし、絶世の美人だった。その頃は。ああ昔がなつかしい。

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2007年4月 8日

会社生活(26). 転勤の話

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本社の営業推進本部(本部長:竹下 毅さん)、営業推進課(課長:飯田和雄さん)に
若松延男さんという人がいて、全国IBMユーザー協議会の事務局を担当していた。
この人、要領もいいができる人で、会社を休職して私費でアメリカの大学へ留学する
とのこと。それで後任の担当者を探しに大阪まで来て、後任にどうかという。
そのころ私はどうも東京へ帰りたくてしょうがなかったので、OKと返事した。
でも、人事はいつ変更になるかわからない。正式に決まるまで、何時なんどきひっくり
返るかわからない。そんなのを何度も見てきた。最後まで気が抜けなかった。

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2007年4月 7日

会社生活(25). 有馬温泉

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丁度2年間大阪営業所にいたが、有馬温泉に行ったのは1度しかない。
それも父母が2人そろって魚市場の旅行で有馬温泉に来たので、父母に会いに行って
入浴、泊まった。私は大勢でぞろぞろ、というのはどうも性分に合わないので、早々に
自分の部屋へ引き上げて布団に入った。
父母と3人で話していると、またもや縁談の話をされるので、避けるためだった。
後で母にきいたところ、まだ23~4才というのに何枚か見合い写真が来ていたそうだ。
私が住んでいた石橋からは宝塚が近いので、話のネタに一度宝塚へ行くかと思ってい
たが、残念ながら1度も行かなかった。

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2007年4月 6日

会社生活(24). 飲み屋

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アパートへ帰っても別にすることがないので、大抵飲み屋へ寄ることになる。
木暮君、や内田君とよく寄ったのは、曽根崎の小さな飲み屋。
串揚げやキャベツにソースをつけて食べた。他に何を食べたか記憶がない。
アルコールは大抵ビールで、大瓶3~4本くらい飲んだ。私は若い頃は酒が
強くて晩飯はビールだった。
ある時林係長が行こうというので、梅田の近くのクラブへ行った。林さんは
馴染みの香取というホステスを呼んだ。なかなかの美人で驚いた。
やるじゃん、と思ったが、私は人の馴染みに手を出すほどもてないわけでは
なかった。
大学のクラスメートに質屋の息子で宇留賀公康という悪がいたが、こいつ
慶應高校のころから女遊びをしていた。宇留賀は、親父から素人には手を
出すな、金をやるから、金で遊んで来いと言われていたそうだ。
それを見習って、私も金でしか遊ばなかった。
一度宇留賀に誘われて旗の台の宇留賀の家へ行ったが、頑丈なコンクリ
ートの塀で防御したお城のような質屋だった。
宇留賀は体は小さいが親分肌のいい男だった。
かなり前になくなって、クラス会には奥さんが出席している。
友の冥福を祈る。

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2007年4月 5日

会社生活(23). 昼食

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IBMが入っているビルの地下1階には、「黒門栄」という寿司屋が入っていて、
昼食によく寿司をた食べに行った。
やはり魚は関西だ。いや魚だけではない。食い物は関西がうまくて安い。
昼はお好み焼きを食べには行かなかったが、夜はお好み焼きを食べながらビール
を飲むとこたえられないぐらい旨かった。お陰でかなり太ってしまった。
時々飯屋がわりに電電公社の食堂で食事をしたが、見つかって公社の社員以外
利用禁止のハリ紙を出され追い出されてしまった。
一度でもいいから、数万円出しても北浜の料亭で食事したいと思ったがとうとう
チャンスは来なかった。

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2007年4月 4日

会社生活(22). 恐妻家の課長

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ある時瀬尾課長にご馳走になって、今晩は我が家に泊まれと言ってくれ、茨木の
団地へタクシーで向かった。
走り出した時から瀬尾さんはずっと寝入ってしまって、団地に着いて起こしても一向に
起きる気配がない。私は瀬尾さんの住所を知らなかったのではたと困った。
いいことを思い出した。彼が恐妻家だという噂を聞いていたのだ。
そこで、「瀬尾さんお宅に着きましたよ。奥さんが呼んでますよ。」と言ってみた。
課長ガバと起き上がった。やった。うまくいった。
瀬尾課長のお宅へ上がると、瀬尾さんは一目散に布団の中へ直行、再び寝入った。
私は瀬尾さんの枕元で、奥さんと差し向かいで一杯ご馳走になってからやすませて
いただいた。瀬尾さんも江戸っ子だが、奥さんも気風のよい江戸っ子で話がはずんだ。
瀬尾さんご夫妻にはお世話になりました。ありがとうございました。
お元気でお過ごしでしょうか?

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2007年4月 3日

会社生活 (21).係長の恋人

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ある時美佐係長にご馳走になって帰りがけに、私1人だけ付き合えと言う。
これから六甲山へタクシーで行くと言う。
独り身の私はどうせ帰っても石橋駅の近くのスナックデの見直すだけだから
気持ちよく付き合った。
そして六甲山に近くなったら、彼女の家はこの近くだという。
どうやら彼女に会いたくなって来たようだ。でも夜中に会えるわけがない。
まあ男ならそんなこともあらーな、と思った。
この彼女、なんとテイジンの甘粕部長の秘書だった。
関西IBM研究会の委員長がテイジンの甘粕部長様で、私の前任の事務局
が美佐さんでが甘粕部長様のところにしょっちゅうお邪魔しているうちに見初
めたそうだ。
私が転勤で東京に帰っても、美佐さんは結婚披露宴に呼んでくれた。
披露宴が終わって帰ろうとしたらトーメンの白木次長が出口で私を待っていた。
お前を待っていた。これから飲みに行こうとおっしゃる。同行した。

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2007年4月 2日

会社生活 (20).酒豪の係長

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美佐さんという人は学生時代は柔道で鳴らした人でなかなかの酒豪だった。
時々私を含めて部下を2~3人連れて飲みに行ってくれる。行く場所は、大阪梅田
の阪神の裏のドヤ街の立ち飲みである。私は自分で払ったことはなかったが、多分
安い店だろうと思った。立って飲んだり、食べると、腹に量も入るが酔うのも早い。
出来上がると今度は北の新地のクラブへ連れて行かれる。
このクラブのママは元テイジンのキーパンチのスーパーバイザーだったとかで歓待
してくれた。
この美佐係長にはずいぶんご馳走になった。
ご馳走さまでした。ありがとうございました。

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2007年4月 1日

会社生活 (19).職場配転

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昭和41年(1966年)の暮れに、大阪事業所(順慶町)の事務の仕事を統合して
事務課に集中することになった。
私は総務課(瀬尾課長)の下の美佐係長に所属することになった。
仕事も、今までの営業所事務から、広報と関西IBM研究会の事務局業務に変わった。
所属は総務課だが、関西IBM研究会の仕事は、事実上の上司は水田関西地区部長
だった。
お客様は、日本生命の金山部長様、住友生命の平手部長様、テイジンの甘粕部長様、
トーメンの白木次長様などにお世話になり、薫陶を受けた。
大企業の幹部のみなさんが自分の息子のように引き立ててくださった。
今でもお客様に感謝している。
我が家の仏壇の前に小さなテーブルを置いて、ここにお世話になった方々のために菓子、
果物を供え、月に1~2度お経をあげて感謝している。
ありがとうございました。

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2007年3月31日

会社生活 (18).ダイナミックな人事

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昭和40年永田町本社での出来事を思い出した。
営業課長にMさんという人がいて、その下にYという営業成績のよい係長がいた。
ある時M課長がアメリカへ出張した。そしてロスアンゼルスの空港で電報を受け取った。
その電報は、Yさんが課長に昇進、Mさんが係長に降格というものだった。
いや、びっくりした。えらいドラスティックな人事をやるもんだな、と。
さすが外資系だ、なと思った。
でも、私は悪い印象は全然持たなかった。むしろいい印象を持った。
やればそれだけチャンスがあるということで、すばらしいことだと。
今でもいい経験をしたと感謝している。

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2007年3月30日

会社生活 (17).案内状の役職名にご用心!

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ある時お客様に案内状を出すことになり、セールスの遠藤さんから送付先リストが
私に手渡された。
私は営業にこのリストのとおりで大丈夫ですね、と念を押したら、大丈夫との返事
だったのでリストとおり案内状を発送した。
それから数日して客先からクレームの電話がかかってきて大騒ぎ。
案内状を「次長」の役職で出したが、しばらく前に「部長」に昇進されていた。
お客様は、大和銀行の新庄さんという部長様だった。
上司である広沢事務機課長から私がしかられた。課長には、遠藤さんに念を押して
確認した上で発信した、と反論したが、私のせいにされてしまった。
非常に不愉快な記憶として40年経った今でも鮮明に記憶している。
その時から、今に至るまで、会社名、役職名、氏名については異常な注意を払うよう
になった。ただで不愉快な思いはしない。
いい習慣が身に付いたと神様に感謝している。

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2007年3月29日

会社生活 (16).トラブル

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ビジネスショーの期間中に東京からデモの応援に来ていた女性から相談があるので
時間がほしいとの話があった。それではというので北の新地のレストランへ行った。
女性は34~5才くらいの人だった。
聞いてみると、これまた東京から応援に来ているSEのSさんと同じホテルに泊まって
いて、昨晩自分の部屋へ入ってきて迫られたとのこと。困っていると言う。
お慰めの言葉しか思いつかないので、それは大変な目に会いましたね、と言うしかな
かった。今回は我慢してください、もしまた同じことがあったら男性本人に抗議します。
それで効かないようなら、会社の上層部に報告して止めさせます、といって帰ってもら
った。それからは何もなかったようでほっとした。

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2007年3月28日

会社生活 (15).縁談

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ビジネスショーに出展するタイプライターのデモをする女性を雇うことになり、営業の
係長が自分の実家の近くのお嬢さんを見つけてきた。事前に練習してもらうから
電動タイプライターを京都の桂まで運べという。係長と二人桂のHさんの家まで
お届けした。丁度その時お嬢さんのご両親がいたので挨拶した。
そのお嬢さんにはビジネス・ショーで活躍していただいた。
ビジネスショウーが終わってしばらくして、営業の係長が、桂のHさんの両親が君
の事を気に入ったようだがどうだと言う。家付きの1人娘でチャンスだとけしかけら
れた。私はまだ遊びたい盛りでお断り申し上げた。
数ヶ月して営業係長から聞いたところによると、松下電器担当の営業課長が
Hさんのことを好きだったが、振られたときいた。私がいなかったらうまく行ったか
もしれないのに・・・。気の毒をした。

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2007年3月27日

会社生活 (14).ビジネスショーのマネジャー

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確か昭和40年の秋だったと記憶しているが、事務機部門だけでビジネス・ショー
に出展することになった。出展するのは電動タイプライターと会計機で、事務局
つまり雑用係のお鉢が私にまわってきた。その時は、なんとなく引き受けた。
今から思うと、小さなプロジェクト・マネージでいい経験をさせてもらったと感謝し
ている。仕事の内容は、機械の手配、搬送の手配、据え付けるカスタマーエン
ジニアの手配、据付・テストのスケジューリング、デモンストレイターの手配、教育、
トレーニングなど、人、物、金、スペース、スケジュール全体のマネージだった。
24歳でこんな経験をさせてもらった。
若いときには仕事の選り好みをしないで、何でも自分から進んでするものだと思う。

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2007年3月26日

会社生活 (13).タイプライター部門の職場

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当初は営業とSE合計で12~3名を私と平井尊子さんという女性の2人のクラーク
(事務員)で担当した。
コール・ディスパッチャーといって、お客様からの電動タイプライターや会計機の故障
の電話を受けて、CE(カスタマー・エンジニア)に連絡してお客様へ修理に行ってもら
う仕事、部品の在庫管理、部品代や修理代の請求書の発行、代金の受領、領収書
の発行、営業の売上げの集計などなど個人商店の事務のような仕事だった。
ときには営業をどなったこともある。

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2007年3月25日

会社生活 (12).三本立ての映画館

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石橋駅に西側にあまりきれいでないが、入館料がやすい映画館があった。
大抵3本立てで、夏はクーラーが効いていて、自分のアパートより居心地がよいので
よく通った。上映映画が変わるたびにこの映画館に通った。寿司屋で飲んで、映画館
で転寝するのが天国だった。網走番外地をたびたび見た記憶がある。高倉 健のファ
ンになった。面白かった。
その頃、アパートの私の部屋には、今のようにテレビ、クーラー、パソコン、掃除機、
洗濯機などはなかった。大部分の新入社員はそのようなものは持っていなかった。
仕事で使うテープレコーダーを時々部屋へもって帰って仕事したが、大きな鉄の塊で
後日ウォークマンが出た時には驚き、喜んだものだ。

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2007年3月24日

会社生活 (11).食事

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石橋駅の線路際の中華屋とこじんまりした寿司屋兼飲み屋が行きつけの店だった。
中華屋ではよくラーメンを食べた。関東から西へ行くとスープがあまくて困った。
ラーメンを頼むたびに醤油と生卵を注文する。その内ラーメンを頼むと何も言わなく
ても女の子が醤油注しを持ってくるようになった。
寿司屋では、バッテラ寿司と赤だしの味噌汁が定番だった。この寿司屋の女将さん
浪花千恵子に似た品のいいおばさんだった。
駅前の別の料理屋でたまにはテッチリを食べたりもした。
概して関東よりは大阪の方がうまいものが多いようだ。おいしい魚が豊富だ。
駅の東側に引っ越してからは、必ず通らなければならない道沿いに名前は忘れたが
1軒スナックがあって、毎晩のように寄って、ジュークボックスで音楽を聴きながらビ
ールを飲んだ。石原裕次郎の曲が多かったように記憶している。

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2007年3月23日

会社生活 (10).大阪の住まい

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大阪では、阪急宝塚線の石橋駅から徒歩約10分のところにアパートを借りた。
西国街道から少し入った田んぼの中のアパートで、アパートに風呂はないので、手ぬぐ
いと石鹸箱をさげて歩いて6~7分の銭湯へ行く。冬などアパートの近くまで帰ってくると
手ぬぐいが半部凍ってシャリシャリという状態になる。
私以外に同じIBMの社員でCE(カスタマー・エンジニア)2人部屋が部屋を借りていた。
アパートの家主は落合さん、奥さんと息子1人の家族だった。
家主の奥さんはピアノの先生だと聞いていたが、うるさい人だった。
たしか昭和40年の冬に私の部屋の前の水道の栓から水が垂れ流しで、階下の部屋が
水浸しになったとクレームを受けた。夜間水道の栓が凍り、昼間気温があがって氷が解
けて水道の栓から水が流れ出たものと思われる。
反論したが彼女聞く耳を持ち合わせていなかった。
これが元で、昭和41年に石橋駅の今までのアパートとは反対側(東側)にアパートを借
りて移った。

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2007年3月22日

会社生活 (9).転勤

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1月に入社、永田町・本社勤務。
当時東横線の祐天寺近くにアパートを借りており、よくタクシーに乗って永田町の会社
へ出勤した。
4月に神田のワカ末ビルにオフィスが引っ越しになった。
丁度この頃、事務機部長が向野さんから安藤さん(後に富士通へ行かれた)に替わった。
私は安藤部長とは話したことはなかったが、噂によると非常に厳しい人で、営業課長や
営業係長は営業部長を避けて、朝は客先直行で、オフィスはガラガラだった。
入社から数ヶ月して、この会社は営業主体の会社だということがわかり、大学の先輩の
営業課長からの誘いもあったので事務課長に営業をやりたいと申し出たら、嫌われて
大阪へ飛ばされることになった。
昭和40年8月大阪転勤の辞令が下りて、同9月1日から大阪勤務になった。

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2007年3月21日

会社生活 (8).給料

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前の会社は日給月給で休むと月給もボーナスも差し引かれて、月給など1万6~7千円
ということもあった。これでは学生時代に家から送金してもらっていた金額と大差ない。
IBMでは初任給は、3万2千円で通勤費は別途支給。ボーナスは本給の4ヶ月を夏と冬
の2回支給でこれはIBMに在職中ずっと変わらなかった。
何か給料が5割り増しになったような感じがした。
入社して4~5年して聞いた話だと、昇給して3ヶ月経過すれば、業績次第でマネジャー
の判断で昇給できるということだった。その後この恩恵をうけたことがあった。

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2007年3月20日

会社生活 (7).勤務時間とオフィス

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勤務時間は、当初は月~金曜日は、9時~17時、土曜日は半ドンで昼までだった。
後で、週休2日制になり、以前の土曜日の労働時間を月~金の5日間に割り振った
ので、9時~17時36分までになった。
前の会社には、社員食堂があったという記憶がなく、毎日昼になると外の食堂へ行
った。今度の会社には食堂があり、気の利いたものがある。和食と洋食の選択もで
きる。
ただし、酒を会社内で飲むことは厳禁、酒を飲んで会社内に立ち入ることも禁じられ
ていた。非常に良いルールだと思う。
オフィスやトイレの掃除は外注、社員は掃除をしなくてよい。
しかし、机の上や机の周りの整理、整頓と機密に関しては厳しかった。
職場は、仕事がしやすい環境が整っていた。

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2007年3月19日

会社生活 (6).事務屋

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入社の前に、あの重い電動タイプライターの営業を担いで営業をやれと言われたので、
事務屋(=クラーク)から始めたいと希望した。
新入社員教育は、新宿のビルで2~3日講習を受けただけだった。早く仕事がしたかった
ので、不満はなかった。
希望かなって事務屋の仕事が始まった。
最初は、電動タイプライターの売買契約書の整理だった。売買契約書がファイルされず
ダンボールの箱の中に無造作に詰め込まれている。10箱近くあったものを分類、ファ
イルした。営業部の事務というのは難しいものはなかった。

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2007年3月18日

会社生活 (5).転職試験

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昭和39年(1964年)の東京オリンピックが終わって、11月に日本アイ・ビー・エムの
永田町の本社に途中入社の試験を受けに行った。
当時はまだコンピューターという呼称はなく、電子計算機と言っていた。電子計算機が
何物だか知らなかった。でもオフィスは明るく、面接してくれた人と話して、高田馬場の
会社の文化とは全く違っていた。仕事の邪魔をするのではなく、やりたい仕事をやらせ
てもらえるという感触をもち、明るいアメリカに魅力を感じた。
日本アイ・ビー・エム(株)事務機部長 向野圭蔵氏 から是非来いと誘いを受けた。
12月に身元調査などが無事終了、正式に転職OKになった。
昭和40年1月15日 大正製薬退職、1月16日から、日本アイ・ビー・エム(株)での
会社生活が始まった。

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2007年3月17日

会社生活 (4).転職を思案

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悩んで転職を考え始めた頃、同じ会社の年配の女性に誘われて飲みに行ったら、
あなたはいくら優秀でも、同族会社では部長にさえなれない、転職した方がいい
とアドバイスしてくれ、数日したら新聞の求人広告を切り抜いて持ってきてくれた。
一つは豊年リバーという会社、もう一つが日本アイ・ビー・エムだった。
学生時代のクラスメートの親父が三菱重工の役員をしていて丁度アメリカのキャタ
ピラーと合弁会社を作るところで、有馬はその会社へ来ないかとの話もあり、そちら
の方で相談しようかとも考えたが、自力で転職したかったので、新聞の切抜きの方
にした。

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2007年3月16日

会社生活 (3).転職を考える

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オフィスは暗くあまりきれいではなかった。
主任も平社員もオフィスの掃除も、便所掃除もしていた。
給料は安く、部長以上のポジションは望めない、職場では正しいことを提案しても
嫌がらせで仕返しをされる。課長も主任も仕事ができるとか、尊敬できるという類の
人達ではなかった。仕事が面白くてたまらないかというと、仕事そのものも事務作
業ばかりで面白くもない。多分生意気な新入社員だったのだろう。
でも日に日に我慢できなくなってきた。
22歳の若者にとってははなはだ不愉快な職場になってしまった。

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2007年3月15日

会社生活 (2).仕事の改善案

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私の親戚にはサラリーマンはいないので、会社ってどんなところかさっぱりわからなかった。
まあ自分の不勉強のせいです。
それで、製薬会社ってどんなところか知らなかったが、入ってみると部長から上は同族で
他人が入る余地はなさそうだった。
仕事の方は、株式事務というのは商法等の法律に基づいて行なわなければならない。
法律の勉強をしなおしたら、瞬く間に人並み以上の仕事ができるようになった。
ある時今やっている仕事の仕方が法律に合致してないので改めるべきであると、先輩の
主任に説明したら、2人の主任がいや今のやりかたでいいんだと言い張る。部長と課長
がそばで聞いていてもその時は何も言わなかった。
数日して部長が有馬君の言うことが正しいようだ、仕事の仕方を変えようと指示を出した。
それからというもの2人の主任があいつはなまいきな新入社員ということで、ねちねちと
いじめをはじめた。居心地が悪くなってきた。

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2007年3月14日

会社生活 (1).新入社員のころ

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昭和39年(1964年)なんとか大学を卒業した。
就職先は高田馬場の製薬会社:大正製薬である。
同じ大学から私を含めて3人が大正製薬に就職した。
高田馬場の周りは今でこそきれいになって往時とはまったく違った風景になった。
当時は職場の先輩に連れられて駅前の汚い飲み屋でバクダンとかいう安いが強い酒を
よく飲みに行った。また、駅の近所にたしか「らんぶる」という音楽喫茶があって、同好の
士とクラシックのレコードを月に1回くらい聞きに行った。
この会社、当時は(今は知らないが)日給月給で、休むと給料も、ボーナスも引かれた。
で、交通費込みで月給が2万3千円くらいだったと記憶している。
風邪で1~2日休むと月給が1万6~7千円くらいで、学生時代に家から送金してもらっ
ていた額とあまり違わなかった。

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2007年3月13日

大学時代(24).就職の誘い

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アルバイトの応援演説をした県会議員候補:井上澄夫先生が、岡山の両備バスの松田
 基(もとい)社長を紹介するから一度会って来い、と世話をしてくれた。
松田社長は慶応義塾の大先輩だった。
岡山市内の両備バス本社に松田社長を訪ねてご挨拶、話を聞いた。たしか給料が1万
2000~3000円ではなかったかと記憶している。えらい安いので、その場で断るわけ
にもいかず、考えさせて欲しい、と言って辞した。
おじゃました翌日だか翌々日に松田社長から自宅に電話があって、母に是非両備バス
へ来るようにとお誘いがあった。母には給料がえらい安いから、自立できないので行き
たくないと告げたら、そうだな、ということになった。
それから間もなく、お断りのため松田社長を訪ねた。そしてら、松田社長いわく、「自分
がポケットマネーを出しても良いから来いという。
申し訳ないが、安い給料で、田舎のバス会社に勤める気はしないので丁重にお断りし
た。若いから東京でもっと華々しく仕事がしたかった。
今や両備バスは岡山の大財閥だが、私は自分の人生行路に全然後悔はしていない。
いや満足している。やりたいことをやってきたので。

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2007年3月12日

大学時代(23).就職試験

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大学4年生は1963年4月~1964年3月で、1963年に就職活動をした。
就職試験は2社受けた。1つはクラレ、もう1つは大正製薬で、結果としては大正製薬
へ行くことになった。大正製薬の試験については何も記憶がない。
クラレについては、2次試験で時の社長:大原総一郎さんの面接を受けた。
福沢諭吉先生が日清戦争だか日露戦争の時に国家に献金したことを私が非難して
失敗した。その時は本当にそう思っていたからしかたがない。
今では福沢諭吉先生が献金したことは立派なことで、現代人の私も大いに見習わ
なければならないと考えている。
その時はクラレに振られて残念だったが、40年経った今考えると結果論としては良
かったと思っている。
卒業した年に東京オリンピックがあった。

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2007年3月11日

大学時代(22).上山さん

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大学の4人グループの内の1人、上山(カミヤマ)君には大変お世話になりました。
その当時丁度上山さんの家が日吉の大学の裏にあり、私は日吉駅の反対側の西田下宿
にいたこともあって、しょっちゅうおじゃまさせていただいた。おじゃますると大抵ご飯をご馳
走になったり、4人でマージャンをした。私のような貧乏人のせがれが生まれてはじめて「
焼きリンゴ」を食べさせていただいた。こんなに旨いものがあるのかと思った。テンプラやフ
ライを醤油をつけて食べ始めたのも上山さんの家での影響だ。今でもほとんど醤油をつけて
食べている。上山君のお父さん、お母さん、お兄さん、お姉さん、家族で私をかわいがって
いただいた。上山君のお父さんは神主さんであり、易の大家でお弟子さんが何人も勉強に
来ていて、私も折に触れ神道や易の話を伺って勉強させていただいた。
その上上山さん夫妻は嫁さんのお世話までしていただいた私にとっての大恩人である。
何のお返しもできないで心苦しいかぎりである。
上山君のお母さんが昨年9月91歳で逝去された。
心からご冥福をお祈りいたします。ありがとうございました。

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2007年3月10日

大学時代(21).ダンス

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大学1年の時、先輩の藤井さんが日吉の下宿にやってきて、ダンスパーティーの券を
買えと言う。藤井さんは岡山の玉野高校で1年先輩。大学も同じで、歓迎会などして
いただいた手前買わないとまずい。ところが私いなかっぺでダンスなどしたことがない。
そしたら藤井先輩、下宿の4畳半の私の部屋で、ブルースだの、ルンバだの、ジルバ
だのと自分でステップ踏んでステップを私に教え始めた。
その次にダンスを教習所で習えという。元住吉の小さなダンスの教習所へ何回か通っ
て学生のダンス・パーティーに行ったら、芋の子を洗うが如く立て込んでいて、ほとんど
ジルバとルンバだったような記憶がある。
それからというもの暫く先輩からパー券を付き合わされた。
でも私はなんでも経験だと思っているので、ダンスもいい経験をさせてもらったと感謝
している。
藤井先輩ありがとうございました。今はどうしていらっしゃいますか?

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2007年3月 9日

子供時代(37).そろばん

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小学校の5年生、6年生の時に、そろばん塾に通った。坂道を登りきった藁屋根の
難波先生のそろばん塾だ。最初は6級から始めて5級、4級、3級と進んだ。1年くらいで
3級までいった。進級するには商工会議所の検定試験に合格しなければならない。
私は2級の練習までいった。2級になると暗算や数字の桁数を大きくなり、自分にはでき
ないと思ったので止めた。勉強の方が面白くなったこともある。
そろばんには5つ玉と6つ玉があって、6つ玉の方は大きなそろばんで、商売人が使って
いたように記憶している。我が家にもあった。私が使ったのは5つ玉のスマートなそろばんだ。
10になると1桁あがる、10進法をそのままにしたものだ。
電卓は便利だが、そろばんがなつかしい。

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2007年3月 8日

子供時代(36).雛あらし

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3月3日の雛祭りの日に思い出した。
そう、雛あらしのことを。
3月3日には、女の子がいる家では雛段を飾り、お菓子や餅をお供えする。
いやしていた。女の子の親が他所の家の子供を招くこともある。
子供たちが男の子も、女の子も連れ立って、お雛さんを飾っている家におじゃまする。
お雛さんを拝見して帰りに紙に包んだお菓子をいただいて帰る。
懐かしい思い出になってしまった。我が家など2人娘がいるのに、家が狭いものだから、
7段飾り?を久しく飾ったことはない。今や家族は核家族になり、家は狭く、特に都会では
隣近所とあまり付き合わなくなった。
親は勉強勉強と言っているが、子供の学力は低下、いじめと自殺の地獄になってしまった。
大人もリストラという社会的ないじめを正々堂々とやる時代だ。
我々がこんな世界を作ったのか?罪は重い。

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2007年3月 7日

子供時代(35).甘茶

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4月8日は何の日かご存知だろうか?
私の誕生日ではない。かのお釈迦様の誕生日である。
家の近くの山の中腹に小さなお寺さんがある。みな「お大師さん」と呼んでいたから、
真言宗のお寺さんだと思う。
このお寺さんで毎年4月8日にはお釈迦様の誕生を祝って甘茶供養をする。
50~60センチの高さのお寺を模した家型の中にお釈迦様の像を祭り、そのお象に
柄杓(ひしゃく)で甘茶をかける。インドはお茶の産地だということは知っているが、
何故甘茶なのかは残念ながら知らない。
供養した後は10円出して、サイダー瓶に甘茶をいただいて帰る。
物のない時代のせいか、この甘茶がけっこう美味しかった。
こういうことも私が真言宗の信徒である一因かもしれない。

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2007年3月 6日

子供時代(34).七夕様

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夏休みだから8月だったと思う。リヤカーに竹をいっぱい積んで売りに来る。
竹を縄で木に縛り付けて、その竹の葉に短冊(色紙)に願い事を書いてコヨリ
で結ぶ。朝早く起きて、里芋の葉にたまったきれいな玉のような雫を取って
きて墨をすって願い事を書く。こうすると字が上手になると教わった。
そして竹の近くの床机(エンダイといった)には、ナスビやキュウリにマッチの
軸を刺して足をつくった動物を供えた。団子などもお供えした記憶がある。
織女と牽牛が年に1度出会うという田舎の天の川はきれいで幻想的だった。
時々流れ星がすばやく流れてゆく。どこかでまた1人天国へ行ったようだ。

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2007年3月 5日

子供時代(33).国分寺の五重塔

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中学校の時だったと思うが、学校から歴史の授業の一環として、岡山県総社市の
国分寺を見学に行った。その頃は五重塔の中へ入らせてくれた。中へ入ると、外
から見るのとはまるで違う。まるで楽屋裏を覗いている感じだ。最上階まで登った
が、所狭しと木組みがあり、木に遠慮しながら登った。
外から見ると、その姿や端正で美しく、風格がある。
国分寺は、741年に聖武天皇によって各地に建立されたことは知っているが、五
重塔は何に使用したのであろうか?
上の写真は、成田山新勝寺の経倉。念のため。

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2007年3月 4日

子供時代(32).力道山

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家には真空管のラジオはあったが、テレビはなかった。
近所の同級生の渡木のまさこちゃんの家にはテレビがあって、子供4~5人で押しかけて
テレビを見せてもらった。しょっちゅうお邪魔するわけには行かないので、見たい番組の時
だけ見せてもらった。テレビは現在のカラーテレビではなく、白黒テレビだった。
力道山全盛の時代で、テレビですぐに力道山のファンになった。
力道山は強かった。面白かった。それで格闘技がすきになったらしい。
生まれて初めて実物のボクシングを見たのもその頃だった。三井造船の清輝寮で拳闘の
試合があるから見に行こうと誘われて行った。これは大して面白くなかった。
ボクシングの試合は60数年の人生でたった2回しか見ていない。第2回目は、今から30
数年前に後楽園で藤たけしの試合をリングサイドで見た。2ラウンドに相手があっけなく
ノックアウトされ、パンチとはこんなものかと感心した記憶がある。

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2007年3月 3日

子供時代(31).マンガ

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今はもうなくなったが、我が田舎町に貸本屋があった。
竹内ツナヨシの「赤銅鈴の助」の絵が気に入っていて、ストーリーも面白く何度も借り出して
勉強と家の手伝いの合間に読んだ。このマンガで千葉周作を知った。
他のマンガには記憶がない。
最近家内の父が時代物を読むので、私も思い出して、読んでみた。
眠狂四郎無頼控、雲霧仁左衛門、梟の城、空海の風景、忍の風、・・・。とても面白かった。
何故か懐かしい感じがした。
それにしても司馬遼太郎という人は天才か、神様のような人だと思った。
私など1冊の本を読むのでさえ大変なのに、よくもまあ何10冊?もの本を書くなんて考え
られない。

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2007年3月 2日

子供時代(30).紙芝居

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紙芝居のおじさんが帽子をかぶり、荷台に紙芝居の道具を積んで、笛を鳴らしながら
やってくる。笛の音を聞くと10円もっておじさんのところへ駆けつける。10円もってい
くとアメだとか味付けしたスルメをくれて、紙芝居を見る。おじさんいい声していて、感
情を込めて語るので聞き入ったものだ。
物語というかメニューで記憶しているのは、「光線魔人(こうせんまじん)」と「黄金バット」
の2つくらいだ。とても面白かった。
おじさんの語り口は、後日人前で話す時におおいに参考になった。

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2007年3月 1日

子供時代(29).キャラメルとカン蹴り

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家の近所に駄菓子屋があってよく10円もらって菓子を買いに行った。
ラムネ菓子が好きだった。たしかラムネも売っていたように思う。
ラムネの玉を「ランタン」と呼んで、子供同士で賭けをやった。
またカン蹴り(カンケリ)もして遊んだ。空きカンを立て、鬼になった子はカンから数メートル
離れる。数人の子供の中の一人がカンを蹴って皆で隠れる、鬼はカンを拾って来て元の
位置に置いてから出なければ、隠れた子を探せない。隠れた子を探しても、鬼の方が先
にカンに戻って踏まないと、見つけられた子がカンを蹴ってやり直しになる。
今思うと隠れる速さ、見つかってからカンに戻る早さなど、敏捷性を知らず知らずに子供
同士で競い、訓練したことになる。単純な遊びだが捨てたものではない。

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2007年2月28日

子供時代(28).白いパン

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父の里で父の同級生がパンの釜を作ってパン屋を始めた。
父に連れられてそのパン屋へ行くと、それまで食べたことのないジャムというものが
入ったパンをくれて食べた。焼き立てで、しかもジャムという甘いものが入っている。
こんなに美味しいものに今まで出会ったことがない。そのせいか今でもジャムパンが
好きだ。
もう一つパンのお思い出がある。時々買いに行っていたパンが今まで黒くて硬かった
のにある日突然白くてやわらかくなった。黒くて硬いパンは、サツマイモの茎で作って
いたと聞いている。白いのは何か高級感があり、とても美味しくなったように感じた。
何か幸せが来たような気がしたものだ。

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2007年2月27日

子供時代(27).茶色の水

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小学生の頃に水道が来るまでは井戸水を使用した。
その井戸水は金気で茶色に濁っており、そのままでは飲めないので、濾して使用した。
コンクリートの瓶の中に砂や小石と棕櫚を交互に入れて金気の水を濾していた。
濾した水は食器を洗ったり、顔をあらったりするのに使用した。
飲み水は家から100メートルばかり離れた藤川さんの家にきれいな水が出ていたので、
バケツで水をもらいに行ってこれを飲み水にした。バケツに一杯水を入れて両手に持つ
と子供にはかなりの重さだ。
ある時家の庭を掘っていたら、1.5メートルくらいの深さのところから海の藻葉が沢山出
てきた。家のあるところは大昔は海だった証拠。こんなところにいい水が出るはずはない。

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2007年2月26日

子供時代(26).遠足とビフテキ

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春の桜の時期になると、学校で遠足があり、花見に行く。
行く先は、歩いて約1時間30分くらいのところに王子ガ嶽(おうじがたけ)という桜の
名所があって、そこへ歩いてゆく。王子ガ嶽というところは、瀬戸内海に面して切り
立った山の上にあり、上ると瀬戸が一望できる景観によいところでもある。
遠足に日は母が早起きして弁当をこしらえてくれる。細かいことは忘れたが、弁当に
は日頃食べられないビフテキと卵焼きとりんごが入っている。私は度々他人の弁当
をのぞいてみたがビフテキなんか持ってきている子は一人もいなかった。母がどう
いう気持ちで弁当にビフテキを入れてくれたかわからないが、当時の我が家の経済
状況からすると思い出す度に親のありがたさで胸が締め付けられ、涙を催す。
これだけではないが、いい親を持って我々男5人兄弟は幸せだ。

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2007年2月25日

子供時代(25).海水浴とボートのオール

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母の弟の吉治さんが4歳の時に岡山の西川に落ちて亡くなっているため、水には
厳しくて小学校5年生までは海水浴には行かせえてもらえなかった。したがって、
泳ぎ方を知らなかった。小学6年生の時親の目を盗んで初めて渋川の海水浴場
へ行った。水の中で浮こうとすればするほど沈む。2~3度おぼれそうになり、水を
飲んでしまった。そこであわてずに肺に一杯空気を吸い込んで、体を大の字にした
らなんなく浮いた。それからというもの泳いでいて疲れたら、肺に空気を一杯吸い
込んで、浮いて休むことにした。
中学生の時貸しボート屋のボートを借りて、力いっぱいオールを漕いだら、バキッと
いう音がしてオールが折れてしまった。浜に帰りボート屋へボートを返しにいったら、
ボート屋が「よほど腕力が強いんですね!」と感心して、弁償は許してくれた。
今は腕は細るばかりで昔が懐かしい。

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2007年2月24日

子供時代(24).薪で走るバス

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戦後は道路の至る所にアナボコがあった。
そのアナボコだらけの道を乗合自動車(バス)が走る。燃料がないので、薪を燃やして
軽油の代わりにした。今のバスと比べるとスピードはかなり遅いが走った。
バスだけでなく、家庭でも燃料のために山の木を切った。お陰で山は禿山になってし
まった。その後税金を使って砂防工事と植林をし、それが失業対策事業になった。
そのころのバスには、若い女性の車掌さんがバスに乗車して切符切りをしていた。
物がないが、なつかしいい風景だ。

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2007年2月23日

子供時代(23).ゲタ通学

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小学校へは下駄(ゲタ)で通った。
運動靴などあるにはあったが手に入らない。学校に割り当てがあって、数が少ないので
くじ引きになる。1度くじに当たったことがある。靴には学生服がふさわしいが、これまた
くじだった。
下駄は夏は何も履かなくても大丈夫だが、冬は冷たくて裸足では我慢できないで足袋
(タビ)を履いた。時々鼻緒が切れて自分で鼻緒を直した。
上履きは当時は靴も、スリッパもなく、藁ぞうりを使用した。父の実家でぞうりの作り方
を教わったが忘れてしまった。藁を木槌で打ってやわらかくしてからからよるので、結構
時間がかかった。足には藁ぞうりの方が健康的でいいと思うのだが。

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2007年2月22日

子供時代(22).ヤミ米とぞうすい

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戦後間もなくは食べるものがなく、カボチャ、サトイモ、ジャガイモ、大根、ほうれん草などを
家の裏の畑や川ふちに畑をつくって栽培して食べた。大体少しの米と野菜を入れた雑炊が
多かった。父が子供用にと裏庭に柿の木やイチジクの木を植えてくれた。
よく風呂の残り火にサツマイモを入れて、焼き芋にして食べた。焼き芋ができるまで待てな
い時はサツマイモを生で食べたこともある。
食料はすべて配給制度で、配給されるが到底足らないので、カボチャなどを畑で栽培する
が、主食の米がない。当時まじめな裁判官がいて、配給のものだけ食べていて栄養失調
で亡くなったという笑うに笑えない話もある。
こういう状況ではヤミが横行する。北朝鮮じゃないがヤミ市ができるし、どの家もヤミ米を買
い出しに農家へ行く。母が帯で弟を背負い、ネンネコをかけて、私の手を引いて汽車に乗っ
て宇野線の茶屋町駅の近くまで買いに行く。円は封鎖されていてお金はないので、母は
自分の着物を持参、それと交換する、つまり物物交換だ。我が家だけでなくどの家でも奥
さんの着物と米を交換した。交換した米は、弟を背負った帯の下に縛りつけネンネコで隠し
て持ち帰る。ヤミ米という意味は、見つかったら警察に没収されるということだ。
幸いにして捕まったことはなかった。

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2007年2月21日

子供時代(21).さとうきび

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近くの農家でサトウキビをつくっている家があった。
この農家は蓮根(れんこん)をつくっていたので「れんこん屋」と呼ばれていた。
農家だから勿論米も野菜もつくっていた。夏にヤンマとんぼを夢中で追いかけて
水田に入り、おじさんに追いかけられたのはこの家の水田だった。
ところで、私の記憶によれば、サトウキビには外皮が緑と赤の2種類あった。
当時は甘いものがない時代で、より甘いものを探していた。赤の方が甘味が
強くこれを好んで食べた。節のところで切って、外側の皮を歯でひきむしって
中身を噛んで甘い汁だけ吸い、かすははき捨てる。サトウキビを食べたのは
せいぜい小学校の2~3年生の頃までで、後年社会へ出て沖縄へ出張した時
に食べるまで、多分40年くらいは食べる機会がなかった。

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2007年2月20日

子供時代(20).鉄工所と馬車

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日比小学校は、子供の足で、家から歩いて15分くらいのところにあった。
学校の行き帰りには、鉄工所があって鉄を削るのにものめずらしく見入ったり、馬車の縦
に長い荷台の最後部にぶら下がったり、山道を通ってヤマイチゴを取って食べたりとおも
しろいことが山ほどあった。しかし、魚屋の小僧としては道草を食っているわけには行かない。
帰れば、魚の配達、掃除、子守などが待っている。
同級生の中には山へ山犬を取りに行ったものもいた。
私の家は男ばかり5人兄弟だが、その頃はどこの家にもたいてい4~5人の子供がいた。
多い家では8~10人くらいの子供がいた。兄弟の数が少なければもっと取り分が多いの
にと思ったこともある。そのためか我が家では子供は娘が2人だけである。

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2007年2月19日

子供時代(18).中学校の修学旅行

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中学の修学旅行は九州だった。
熊本→阿蘇→別府がコース。
今は何でもないが、その頃は乗り物に弱く、熊本に着いた頃には乗り物酔いで歩くのも
難しく、皆は出かけたのに一人旅館で寝ていた記憶がある。
私がリンゴが好きなものだから、母がリュックにリンゴを入れておいてくれたのだが、イン
ドリンゴの匂いが強烈に鼻について気持ちが悪くなってしまった。
旅館でお医者さんに注射をしてもらったら大分回復した。
その後雄大な阿蘇の草千里で馬がのんびりと草をたべているのを見て感動した。
それまであのような大きな景色を見たことがなかったので。
別府では高崎山のサル,地獄のような温泉を見た。

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2007年2月18日

子供時代(17).小学校の修学旅行

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小学校の修学旅行は、毎年奈良・京都と決まっていた。
今と違って蒸気機関