幕末外交に大きく影響した「 フェートン号事件 」 No.5

1830年(天保元年)、十七歳の若さで家督を継ぐと、ただちに藩政改革に乗り出し、
まず産業を盛んにして財政を立て直したのち、次に藩の近代化に乗り出した。
近くに長崎があるのを幸いに、次々と藩内の人間を「留学生」として送り込んだ。
その成果は着々と上がり1850年(嘉永3年)には精錬方が日本初の本格的反射炉
を建造した。
これにより鋼鉄の生産が可能になり、佐賀藩の大砲は日本で最も進歩したものになった。
これはペリー来航(嘉永6年)前のことである。
また1858年(安政5年)に海軍所を設け翌年には精錬方が火薬製造に成功、
1865年(元治2年)には蒸気船まで独自に開発した。
俗に、維新に活躍した雄藩を略して「 薩 長 土 肥 」という、薩摩、長州、土佐は
当然として、なぜ肥前(佐賀藩)が入っているのか?
それは明治維新直前の時点で、佐賀藩はその工業力を生かして世界最新鋭(日本
最新鋭ではない!)の大砲アームストロング砲多数保持しており、ギリギリになって
倒幕勢力に加わった佐賀藩の火力が、上野にこもった彰義隊との戦争を一日で
終わらせ、難攻不落と言われた会津若松城をも開城に追い込んだからだ。
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