幕末外交に大きく影響した「 フェートン号事件 」 No.6

こうしたことを可能にした背景に、鍋島直正(号・閑叟かんそう)の学制改革があった。
佐賀藩は藩士はすべて藩校弘道館にゆくことができた。
いや、行かされたと言うべきかもしれないが、後に幕末四賢侯の一人と讃えられる閑叟
は教育の充実こそ近代化の決め手だと知っていたのだ。
基本的に「儒教」と「武術」しか教えない他藩の藩校と違い、洋学コースを設けた。
そして15歳以下の子弟のためには蒙養舎(もうようしゃ)という「小学校」まで設立した。
他藩ではこういうことはなかった。
長州では下級藩士の息子である伊藤俊輔(博文)はそもそも藩校に行く資格がなかった
から、吉田松陰の私塾「松下村塾」に行くしかなかった。
土佐でも坂本竜馬などの郷士(下級藩士)は藩校に行けなかった。
佐賀では、他国(筑後国=現在の福岡県)から日本のエジソンと呼ばれる「からくり
儀右衛門」こと田中久重を精錬方招くなど、出身地、出身階級に拘らない実力本位
の人材登用を行なった。
これも軍事の天才であった村田蔵六(大村益次郎)を「医者にすぎない」ということで、
他藩の人間が注目するまで放っておいた長州藩との大きな違いである。
「 明治維新は一足先に佐賀藩で達成された 」という意味のことを司馬遼太郎が
言っている。
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