
あかねさす 紫野(むらさきの)行き 標野(しめの)行き
野守(のもり)は見ずや 君が袖振る
これは、『万葉集』に載る「天皇、蒲生野(がもうの)に遊猟(みかり)する時に、額田王
の作る歌」である。
万葉の女流歌人として、その名を知られる「額田王」は、大化改新をもたらす乙巳(いっし)
の変と、壬申の乱が起こった古代の動乱期に生き、歴史を大きく動かした中大兄皇子
(天智天皇)と大海人皇子(天武天皇)の兄弟・二人の男性から愛され、翻弄された悲恋の
女性との見方が一般的だ。
しかし、それは真実の額田王だろうか?
実は、額田王に関する史料と言えば、『日本書紀』に記された「天皇、初め鏡王の女額田姫
王を娶して、十市皇女(とおちのひめみこ)を生す」というたったこれだけの記録しかない。
ここから読み取れることは、額田王が鏡王の娘として「姫王」の称号を持つ身分であり、
大海人皇子が初めて結婚した相手で、十市皇女を産んだということである。
ほかには、『万葉集』において、「額田王」の作とされる歌一二首(長歌三、短歌九)と、
関連する歌が数首あるだけなのだ。
額田王は、おおよそ六三一年ごろ生まれ、一四、五歳で宮中に出仕し、皇極天皇の側に
侍すようになったと考えられている。
その地位も判然としないが、乙巳の変後の六四八年ごろ、一〇代後半であったと思われる
額田王は大海人皇子と結ばれて、娘・十市皇女を産んだ。
やがて六六五年ごろ、十市皇女が中大兄皇子の息子・大友皇子と結婚し、葛野(かどの)
王を産んだ。
六六七年三月、中大兄は京(みやこ)を近江の大津に遷し、翌年正月、天智天皇として
即位した。
額田王も近江大津京へ移るが、彼女は十市皇女の誕生から一〇年ほど経た658年ごろ
には、中大兄と親密になっていたともいう。
同年五月五日、天智天皇は、大海人皇子と諸皇族、中臣鎌足(藤原鎌足)や群臣、女官
たちを従え、近江の蒲生野に薬猟(くすりがり)を行なった。
冒頭の歌は、蒲生野行幸の一行に加わり、額田王が薬草摘みに散策していたところ、
鹿を追っていたはずの男が、こちらへ袖を振っているという情景を詠ったものだ。
袖や領巾(ひれ)を振るという行為は、この時代の恋人や夫婦の間でなされる愛情表現
である。
そこは、紫草(むらさき)を栽培する禁野(きんや)、標野を監視する番人の野守が巡る
場所であった。
「見られているわよ」と、額田王に咎められた「君」は、しかし、こう詠うのだ。
紫の にほへる妹を 憎くあらば
人妻ゆゑに 我恋いめやも
「紫草のように美しいあなたが人妻だからといって、恋しないなんて」と。
『万葉集』にある注釈によれば、額田王に応えたのは大海人である。
その大海人の最初の妻が額田王であったという事実から、この最も有名といえる贈答歌
は、額田王と中大兄と大海人との三角関係を示唆するものとして、額田王の悲恋の
ヒロイン像ができあがった。
出典 : ひととき 2010 MARCH
結喜しはや さんの 「 額田王 - あかねさす紫の古代女性 」