ビジネスマナー研修、新入社員研修のブログトップ > 有馬幸三の自叙伝

2008年3月17日

釣りの思い出(11) 魚と潮

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釣りの行っても魚が針に刺したエサに食いつかないことには、またイカの場合は、餌木かイカズノを餌と見て食いつかないことには釣れない。 

家内によれば、魚をんだまして釣るのは卑怯だ、可哀そうだ、という考えもあるのだが。

魚がエサに食いついてくれるための条件は山ほど沢山ある。 これをすれば必ず釣れるということはありえないので、十分条件というのはない。 必要条件は、大きく分けると、潮(海水)に関すること、エサに関すること、仕掛けに関すること、仕掛けをどう使うか、に関することに分かれる。

潮について言うと、海水は地上の空気と同じように均一でなく、また流れもある。 まず、干潮、満潮による流れがあり、地形によっても流れは変わる。 流れるところもあれば、流れないところもある。 私の知っている瀬戸内では、満潮の流れはゆったりと緩慢だが、引潮の時は川の急流のように流れる。 地形にもよるが。     また、地上に黄砂があるように海水にも濁りがある。 濁りが全然なくてすごく澄んでいる時もあれば、濁っていて見通しが良くない時もある。 澄み過ぎても魚はエサを食わないが、濁っていると魚にエサが見えないので食いつかないで釣れない。

大きな要素としては、海水温がある。 海水の温度と地上の気温には2~3ヶ月の差がある。 海水温の方が2~3ヶ月遅れる。 魚によっては、冬になって海水温が下がると、深場へ移動して釣れなくなり、春気温が上がってくると浅場に帰って来て産卵するものもある。

瀬戸内では、5月ころになると海水温が上がり、鯛がとれ出し、回遊魚のサワラがまわってくるとともに魚が沢山とれる季節に入る。 この時期を「魚島(うおじま)」と言っている。 今年も間もなく魚島がやってくる。

2008年3月16日

釣りの思い出(10) 東京湾のタチウオ

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新安浦港、久里浜港から出て、観音埼沖でタチオウを釣る。 盛期は9月から12月くらいまで。 タチウオの歯は鋭く、触っただけで指が切れて血が噴き出す。 釣りは、タチウオ専用の針先にサバの短冊を付けて海底2~3メートルから上へリールを巻きながら釣り上げる。 これの繰り返しである。 中には水中ランプを糸につけて魚を寄せる人もいる。 あたりは強烈で、「ガツン」と来てグイグイ引っ張る。この感触が何とも言えない。 また釣り上げたばかりのタチウオの肌(皮)は銀色で光っている。 それは美しい! ただそのまま持って帰って家内に料理を頼むと、鋭い歯が危険だし、捨てるのに困るので、私は船上で頭を落とし、尻尾も切って捨てて帰っていた。タチウオは刺身でもうまいが、私は塩焼きか、から揚げを好みにしていた。

久里浜港の船宿の近くには漁協があり、タチウオのついでに「さわら」、や「タコ」を買って帰った。 あぶらののった「さわら」の刺身はなんともいえなく美味なものだ。

2008年3月10日

釣りの思い出(9) 新島の高瀬

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下田・須崎漁港の宝栄丸には泊まりがけで釣行に出かけた。 この釣り宿で初めてサンマ寿司を知った。 新島沖の高瀬というポイントがある。 ここでは40センチクラスの大きなイサキがよく釣れた。 よく釣れるもので下田あたりの船が大挙して高瀬に出かけたため、新島の漁協から少し控えてほしいとのクレームがあって、高瀬には釣り船は行かなくなった。 高瀬ではオナガという美味な高級魚もたまには釣れた。 オナガが釣れた時に自宅で刺身にして食べたらイサキや真鯛などとは違った上品な味がした。 それ以来いまだにオナガを食べる機会には恵まれていない。 

 My

2008年3月 4日

釣りの思い出(8) イサキの夜釣り

                                                             

紅梅20.jpg今ではもうやっていないようだが、昔は伊東ではイサキの夜釣りをやっていた。 家内の実家の近くに福屋さんという米屋さんがあり、そこの主人が川奈の港内に小さな船を持っていて、夏の日の夕暮時にイサキ釣りに連れて行ってくれた。 船は4人乗ると一杯になるくらいの小さな船だった。 船に乗るメンバーは、煎餅屋の主人、床屋の主人、福屋さんの主人に私が多かった。 時々煎餅屋さんか床屋さんの主人がホテルの社長に代わることがあった。 釣り場は、川奈のゴルフ場の真ん前で沖と言うほどは離れてはいない。

 みんなリールやロッドは使わず、手釣りである。 当時はサイズが30~40センチくらいの大きなのがよく釣れた。 1~2時間釣れば10や15は釣れた。 必要以上には多くは釣らなかった。 楽しみは、賭けだ。 3匹重量というゲームで、各人が釣った大きいイサキ3匹の重量で競う。残念ながら私は勝ったことがない。

 My

2008年3月 3日

釣りの思い出(7) 下田沖でイシナギ

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私がまだ運転免許を持っていない頃のこと。 下田・須崎の宝栄丸に乗って下田沖でイサキを釣っていた時のことだ。 その時は手釣りをしていた。 竿やリールを使用しないで、輪っかに糸を巻いているのを使用していた。   丁度夏の暑い日の昼過ぎだった。 糸を手繰っても根がかりしているのか(地球を釣ってしまったのか)手繰れない。 何度か自分で根がかりをはずそうとしたがはずれない。しようがないから船頭に頼んだ。 船頭に代わってもらった。 船頭いわくこれは根がかりではない。 魚が付いているという。 船頭と交代して今度は自分でゆっくりと糸を手繰る。 確か20分~30分かかったと記憶しているが、大きな魚が上がってきた。 それまで見たこともない魚だった。 魚種は「イシナギ」だという。 長さが1メートルくらいあった。 そんな大きな魚は今に至るまで釣ったことがない。 それでうれしくなって舞い上がったしまった。 タクシーを呼んでもらって伊東の家内の実家まで魚を積んで帰った。 タクシー代は1万数千円かかった。 家内の実家のすぐそばに遠藤さんという魚屋さんがあり、料理をお願いした。 フライとか焼き物にして食べたが味はたいしてうまくなかった。 どうやら私ひとり魚の大きさを喜んだだけだった。

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2008年3月 1日

釣りの思い出(6) スルメイカが133ハイ

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 あれは平成3年(1991年)3月3日のことだった。

 伊東の三好丸にのって川奈港のすぐ前でするめいかをやっていたときのことだ。 ちょうど日暮れ時で薄暗くなりかけていた。 7本イカ角をつけていたらそれに全部イカがついた。 イカが3~4ハイついても、リールを巻き上げるのは大変だ。イカと力くらべだ。イカの引っ張る力は予想外に強い。やっとイカが上がって、船べりを見るとイカだらけ。 重りを投げても仕掛けが沈まない。仕掛けを引き上げると、全部にイカがついている。 イカの群れ(ナブラ)に当たったのだ。 それからも6~7年イカ釣りをやったが、こんな興奮には一度も恵まれなかった。 私は竿とリールで釣ったが、船頭と元漁師は手釣りでさすがに手さばきがよい。 私が133ハイ、船頭は約250ハイ、元漁師も250ハイも釣った。 伊東の親の家に50ハイあげたら近所に配ったそうだ。 自宅へ持って帰って、やはり近所へ配り、スルメにしたり、イカの塩辛にしたり大変忙しかった。

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2008年2月29日

釣りの思い出(5) 針が親指に

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金目の仕掛けは、おもりを投入すると50センチメーターくらいの枠から糸と針がパラパラとリズミカルに出て行く。 ただし、きれいに仕掛けを作っていたらの話だ。 金目釣りをはじめて間がない頃パラパラt針がでたのはよいが、針が錘の重力で飛び出し私の右手の親指に突き刺さったことがある。他に4~5名乗船していたので、釣りが終了するまで帰港するわけにはゆかない。痛いのを我慢して、港に帰るとすぐ、伊東病院へ行って針を抜いてもらった。そのため自宅へ帰って仕掛けを作って、何回も2階のベランダから仕掛けの投入実験をして工夫した。

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2008年2月28日

釣りの思い出(4) 船のまわりは3Mの海水

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大島沖へ金目釣行の場合、冬はよく風が吹くので、船頭がよく大島の気象台へ電話をして気象状況を確認した。夜中の12時、1時にせっかく伊東の港へ行っても風が強いと波が高いので、船が出ないこともあった。私の場合家で仕掛けの針にエサをつけてから港へ行くので、船が出ない日は家へ帰ってから、針からエサを外さなければならない。針を洗うとともに外したエサをすてなければならない。

天神丸のエサはカツオのはらみを10~12センチメートルの長さに、短冊状に切ったものを使用していた。早めに港へ行き船頭からエサをもらって仕掛けの針に刺すこともあり、また家でエサを針に刺すこともあった。家で刺す場合はスルメイカを短冊状にして使った。

ある時波が高かったが釣行した。これは船頭の判断だ。大島沖へ着くとかなりの高波で、船が波と波の谷間に入ると周りは波ばかりで、船から見て横には波しか見えない。そうすると船のみよし(先頭)から甲板に海水が押し寄せる。しっかり船につかまっていないと体が海水に持っていかれる。こういう時はもう釣りどころではない。生きた心地はしない。安全のためキャビンへ入っても体はアッチへゴロゴロ、こっちへゴロゴロ、きわめて居心地が悪い。伊東の港へ帰って来てはじめてホットする。

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2008年2月26日

釣りの思い出(3) 大島沖は川のよう

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 40歳台に約10年金目ダイの釣りをした。

天神丸という船に乗って午前1時から2時に伊東の港を出る。3時間くらいで大島沖に到着する。夜明け前から夜が明けてしばらくの釣りだ。1回の釣行で5~6回しか仕掛けを投入できない。水深は400~600メーターあり、道糸が1000メートル出たこともある。天神丸では大体せいぜい5~6人の釣り人。最初の頃はお客は私一人で、よく船頭と2人だった。船頭は寝るわけには行かないが、私は狭いキャビンで座って寝ていた。天神丸の船頭は人柄温厚でよく面倒をみてくれた。今は体調をくずして引退したと聞いている。

夜明け前に(大島沖に)「着いたよ。始めるから準備してください。」と言われると。右舷の船頭が支持する席に行き、ロッド・ホルダーをセットする。次オリンピックの太鼓型の電動リールをロッド・ホルダーにつける。ロッドとは竿のことで、ロッド・ホルダーとは竿を固定する道具だ。50センチくらいのわっかに20本針がついた仕掛けを電動リールから引き出した道糸につなぐ。仕掛けの先には鉄筋を30センチくらいに切ったおもりをつけている。船頭が「はいやって」というとみよし(船の先頭部分)の人がおもりを投入する。しばらく間をおいて、頃合いを見計らって「はい、次の人どうぞ。」で2番手がおもりを投入する。もたもたしているとその回は投入できないでパスということになる。この調子で次から次へおもりを投入する。大島沖は潮は川のように流れていて、あっという間に船は流される。船頭は流れに逆らって船を進め鮒が流されないようにしながら、おもりを投入させる。

おもりを投入しても竿先を注視していなければならない。おもりが海底に着いたら道糸がそれ以上出ないようにしなければならない。おもりが海底に着いても道糸を出しっぱなしにすると、「お祭り」と言って他人に仕掛けと絡んでやっかいなことになるので、人に迷惑をかけることになる。おもりが海底についたかどうかは竿先を見ていればわかる。一瞬糸の出が遅くなるのを見て判断する。おもりが海底に着くころには糸は500メートルから700メートルくらいは出ている。一番長く出た時は1000メートルだった。

 そうこうするうちに金目が食いはじめる。金目が餌を食うと竿先がわずかにピクピクと動く。そうすると少し糸を送り込む(糸を出す)。他の金目が他の餌を食うとまた竿先がピクピクと動く。あの感触忘れられないね!20本の針に5匹のときもあれば10匹の時もある。一度など船頭が有馬さん、仕掛けをつないで50本針にしてみろというのでそうしてみた。金目が40匹くらい食っていた。もう24ボルトの電動リールがキーキーと悲鳴をあげる。こちらは悲鳴ではなく、大漁で顔がほころぶ。一度など1回の釣行で110匹も釣れて処分が大変だった。たまには良いことのマネをしてみようと老人ホームへ30匹、お年寄りに食べていただこうと思って持って行った。そしたら決められたところからしか買えない規則になっているといって断られた。残念だった。

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2008年2月25日

釣りの思い出(2) 雷に追いかけられて

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  ある年の6月、伊東の春平丸に乗ってイサキの夜釣りに出かけた。     港を出て15分くらいでポイントに到着した。船頭のきよしさんが「いいよ」  と言って竿を出し、仕掛けを投入すると同時に船が四方を雲に囲まれてし まった。船頭が「悪いけど今日は帰るよ!」と言ったので、釣り具をしまいかけたら今度は雷が船の真上で鳴り始めた。もう本当に20~30メーター 上空でドンガラガラが鳴り、稲妻が光る。赤い光ではなく、緑色のように見えた。竿は甲板の上に横にして置いて、自分は頭を低く下げた。今にも雷が落ちるのではないかと恐怖で頭はいっぱい。この状況は船が伊東の港に着くまで続いた。わずか15分が1時間にも2時間にも思えた。

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2008年2月24日

釣りの思い出(1) 強風でボート流される

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今はもう釣りを止めてから2年余りになる。                                              家内の実家が伊東にあり、家でごろごろしていてもお邪魔虫なので、子供の頃を思い出して、釣りを再開した。

その頃海辺近くに梅原さんとい人が釣具屋をしていた。                         釣りを再開した頃は、梅原さんの貸しボートをアンカー(錨)付きで借りてポイントを教えてもらって釣りをしていた。伊東の湾内のポイントには漁船が沈めてあり、そこに魚が集まるとのこと。ポイントにアンカーを打って船を固定した。ここではカイワリ、鯵などおかずくらいは結構釣れた。

あれはたしか5月頃だが、アンカーを打って釣りをしていたら、突然強風が吹き出した。これは危ないと思いアンカーを揚げようとしたが、水深が30メーター位あって、アンカーの真上まで行くのにかなり時間がかかる。

やっとアンカーの上に来たが、30メートル余りのロープをたぐりよせるのに時間がかかる。船が風圧を受けているので、アンカーが海底を離れてから船まで上がってくるまでに、ボートはまたたくまに数100メートルは流される。ぞっとした。怖くなった。どこまで流されるんだろうかと。

そこで考えた、いや岡山県の下津井でボートで流された時のことを思い出した。風に逆らうことはできない。そうだ、風に流されながら、陸の方へ向って斜めにオールをこぐことを。思い出したら恐怖心はなくなった。オールを漕いだ、漕いだ。なんとか宇佐美近くから陸伝いに伊東のb-ト置場へ帰ってきた。

反省点 : ①.気象、天気を調べてから釣りに行くこと。                                        ②.自分の力を過信しないこと。                                                  学生時代に貸しボートのオールを折ったくらい私は腕力があった。                         ③.他人を頼りにしてはならないが、困った時は素直に他人の助けを借りること。                    実はロープを引っ張っている時に漁船が引いてあげようと言ってくれたのを断っていた。

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2008年2月20日

悲しい言葉「間引き」

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私は岡山県の南部、玉野市に生まれ、18歳まで玉野で育てられた。
母は岡山県生まれ、父は香川県生まれ。
現在、岡山県は気候温暖で、豊かな国として知られている。
でも学生時代に母から忌まわしい、悲しい話を聞いたことがある。
昔食べて行くのがやっとという貧しい家では、赤ちゃんが生まれるとすぐ
菰に包んで旭川に流していたらしい、とのこと。
父からも似たような話を聞いたことがある。
食うや食わずの家に赤ちゃんが生まれると、この次はもっと金持ちの家
に生まれてくるよう諭して、穴を掘って埋めることもあったようだ。
これを称して「間引き」というのだそうだ。
父方の祖父は、6歳で高松に丁稚奉公に出され、行った先で同い年の
子供の子守りをした、という話も聞いた。昔は食いぶちを減らすために、
次男坊以下は早くに家から出されたそうだ。祖父は飢饉の時は、松の
皮まで食べたという。
昔凶作の時には、この物資豊富な世の中では考えられないような
「間引き」が時として生きるために行なわれることもあったようだ。
昔の人は、生きるためとはいえ、やむにやまれず、忌まわしく、悲しい
ことをせざるを得なかったこともあった、と聞いた。

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2008年2月14日

格闘技ファン

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私は子供のころ岡山県玉野市という瀬戸内の田舎町で育った。
小学生のころ近所の渡木の政子ちゃんの家へよくテレビを見せてもらいに行った。
悪がき5~6人でお邪魔する。目的はプロレスのテレビ番組を見るため。
力道山全盛のころだ。そのころ、三井造船の清輝寮でボクシングの試合があるという
ので見に行った。これがボクシングを目の前で見た初めて。2回目は社会人になって
まだ独身の頃だ。東京の後楽園で藤猛(ふじ たけし)の試合を見た。藤猛の相手が
簡単に倒れたのでびっくりした。
ボクシングを目の前で見たのはこの2回だけ。あとはテレビばかり。
ボクサーで名前を覚えているのは、ファイティング原田、青木勝利、大場政男、沼田義明、
海老原博幸などである。日本人ボクサーでノックアウト・パンチがあったのは、やはり
何と言っても海老原博幸だ。彼のパンチは「カミソリパンチ」で有名だった。1発で相手を
倒す醍醐味のあるボクサーだった。いまだに彼ほどのパンチを持ったボクサーを見たこと
がない。
外国の世界チャンピオンでは、ブラジルのエデル・ジョフレ。彼は「ロープ際の魔術師」と
言われ、ロープを背にしてカウンターで1発で相手をマットに沈めるハードパンチャー。
彼のボクシングは芸術品だった。
ボクシングの後は、キック・ボクシング。その次は現在K1(ケーワン)などを見ている。
格闘技は、世の中が豊かになると、弱くなる。
悲しむべきか?喜ぶべきか?

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2008年2月13日

大阪勤務の時代 : 大きな録音機で講演録作成

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関西IBM研究会の事務局を担当していた時、甲南大学の岸本英八郎先生に講演を
お願いしたことがあった。講演内容を講演録にすることになった。専門の人にお願い
する予算がないので私が会社の録音機を借りて、アパートまでタクシーに乗せて帰り
録音された講演を聞いては、文字にする。この先生早口で声が小さいので聞き取り
ずらい。何度も何度も聞き返す。話されたとおりでは文字にならないので、文字に直す。
こうして10倍以上の時間をかけてやっと講演録の原稿ができた。
なんでもやってみるものだ。やってみないとわからない。いい経験になった。
こんなバカなことは二度とやってはならないと。

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2008年2月11日

私が鳥をあまり食べない理由

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私が小学生のころ家では鶏を飼っていた。
雛を買ってきて、餌をやって大きくして卵をとるためだ。鶏が大きくなるよう育てると
愛着がわいてきて可愛くなってくる。
餌は米屋から買ってきた糠に大根の葉っぱを刻んでいれる。それに時々牡蠣や貝の殻を
金づちでたたいて細かくして混ぜる。カルシュームが不足すると卵の殻が柔らかくなるのを
防ぐためそうしていた。家の裏に鶏小屋を造って鶏を6~7羽飼っていた。
たまにイタチに取られたり猫にもっていかれた。
実は人間にももっていかれた。
当時は戦後で物のない頃、大人たちが集まると酒を飲み、酒には肴が要る。その酒の
肴に私が飼っている鶏が徴用されるのだ。鶏はスキヤキにされる。鶏でも、牛肉でも、魚
でも同じだが、とれたて、屠殺直後は肉が固い、あるいはしわい。うまみも少ない。
子供心に自分が飼っていた鶏を食べる気にはなれない。スキヤキにした鶏肉を口に入れても
固いのと、何かいけないことをしているような気がしてはきだした。
それと、大学生のころ友人と新宿を歩いていたら、鶏の足をもって刺身包丁のようなもので
首をチョンと切って、お湯が入った醤油樽に放り込んでいるのをたまたま見かけた。
また子供のころ近所の肉屋の裏の川に鶏を逆さにつるして首をはねて血が出ているのを
見たこともある。
どうも自分が飼っていた鶏とイメージがダブッテ、なんとなく食べたくないのである。
でも、冷静に考えると、私が食べているものは、いや人間が食べているものは皆生き物で
ある。自分が飼ったことのない豚肉、牛肉、自分が栽培したことのない米、麦、野菜、イモ
・・・は平気で食べている。
命をいただいて生きているのだから、贅沢しないでいただく命はできるだけ少ない方がよい
のではないでしょうか?

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2008年2月10日

大阪勤務の時代 : お願いしてないのに・・・

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確か昭和42年(1967年)の春ごろのこと。
関西IBM研究会が終わって、日本生命のK部長と一緒の帰り道のことだった。
梅田駅の地下道まで来たとき、K部長が突然「有馬さん東京へ帰りたいんでしょう?
今度東京で委員会がありお宅の竹下本部長と会うから帰れるように言ってきてあげます」
と言いだされた。私は「お気持ちはありがたいのですが、社内の問題なので、どうか
そのような話はなさらないでください。」とお断りした。
にもかかわらずK部長、竹下本部長と話をつけてこられた。K部長、東京から帰って
こられると「話しつけてきたよ。そのうち帰れるから、待っていなさい。」との話。
肥後もっこすの竹下本部長のこと、きっと雷が落ちてくる、と覚悟していたが、雷はなしで
その年の9月1日付で東京転勤になった。
これには訳がある。当時全U協(全国IBMユーザー協議会=IBMユーザー研究会の
全国組織)の事務局を担当していたWさん(日本では高校しか出ていない)が、会社を
休職してアメリカの大学へ私費留学するので後任にどうかと直接私に話がありOKの
返事をしておいた。多分WさんがK部長に打診したのだと思う。
それにしてもWさん、私なんかと比べると大したものだ。お父さんが早くなくなり、母親に
育てられたとのこと。私と同じ貧乏人の息子。どこだったか忘れたがちゃんとアメリカの
大学を卒業して帰国した、IBMに復職した。

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2008年2月 9日

大阪勤務の時代 : 夜中にお客さんを送ったが・・・

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ある時T社という商社のS次長と一緒に飲んで、箕面のご自宅へ送ることになった。
私が石橋に住んでいたので近く夜中でもあるのでタクシーでお送りすることにした。
Sさん玄関を開けて、是非寄って行けという。夜中なのでお断りしたが聞き入れない。
しようがないので、お邪魔した。そしてらSさん奥さんに「有馬君が是非寄りたいという
ので、連れてきた」と言うではないか。奥さん渋い顔をしている。この人今何時だと思って
いるのか、と顔に書いてある。Sさん自分が引っ張りこんでおいてそれはないでしょう?
と思ったが、Sさんに恥をかかせるわけにはゆかないので、黙って座敷に上がった。
幸いタクシーを待たせておいたので、ビールを1杯ご馳走になって、早々に失礼した。
このSさん日頃私を贔屓にしてくれていたので、まあしょうがないかと忘れることにした。

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2008年1月27日

大阪勤務の時代 : ビジネスショーのコーディネーター

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事務機部大阪営業課に1年くらい所属の間に、一度事務機部だけでビジネスショーに出展
することになった。NOMAとの交渉、広告会社との交渉、電動タイプライター、磁気会計機の
手配、搬入/搬出の手配、デモの内容のコーディネーション、デモンストレーターの手配、訓練、
のコーディネーション、CEの手配、予算管理を1人で担当した。
今考えるとよくやったものだと思うと同時に、すごくいい経験をさせてもらったと思う。
東京から来てもらった女性のデモンストレーターのHさんからちょっと話を聞いてほしいいと
言われて喫茶店で話を聞いたことがある。
彼女が宿泊していたホテルにSという男性のSEが宿泊していて、そのSがHさんの部屋へ
やって来て関係を迫った、と言って泣きつかれた。2人とも30歳前後だった。
ビジネスショーの期間中であり、私としても誰かに相談できる問題でもないので、なだめ
今度同じことがあったら言ってほしい、私がSと談判するから、と言って引き取ってもらった。
幸い再度私に連絡がなかったので、事件はなかったものと胸をなでおろした。

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2008年1月26日

大阪勤務の時代 : 零細企業?の事務担当

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大阪では最初事務機部という部門の営業事務を担当した。
営業、SE、計15~6名+CE6~7名の事務機部大阪営業課の事務だった。
大阪営業所とはラインが別になっていた。
事務機部という部門は、電動タイプライター、磁気会計機を販売する部門。
その頃電動タイプライターは、バー方式(バー(棒)の先に活字が彫られていて、それを紙に
打ちつけて印字する)とエレメント方式(エレメントというゴルフボール状のものの表面に活字
が彫られていて、それを打ち付けることで印字する)の2方式があった。
世の中のタイプライターはバー方式だったが、IBMのエレメント方式は特許製品ですごく
人気があった。
仕事の内容は、お客様からの電話応対、営業成績の集計と報告、電動タイプライター、
磁気会計機の在庫管理、部品の在庫管理、請求書/納品書/領収書の発行、入金処理、
お客様からの電動タイプライター、磁気会計機のトラブル、故障の電話受付とCEの手配等
事務全般を私と平井貴子さんという女性の二人で担当した。
丁度零細企業の事務屋をしているようなものだった。
当時も大変だとは思わなかったが、今思うと幅広く営業所の事務全般を経験してよかった
と思っている。

*C E = Customer Engineer 機械のエンジニア

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2008年1月25日

大阪勤務の時代 : 朝まで飲んだことも

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私のすぐ上の上司は、Mさんという柔道二段の酒豪だった。
時々3~4人で飲みに行った。
皆まだ二十歳代の若者ばかりで少々飲んでも酔わない。
そこで、まず安い飲み屋へ行き、少しほろ酔い加減になってから、北の新地へゆく。
まだ大阪万博の前で、梅田の阪神ビルの裏がスラムのような一角があって、その中に
立ち飲みの飲み屋があった。ここは安いのがとりえ。
立って飲むと、座って飲むより酔いが早いように感じた。
今となっては何を飲んだか、何を食べたか、さだかな記憶はない。
二軒目は北の新地のクラブ。ここのママさんが元某社のキーパンチャーのスーパー
バイザー(コンピューターに読ませる紙のカードに機械で穴をあける女性たちの主任
か係長)でMさんが前記某社へ出入りしていたので、話が合うし、IBMということで
好待遇してくれた。
大体二軒で終わるが、ある時はどこでどう飲んだのか朝空が白んでくるまで飲んで、
石橋までタクシーで帰り、顔を洗って、着替え9前には出勤した。
その日はたびたび水飲み場へ通った。2日酔いで水ばかり飲んでいた。
多分周りの人は酒臭かったろうと思う。
その晩は軽く石橋のスナックで飲んでアパートへ帰って寝る。
翌日は気分もスッキリ、バリバリ仕事をこなした。

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2008年1月24日

大阪勤務の時代 : 恐妻家の上司と飲んだが

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ある時Sさんという上司に北の新地でご馳走になった。
この方、浅草出身のチャキチャキの江戸っ子。奥さんも浅草でこちらも江戸っ子。
Sさん会社では総務課長で部下が6人いて、私はそのうちの1人。
口数は少ないが、白黒のはっきりした人だった。
北の新地で飲んで、今晩は家に泊まれ、一緒に帰ろうということになった。
Sさんも私もいい気分になったが、Sさんはアルコールに弱く、タクシーに乗ると間もなく
いびきをかいて眠り始めた。私はSさんの家にお邪魔するのは初めてで、本人と一緒な
ので安心していた。私はSさんの家が何号棟の何号室か知らなかった。
茨木の団地に着いたのでSさんを起こそうとしたが、呼べども、揺り動かしても一向に
起きてくれない。タクシーの運転手さんも迷惑顔。
その時あることを思い出した。Sさんは恐妻家だとの噂を。
そこでSさんに「奥さんが迎えに来られましたよ!奥さんが迎えに来られましたよ!」と
言うと、ガバッと跳ね起きた。それでやっとSさんの家へ到着できた。
奥さんは起きて待っていた。
Sさんは家に着くと布団に寝かされてまたいびきをかいて寝はじめた。
奥さんが「有馬さん飲みましょう」と言ってくれたので、寝てる旦那を横にして、奥さんと
差し向かいでビールを飲むことになった。
大変お世話になりました。ありがとうございました。
今Sさんと奥さんはどうしていらっしゃるのでしょうか?お元気でしょうか?

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2008年1月22日

天照大神様と大日如来様

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天照大神様といえばすぐ伊勢神宮を思い出す。
今まで天照大神様とはどんな神様だろう?とあまり考えたことはなかった。
ただ漠然と日本で最高の神様とぐらいにしか思っていなかった。
最近「天照」という文字から考えた。
天=頭上に高く広がる大空=宇宙と考えると、天照大神様とは太陽のことではないか?
と考えるようになった。私は子供のころから太陽のことを「お日さま」と呼んできている。
私の母は毎朝お日さまに向かって手を合わせて何事かを拝んでいた。
仏教でも「大日如来様」がいらっしゃる。多分大日如来様もお日さまのことだと思う。
大日とは偉大なる太陽=偉大なるお日さまのことだろう、と考えた。

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2008年1月21日

大阪勤務の時代 : ジュークボックス

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その毎晩のように寄るスナックには、ジュークボックスが置いてあり、石原裕次郎の
「夜霧よ今夜もありがとう」をよく聞いた。
ジュークボックスというのは、今ではお目にかかることはない音楽の自動販売機で、
内部に多数のレコードを内蔵し、硬貨を投入して聞きたい曲のキーを押して音楽を
演奏させるもの。カラオケと違って聞くだけ。
私は現在パソコンを2台、デスクトップ1台、ノートパソコン1台を持っており、iTunesの
ソフトを使用して、数千曲、演歌から、タンゴ、サンバ、ボサノバ、ラテン、ダンス音楽、
クラシックまで多彩に曲を取り込んである。デスクトップには約6000曲、ノートパソコン
には約4000数百曲が入っている。iPhoneを買おうかと思ったが、あまり出かけない
ので、これで十分である。出張の時は、夜ビールを飲みながらノートパソコンで音楽を
聞いている。

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2008年1月19日

大阪勤務の時代 : アパートを引っ越す

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冬には田んぼのど真ん中ではかなり冷える。そのため水道管が凍ってしまうこともある。
ある時水道の栓を閉めてそのまま会社へ行って帰ってきたら、大家からえらくお叱りを
受けた。水道の水が出っぱなしになっていて、下の部屋が水で濡れた、とのこと。
水道の栓を閉めないで凍って、凍結が溶けて、他人に迷惑かけたならならこちらの責任
だが、私は勿論水道の水を出しっぱなしにはしていない。申し訳ないとお詫びした。
大家の未亡人のおばさんがであまりにもひつこいので、アパートを変わることにした。
四男坊の功に引っ越しの手伝いにきてもらって、リヤカーに荷物を積んで、新しいアパ
ートへ引っ越した。途中小川に本を落としたりしながら移った。
新しいアパートは、石橋駅の裏手にあたる方向にある。
石橋駅からアパートへは、1本道でその道を通らないと帰れない。
その帰り道にスナックがあってかわいい女の子が1人いた。

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2008年1月16日

大阪勤務の時代 : 夏の暑さの逃避場所

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阪急・宝塚線の石橋駅の近くになじみの寿司屋があった。
おかみさんが浪速千枝子に似た人で、この店はバッテラ寿司がうまく、赤だしの味噌汁が
でる。暑い時はこの店でビールとバッテラで夕食をすませて、近くの3本立ての映画館へ行く。
当時はクーラーなどサラリーマンで持ってる人はいなかった。
西日に照らされた蒸し風呂のようなアパートへ帰るのは、どうも気がすすまなかった。
時に映画館で寝て帰る。
目が覚めると、網走番外地で高倉健が出ていたり、藤純子なども見たような記憶がある。
最近DVDで女博徒の藤純子を見た。ほんと若くてきれいだった。
九州弁がまた生きていた。

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大阪勤務の時代 : 関東、関西の塩味のちがい

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東京から大阪へ転勤して困ったのは、食べ物の塩味の違いだった。
石橋駅前の中華屋へよく行った。
ここではラーメンとチャーハンをよく食べた。
学生時代には、東横線・日吉駅前にある好楽という中華屋の醤油味のきいたチャーハン
がお気に入りで、よく食べた記憶があり、この好楽のチャーハンと比較しながら、食べた。
石橋の中華屋のラーメン、チャーハンは味が薄くてものたりないので、毎回醤油を持って
くるように依頼していたら、2~3ヶ月もしたらラーメン、チャーハンを頼むと黙っていても
醤油さしを持って来てくれるようになった。
大阪に2年勤務して東京へ転勤で帰ったら、今度は東京のラーメンはドンガラクなった。
人間の環境順応性ってどうなっているのでしょうか?


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2008年1月15日

大阪勤務の時代 : 冬の銭湯帰りの手ぬぐい

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私は昭和41~42年頃、順慶町にあるIBM大阪営業所勤務だった。
住まいは、阪急・宝塚線の石橋駅から歩いて15分くらいのところにアパートを借りて
住んでいた。西国街道に近い田んぼの中のアパートだった。そのアパートには、私を
入れてIBMの社員が住んでいた。アパートには風呂がないので歩いて10分ばかり
の銭湯へ行かなくてはならない。
冬など銭湯へ行って、手拭いと石鹸箱をぶらさげて帰り、アパートに着くと手ぬぐいは
半分凍って硬くなってパリパリの状態である。

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2008年1月 9日

七草粥

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正月7日に正月料理で負担の重かった胃をいたわるためと、無病息災を祈って
春の七草を入れた粥を食べる風習がある。
昔平安朝のころ中国から伝来したと聞いているが、今中国にこの風習が残って
いるかどうか?
上海あたりでは、フランス料理を食べているかもしれない。
我が家では七草粥に餅を入れて今年もいただきました。

春の七草とは、

  ①.セリ
  ②.ナズナ
  ③.ゴギョウ
  ④.ハコベラ
  ⑤.ホトケノザ
  ⑥.スズナ (かぶ)
  ⑦.スズシロ (だいこん)

* 私が生まれて育った家の前には川が流れていて、セリがいっぱい生えていた。
  セリが食べられる草だと知ったのは、結婚して家内に聞いてからだった。

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2008年1月 2日

中国のバブルは何時崩壊するのか?

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中国が今バブルだということに異論をとなえる人は見かけたことがない。
大体2010年~2012年にバブルははじけるというのがほとんどだ。
しかしこれに異論をとなえる人がいる。
中国は人口が15億もいてまだまだ10%以上の経済成長は続くという説がある。
まだ15年以上は大丈夫だというのだ。
私自身は2012年頃中国のバブルがはじけて、世界が大不況におちいるのではと
考えている。
バブルがバブルでなく、このまま行ってくれれば言うことはないのだが・・・。

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2008年1月 1日

氏神様への初参り

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2008年1月1日 零時がきたので、親子3人揃って、氏神様である氷川神社へお参りに
行った。
社務所で祈祷申込書に氏名、住所、生年月日などを記入して待つこと40分。
いよいよ呼ばれて拝殿に入りお祓いを受けた。
この慣習は相模原へ引っ越して来てからずっと続けている。すでに28年になる。
お祓いを受けない人は例年のように長々と列を作って並んでいる。
我々お祓いを受ける人は大きな焚火のまわりで暖を取りながら待つ。
お祓いを受けるのに例年1時間以上待たされるが、今年はお祓いを受ける人が少なく
40分くらいですんだし、焚き火のまわりの人の数も昨年より少ないように感じた。
また、これまで毎年拝殿にはお酒や米などが沢山奉納されていたのに、これもわずか
しかなかった。
これは日本が衰退してきていることの表れの一端なのだろうか?
さびしさを感じた。

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2007年12月31日

マネー・ゲームの悪循環

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中近東、北欧、中国・・・の国々がファンドを作り、世界に投資する。
証券化されたサブプライムローンに投資する。原油にそしてトウモロコシ、大豆・・・
に投資する。
原油に投資すると、原油の値段が上がる。原油の値段が上がると中近東等の国に金が
入る。その入った金をまた投資に回す。
これで行くと、金持ちはますます金持ちになる。
原価5ドルの原油が100ドルにもなる。トウモロコシも大豆も高騰する。
値段が上がった分は我々消費者が支払わされる。
ガソリンもトウモロコシも大豆も我々が普通の生活をするための必需品で、贅沢品ではない。
人を犠牲にして金持ちになるというマネー・ゲームはどこか間違ってはいないだろうか?
自由というのは何をしてもよいということなのだろうか?
人を喜ばせて金持ちになるのであれば大賛成だが。

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2007年12月30日

母と餅つき

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私の故郷は岡山の瀬戸内沿いの玉野というところ。
正月近くなると私の家では物置から石臼と杵を出して餅を搗く。
私が小学生の頃は父と母が二人で餅を搗いていた。
私は5人男ばかりの兄弟の長男で、体が大きかったので、中学生の頃には
母と二人で餅を搗くようになった。
10臼から12~3臼搗いた記憶がある。
おくどさんに槇で釜に湯を沸かし、その上にもち米を入れた蒸し器をかける。
蒸す時間は、確かな記憶はないが、40~50分くらいかかったのではないかと思う。
もち米が蒸しあがる頃、臼を暖めておく。薄が冷えているといい餅が搗けない。
もち米が蒸しあがると、臼の上へ蒸し器をもってきて、ひっくりがえし、臼に蒸した
もち米を入れる。そして、最初は杵でもち米をこね、いいかげん餅らしくなってから
杵で搗く。母にうっ手返しをしてもらいながら、杵を打ち下ろす。二人のタイミングが
合わないと怪我をすることになる。母と私は親子でとても気が合っていたので全然
心配はなかった。いつも母と一緒だといい餅ができた。
私は母の19歳の子だから中学生の頃は、私が13~4歳、母が32~33歳で、町を
二人で歩いていると兄弟と間違えられた。それは私自慢の美しいい母だった。
その母が1976年に亡くなってから来年ははや32年になる。
母との餅つきは昨日のことのように思い出せるが、時間はもう31年も過ぎてしまった。
思い出すとと母は昔のようにいつも微笑んでいる。

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2007年12月29日

鈴木さんのこと

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今から40年前私がまだ25~6歳のころ、私は日本アイ・ビー・エム(株)で全国IBMユーザー
協議会(通称「全U協」=ゼンユウキョウ)の事務局業務を担当していた。
全U協の事務局業務というのは委員長の秘書か雑用業務が仕事である。
ある時日本石油さんの鈴木部長様が全U協の委員長をされていた時代がある。
お酒の好きな方で、会社では侍のように無口で必要なことしか話されない。
しかし、お酒が入るとにこにこと多弁になるいいお酒である。
日本石油さんは西新橋にあり、筋向いに広島の酔心という料理店がある。
私はこの酔心で鈴木さんにずいぶんご馳走になり、酒の飲み方も教わった。
鈴木さんに教わったことでいまだに思い出し自分を戒めていることがある。
それは、「他人を逃げ場をなくしたり、徹底的に追い込んではならない、お互いにサラリーマン
同士だから。」という教えである。何もサラリーマンに限ったことではないと思う。
近頃はサラリーマンという言葉をあまり聞かなくなったが、鈴木さんの教えは現在のような
ギスギスした時代には昔よりももっともっと心しなくてはならないことだと思う。
最近の食品偽装の問題、政治のねじれにともなう問題などは、他人をだましたり、他人に
あまえているのではないか?

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2007年12月28日

かゆいシマノスケ

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シマノスケが右目のあたりを右足の鋭い爪で何度も掻いている。
右目の下がはれている。
とうとうシマノスケの右目の近くから出血した。
家内がそれを見てティッシュでふいてやる。
私がかゆいのなら、抗ヒスタミンの軟膏でも塗ってやったらどうかと言うと、なめると
どういうことになるかわからないので、できない、と言う。
しばらくは消炎剤と抗生剤をのませるしかないのか?

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2007年12月27日

シマノスケの不調

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この2~3日シマノスケが体調不良。
本人の右の眼の上が腫れている。かゆいのかしょっちゅう右足で盛んに掻いている。
生まれてこのかた爪を切ったことがないので、足の爪は長く、先は尖っている。
このためかくと眼のあたりに傷がついているのではないだろうか。
そこで今日3時に町田の動物病院へ家内と2人でシマノスケを連れて行った。
注射はシマノスケにとって大きなストレスになるので、やめて薬をもらってきた。
薬は、消炎剤と抗生剤でしばらくのませるように言われた。
人間と違って薬はそのままでは飲まないので、プリン、シュークリームなどに混ぜて
食べさせている。先日などモンブランに薬を入れて食べさせた。
シマノスケ、あまり気に入らないものだと、自分の手にとらないで、家内にプラスティック
のスプーンを持たせてスプーンにのったシュークリームヤモンブランを、口を持って行って
食べている。
ブドウは食べる、イチゴは食べる、ピスタッチオなんか大好物、シュークリームからモンブラン
まで食べるグルメなシマリス、シマノスケに長生きしてほしい。

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2007年12月26日

シマノスケの足の爪

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シマリスも7年半も生きていると爪が伸びる。
伸びるといっても、切らないから異様に長くなり、かつ鷹の足の爪のようにカギ状になる。
このカギ状の爪が布にひっかかり、動けないので一人バタバタともがく。
家内があわててケージを開けて布から爪をはづす。
人がいないときはどうなるのだろうか?
爪を切るといっても切ったままだと、角がギザギザになってまたひっかかるので、ヤスリ
でなめらかにしなくてはならない。
体を人の手で押さえたままではあぶない。
ネットにシマノスケを入れると、またストレスが大きい。
本人にストレスがかからな良い方法はないものか?

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2007年12月25日

シマノスケの治療薬

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シマノスケは季節の変わり目に時々生殖器が痛くなるのか、しょっちゅう自分で
患部をなめている。
患部がどす黒い色になり、少し腫れているように見える。なんだかかわいそうな
感じがしてならない。
動物は口がきけないから人間がよほど気をつけてやらいといけない。当たり前だ。
自然で暮らしているところを人間の勝手で籠に閉じ込めているのだから。
獣医さんへ連れて行くと大抵インターフェロンの注射をする。人間だとインターフェロン
はガンの薬だがシマリスの場合はこれで体力を回復するとのこと。我が家へシマノスケ
がきてから7年半だから合計すると多分インターフェロンの注射を50本は打っている。
注射を打つ時はネット(網)に入れて、動けなくして注射する。シマノスケ本人はすごくストレス
を感じるらしく、ギャーというような声をあげて逃げ回る。最後は観念せざるを得ないのだが。
シマノスケの体力が衰えるのを見るたびにかわいそうになる。
今さら戸外に放すわけにもいかず、グルメを続けて、大事にしてやるしかないのだろうか?

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