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2010年3月アーカイブ

日本のやきもの 有田磁器 2/3

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この有田磁器の大躍進、大展開の息吹は草創期に見られる。

それまで磁器の生産を世界的にリードし、まかなってきたのは中国の景徳鎮だが、これは

明末の王朝の交代を前にした政情の不安によって監督が行き届かなくなり、製品の質も

だいぶ落ちてしまった。

そこで西欧各国の窓口であるオランダ東インド会社は景徳鎮の磁器に替わるものを探す。

おそらく候補として挙がったのは景徳鎮以外の福建などの中国磁器、また朝鮮半島の

李朝磁器、あるいはベトナム(安南)磁器だろう。

その中で日本の有田が白羽の矢を立てられたのは、やはりその製品の高い品質、優れた

デザイン、そして安定した生産という条件が東インド会社に認められたのであろう。

日本のやきもの 有田磁器 1/3

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江戸時代中期ごろに西欧に輸出された伊万里・柿右衛門などの有田磁器は約百九十万点、

各国の宮廷や貴族の館で使われ、また飾られた。

さらに、なんとか磁器を遠い東洋の島国から運ばずに地元で造ろうという機運が高まり、

ドイツをはじめフランス、イギリス・オランダなど各国の窯場が有田磁器を懸命に模倣した

のである。

当時のヨーロッパには硬質磁器の技術はなく表面上の模倣にとどまったが、いずれにせよ

有田磁器へのあこがれは西欧各国に根付き、それはいまだに続いているのだ。

ここにいう有田磁器とは佐賀県有田の地で日本最初の磁器として、その後も日本を代表する

磁器として生産された伊万里・古九谷・柿右衛門そして鍋島などを指す。

これらの総数は数えられたことはないがその生産量は軽く一千万点を超えるだろう。

我が国のやきものの歴史の中で産業的に最も成功したのは有田磁器であった。

出典 : 日本経済新聞 2009年11月19日 日本のやきものの美学 有田磁器

      以下同じ

禅 語 : 無 (む)

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有無・大小・先後・迷悟などの対立概念を絶した「 不二(ふに)絶対 」であることをいう。

禅でいう無とは、虚無の無や有無の無ではなく、また中国の道家(どうか)がいう宇宙を

生成する根源的無とも異なる。

天地と一枚になって内外を絶し、あらゆる思慮や分別(ふんべつ)を取り除いたところの

いわば絶対無であり、無所得・無執着であることをさす。

言忘慮絶(ごんもうりょぜつ)の智慧(般若、はんにゃ)によってのみ自覚される「 空 」

も、この「 無 」と同義である。

「 無門関(むもんかん) 」第一則に「 趙州和尚(じょうしゅうおしょう)、因みに僧問う

、狗子(くす)に還(かえ)って仏性(ぶっしょう)有りや亦(ま)た無や、州云(い)わく、無 」

とある。

趙州 従諗(じゅうしん)和尚にあるとき僧が問うた。

「 犬畜生(ちくしょう)にも仏性(さとりを開く因素)は有りますか 」と。

趙州はすかさず「 無 」と言った。

ところが、別なところで同じ質問をされた際には「 有 」とも応えている。

古来これを「 無字公案(むじのこうあん) 」と称し、とくに臨済禅において重視されている。

質問者の僧は、経典に「 すべての生き物には仏性がある 」と説かれていることを受けて

尋ねているが、趙州はこの有無の両辺に執した思慮分別を裁断し、ただ「 無 」とのみ

言ったのである。

この問答に対して、無門慧開(むもんえかい)は

「 纔(わず)かに有無に渉れば、 喪身(そうし)失命(しつみょう)せん 」といっている。

イカは世界の海に800種

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日本近海にいるダイオーイカで、時折、海岸に漂着したり、漁船に釣り上げられたりする。

深い海には、人類がめったに目にしない大型のイカがたくさん生息するとみられ、その

生態はナゾに包まれている。

調査捕鯨で捕獲したマッコウクジラを調べると、胃の中から多数のイカが見つかる。

「 魚はほとんどなく、、95%以上はイカ類で、専門家でもめったに目にしない希少な種

ばかりだ 」と国立科学博物館の窪寺恒己・海生無脊椎(せきつい)動物研究グループ長

は話す。

マッコウクジラの主食はイカらしい。

- 中略 -

世界の海には800種弱のイカが生息している。

どのくらいいるのか、資源量はわかっていない。

5千万~1億トンとも推測される。

人間が食用にするスルメイカなどはその一部にすぎない。

北海道大学の桜井泰憲教授は「 イカは海の生態系のカギだ 」と話す。

クジラやイルカの仲間だけではない。

アザラシなど海に住む哺乳(ほにゅう)動物やアホウドリなど海鳥の多く、北洋のサケなど

海の生きものにとり、イカは重要なたんぱく源になっている。

出典 : 日本経済新聞 2010年3月14日 ナゾ謎かがく

禅 語 : 空 (くう)

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無我(むが)・無性(むしょう)・無自性(むじしょう)というに同。

すべてのものに固定した実体がないことをいう。

すべての存在は、それらの構成要素が集まり仮に和合して成立したものであり、現象として

生滅変化を繰り返しており、他とは無関係にそれそのもとして独立した永遠の存在としての

実体をもたないということ。

ここでいう構成要素(五蘊、ごうん)とは、肉体や物質および現象(色、しき)、そして感受作用

や知覚作用(受、じゅ)、感情や概念や表象などを作る想念作用(想、そう)、意思のはたらき

や知的はたらきなどの想念作用(行、ぎょう)、分析・判断・認識(識、しき)などのあらゆる心

の作用ををさす。

これらもまたすべて外からの条件が集まって成立(縁起、えんぎ)してものであって実体は

ない。

「 般若心経 (はんにゃしんぎょう) 」に説かれる「 色即是空 (しきそくぜくう)、空即是色

(くうそくぜしき) 」とは、このうちの「 色 」をとり上げ、その実体がないことを述べたもので、

その他の心的作用もすべて空であると、続けて説かれている。

また、修道の上では、無所得 (むしょとく)・無執着 (むしゅうじゃく)なる心境をいい、

さらに空と有(う)との対立概念を超越し、無分別(むふんべつ)の境涯に入るべきである。

これを真空妙有(しんくうみょうう)といい、禅宗ではでれを「 無 」と表現する。

出典 : 大法輪 2010年1月号 特集:禅語百選  一字の禅語

「ホメ」はスキルか?

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日経Associeに、元アナウンサーのK氏が、「 ホメ(褒める)は学習可能なスキル 」

だと書いているが、私には異論がある。

スキルだけで褒められても、心がこもっていなければ、かえって逆効果だ。

心がこもっていない時は、口先だけとすぐわかる。

もっとも、口先だけでも褒めてほしい人はそれでよいかもしれない。

「 これはすばらしい 」、「 よくやった 」、「 自分のためにやってくれた 」など、よい

ものはよいとする観察眼、相手に対する敬意、感謝の気持がホメには必要なのだ。

まずは、相手に感謝する「 ありがとうございます 」から始めるとよい。

法華寺 十一面観音立像 4/4

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さまざまな仏師がすぐれた観音の姿を刻み続けてきたが、その思いを支えてきた観音の

教えとはどんなものなのだろうか。

最も詳しく観世音菩薩のことを書いた経典が「 観音経 」である。

「 観音経 」とは「 法華経 」すなわち「 妙法蓮華経 」の第25章である「 観世音菩薩

普門品 」のことを指す。

まず、「 観世音 」という言葉は、「 世音を観る。 つまり音を観ずる 」ということで、観音

が衆生のありとあらゆる願い、苦しみの声をみな見通し、救いの手をさしのべてくれると

いうことを表わしている。

「 南無観世音菩薩 」と一心に名を称えると、観音は間髪を入れず三十三の姿に身を

変えて応現するのである。

「 普門品 」とは、「 普(あまね)く衆生を済度するするための入り口 」といった意味である。

その功徳の一例として古来名高いのが日蓮上人の話である。

日蓮が念仏仏教を謗ったという謗法(ほうぼう)の科(とが)で、鎌倉の竜ノ口の刑場に引き

出され、まさに斬られようとした時、海から煌々(こうこう)とした光が発せられて武士は目が

くらんで倒れ、日蓮を斬ることができなかったという。

経文に記す「 彼の者の執る所の刀杖、ついて段々におれた 」という奇瑞が起こったのである。

法華経の行者、日蓮の不動の信念、信仰心をあらわした逸話である。

法華寺 十一面観音立像 3/4

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観音さまは男性である。

仏教では世界を地獄界から仏界まで十界に区分する。

このうち、声聞、縁覚、菩薩(ぼさつ)、仏の四界は悟りの世界で理想境とされる。

これらの世界に住む者は絶対の力を持ち、休むことなく衆生を救うための努力を続けている。

この菩薩界に、女性に見なされがちな観音があるのだが、四つの悟りの世界にいるのは男性

だけなのである。

観音菩薩を含め菩薩はすべて男性なのだ。

それを暗示するかのように観音像には髭がある。

法華寺の十一面さんにもうっすらと髭が描かれている。

「 十一面神咒(じゅ)心経 」などのお経でも、仏陀は観音菩薩に向かって「 善男子 」と

呼びかけている。

また、観音の梵語(ぼんご)名の「 アヴァローキテーシュヴァラ 」は男性単数名詞という。

仏教美術家の望月信成は、著書「 美の観音 」の冒頭に、わざわざ「 観音は女性か 」

という一章を充ててこのことを論じている。

「 観音は女性でなく男性であるというと、あの親しい観音さまに何かふさわしくないような

感じを受けられ、不満を申される人もあるであろうが、それほどまでに観音の愛は深く大きい。

いや観音さまを男女という性などで拘束することさえ何か不自然で、一途に慈悲深い菩薩と

して、すがってきたのである。

( 中略 )

もちろん観音経に、観音はあらゆる衆生を救済するために、あらゆる姿になって現出すると

説かれているから、女性の姿となって現れることもあるはずである 」と言い、それは観音が、

虫となったり魚となったりするのと同様、方便の姿であって、本来の観音の姿ではない 」

と述べている。

法華寺 十一面観音立像 2/4

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 和辻哲郎は、「 香の煙で黒くすすけた像の中から、まづその光った眼と朱の唇とが

われわれに飛びついてくる。

( 中略 )

胸にもり上がった女らしい乳房。 胴體の豊満な肉付け。 その柔らかさ、しなやかさ 」

( 「 古寺巡礼 」 )とたたえた。

彼はあくまで女性の似姿をそこに見ている。

そして、「 しかしその美しさは、天平の観音のいづれにも見られないような一種隠微な

蠱惑(こわく)力を印象するのである 」と続けている。

和辻も、第一に目に留めたのが赤い唇である。

「 天平随一の朱唇 」といわれ、「 美貌の皇后 」とたたえられた光明皇后の美しい

姿がしのばれる。

唐の檀像様式を受け継いだ素木の一木造りで、女性特有の豊麗な美しさがムンムン

とする。

後ろ姿を写真で見ると、腰をクイとひねったポーズがなんともなまめかしい。

「 女性の色気は油断から発する 」とは、ある幇間の言葉として耳にしたことがあるが、

手だれの仏師の観察眼は、一瞬の妖しさの美の発現を見逃しはしない。

法華寺 十一面観音立像 1/4

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「 興福寺濫觴記(らんしょうき) 」という文書の伝える話である。

- 昔、北天竺乾陀羅国( きたてんじく けんだらこく )の見生王(けんしょうおう)という

  王様が、生き身の観音を拝もうと発願して入定三七日(21日間)に及んだ。

   ( 乾陀羅国とは、今のパキスタンのガンダーラ地方、入定とは精神統一して無我の

     境地に入ること。 )

- すると、「 大日本国聖武王の正后光明女の形 」を拝めというお告げがあったという。

   王自らは日本に行けないので、建築彫刻などを司(つかさど)る神匠の家の25世という

   末孫、問答師という者を遣わして皇后の姿を彫らせることになった。

- 折しも光明皇后は、亡き母、橘三千代夫人のため興福寺西金堂を造営中だったので、

   その本尊の釈迦如来像を問答師に造ってもらうことを条件にモデルになることを承知

   された。

   そして、3体の観音像が刻まれ、うち1体を皇宮に残して問答師は帰国。

   これが法華寺の十一面観音だという。

   寺では、「 古くから本像を光明皇后のお姿として崇(あが)めているゆえんであります。 」

   と略縁起に記している。

仏像の祖国、ガンダーラと佐保寺の寺、そして光明皇后を結ぶスリリングで奇想天外な物語

は、いつ誰が思いついたものなのか。

像の制作年代と光明皇后の在世年代が合わないので、伝説の域を出ないが、皇后をモデル

にしたという言い伝えは古くからこの像につきまとってきた。

出典 : 日本経済新聞 2010年3月21日 美の美 かんのん道をゆく

印 籠 ( いんろう )

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「 この紋所が目に入らぬか! 」と、毎回同じような場面で登場するものといえば、

水戸黄門様の印籠。

この印籠が初めて登場したのは、黄門様の時代より二百年も前の室町時代ころからです。

元々は印判や印肉を入れていたもの。

それを戦場に向かう武士たちが、応急用の丸薬などを携帯するために用いるようになって、

薬籠とも呼ばれたこの印籠を腰に下げることができたのは、位が上の者に限られていた

そうです。

3段から5段の重ね箱になった印籠の内部は、塗り重ねた漆の層で耐水性、防腐性などの

機能性を持ち、胃腸薬や強心剤などの丸薬を守ったのでした。

出典 : ひととき 2010 FEBRUARY 印籠 

古都を旅する 仁和寺 ( にんなじ )

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京都市内には役1600の寺院があるという。

その中でも規模の雄大さと格式の高さにおいて随一とされるのが、真言宗御室派

(おむろは)総本山の仁和寺(にんなじ)だろう。

創建は平安前期の888年(仁和四年)。

宇多天皇が、前年に崩御した父・光孝天皇の菩提と遺志をつぎ、伽藍の造営を

完成させたのが、その起こり。

天皇自らの開山の例は珍しく、年号を寺名に持つのは、ほかに延暦寺、建仁寺

の2寺しかない。

境内の中央を仁王門から中門を経て金堂まで一直線に参道が貫く設計は、シン

メトリーを重んじる絶対王政時代の西洋庭園を彷彿とさせるところがある。

金堂(国宝)は、江戸時代初期に御所紫宸殿(ししんでん)を移築したもの。

仏堂への転用に伴い、屋根を檜皮葺き(ひわだぶき)から瓦葺に変えるなどの

改造が施されたが、宮殿建築の遺構として貴重な存在だ。

同じく霊宝館も逸品が満載。

光孝帝と等身大に造像された阿弥陀三尊像(国宝)が拝観できる。

出典 : 週刊朝日 2010年2月26日号 

      古都を旅する 仁和寺 楡 周平 さん

短 歌 : 久方の 光のどけき 春の日に ・・・

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桜の花の散るのを詠んだ歌  紀 友則

「 久方(ひさかた)の 光のどけき 春の日に

   静心(しづこころ)なく 花の散るらむ 」

古今和歌集 巻第一 春歌上

意味 : 日の光がのどかに照っている春の日に、

      どうして桜の花はあわただしく散っているのだろう。

やわらかな日ざしが爛漫の春を印象づけながら、その中で桜の花だけが落ち付いた

心もなく散り急いでいると詠んでいる。

上三句で春爛漫の静かで穏やかな世界が示されているのに対し、下二句の

「 静心なく花の散るらむ 」では、「 花 」を擬人化し、花の散るのを花自身の意思

とみて、その心を推量している。

春ののどやかな世界と、その中に秘められたあわただしさとが対照的にとらえられ

ている。

この歌では、桜の花がはかなく散るという事実を通して、自然のはかりしれない力の

ようなものまでが感じとられている。

出典 : (1). 日本の古典をよむ 

          古今和歌集 新古今和歌集  ( 小学館 )

     (2). 原色 小倉百人一首 ( 文英堂 )

額田王 : あかねさす 紫野行き 標野行き 野守は見ずや ---

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 あかねさす 紫野(むらさきの)行き 標野(しめの)行き

        野守(のもり)は見ずや 君が袖振る

これは、『万葉集』に載る「天皇、蒲生野(がもうの)に遊猟(みかり)する時に、額田王

の作る歌」である。

万葉の女流歌人として、その名を知られる「額田王」は、大化改新をもたらす乙巳(いっし)

の変と、壬申の乱が起こった古代の動乱期に生き、歴史を大きく動かした中大兄皇子

(天智天皇)と大海人皇子(天武天皇)の兄弟・二人の男性から愛され、翻弄された悲恋の

女性との見方が一般的だ。

しかし、それは真実の額田王だろうか?

実は、額田王に関する史料と言えば、『日本書紀』に記された「天皇、初め鏡王の女額田姫

王を娶して、十市皇女(とおちのひめみこ)を生す」というたったこれだけの記録しかない。

ここから読み取れることは、額田王が鏡王の娘として「姫王」の称号を持つ身分であり、

大海人皇子が初めて結婚した相手で、十市皇女を産んだということである。

ほかには、『万葉集』において、「額田王」の作とされる歌一二首(長歌三、短歌九)と、

関連する歌が数首あるだけなのだ。

額田王は、おおよそ六三一年ごろ生まれ、一四、五歳で宮中に出仕し、皇極天皇の側に

侍すようになったと考えられている。

その地位も判然としないが、乙巳の変後の六四八年ごろ、一〇代後半であったと思われる

額田王は大海人皇子と結ばれて、娘・十市皇女を産んだ。

やがて六六五年ごろ、十市皇女が中大兄皇子の息子・大友皇子と結婚し、葛野(かどの)

王を産んだ。

六六七年三月、中大兄は京(みやこ)を近江の大津に遷し、翌年正月、天智天皇として

即位した。

額田王も近江大津京へ移るが、彼女は十市皇女の誕生から一〇年ほど経た658年ごろ

には、中大兄と親密になっていたともいう。

同年五月五日、天智天皇は、大海人皇子と諸皇族、中臣鎌足(藤原鎌足)や群臣、女官

たちを従え、近江の蒲生野に薬猟(くすりがり)を行なった。

冒頭の歌は、蒲生野行幸の一行に加わり、額田王が薬草摘みに散策していたところ、

鹿を追っていたはずの男が、こちらへ袖を振っているという情景を詠ったものだ。

袖や領巾(ひれ)を振るという行為は、この時代の恋人や夫婦の間でなされる愛情表現

である。

そこは、紫草(むらさき)を栽培する禁野(きんや)、標野を監視する番人の野守が巡る

場所であった。

「見られているわよ」と、額田王に咎められた「君」は、しかし、こう詠うのだ。

紫の にほへる妹を 憎くあらば

   人妻ゆゑに 我恋いめやも

「紫草のように美しいあなたが人妻だからといって、恋しないなんて」と。

『万葉集』にある注釈によれば、額田王に応えたのは大海人である。

その大海人の最初の妻が額田王であったという事実から、この最も有名といえる贈答歌

は、額田王と中大兄と大海人との三角関係を示唆するものとして、額田王の悲恋の

ヒロイン像ができあがった。

出典 : ひととき 2010 MARCH 

     結喜しはや さんの 「 額田王 - あかねさす紫の古代女性 」

芭蕉 : 山吹(やまぶき)や宇治の焙爐(ほいろ)の匂ふ時

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元禄四年(1691)年春の作。

芭蕉とその一門の残した最高の作品集『猿蓑(さるみの)』(元禄四年刊)所載の句である。

掲出句には「画賛(がさん)」と前書きが置かれている。

芭蕉はこの新春を近江で迎え、故郷伊賀におもむいて過ごした。

この時期、宇治に行った記録はない。

掲出句は絵に添えた句であって、実景を直接、描写した句ではなかった。

実にみごとな取り合わせの句である。

山吹が咲いて鮮やかな黄色がうつくしい。

「焙爐」とは中に炭を入れて、葉茶を揉(も)みながら乾燥させる炉である。

ちょうど新茶の季節、茶の葉が入れられてよく香っている。

山吹の花という視覚に訴えるものと、宇治茶の乾燥炉の匂いという臭覚に訴えるものとが、

取り合わされているのだ。

異なった感覚でありながら、二物がよく響きあっているように感じられる。

------- 中 略 ------------

さて、季語、山吹である。

芭蕉発句の江戸時代の注釈書「笈(おい)の底」に、

 「 宇治は名所であり、山吹はは宇治という名所につきものの花である。

  宇治橋のすこし下流に山吹の瀬という地名もある 」

と書かれている。

宇治の山吹は古歌にも多く詠まれてきた。

------- 中 略 ------------

たしかに山吹の花は絵に描けるが、焙爐の匂いを描くことはできない。

絵と句とで新たな世界を作り出しているのである。

------- 中 略 ------------

山吹の花の色は、平等院の如来の肌の金色も思い出させる。

掲出句の背後に、平等院が、そして、阿弥陀像、浮かび上がるような気もしてきた。

出典 : ひととき 2010 MARCH 小澤 實さんの「 芭蕉の風景 」

禅 語 : 喝 ( かつ )

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大声で叫ぶこと。

禅林では、指導者が修行者を導く手段にもちいる。

唐代、馬祖道一(ばそどういつ)が百丈懐海(ひゃくじょうえかい)に対して放ったのが、

禅門で用いられた最初とされる。

馬祖の一喝は凄(すさ)まじく、百丈は三日間耳が聞こえなくなるほどであったという。

その後、臨済義玄(りんざいぎげん)がこれを主な接化(せっけ)の手段として用いた

ことはよく知られ、若い頃の徳山宣鑒(とくさんせんかん)が道を求めて来た者に対し

棒を振るって導いたことと共に、「 臨済の喝、徳山の棒 」として並び称され、禅門の

接化手段の峻烈さを代表する。

臨済禅師は喝を四種類に分けている。 ( 臨済四喝(しかつ) )

すなわち、「 有る時の一喝は金剛王宝剣(おうほうけん)の如く、有る時の一喝は

踞地金毛(こじきんもう)の獅子の如く、有る時の一喝は探竿影草(たんかんようぞう)

の如く、有る時の一喝は一喝の用(ゆう)を作(な)さず 」というのがそれで、「 ある時

の一喝は自由自在にあらゆる煩悩や執着(しゅうじゃく)を斬破(ざんは)する金剛王

のもつ宝剣のようであり、ある時の一喝は底知れぬ威力をうちに秘めて地にうずくまり

獲物を狙(ねら)う金毛の獅子のようであり、ある時の一喝は相手の足下を見極める

ために探りを入れてその力量を引き出す誘いであり、ある時の一喝は造作や計らい

を一切加えず一喝の用(はたら)きさえもなさない自然の作用であるという。

特に最後の一喝は四喝の骨子であり、ここから三喝、四喝、無料の法門が出てくると

言われる。

そのほか、喝には唱えると言う意味もあり、喝食(かつじき)、喝散(かつさん)、喝参

(かつさん)など、物事を告げる際の口上を唱える意味に用いる。

出典 : 大法輪 2010年1月号 特集:禅語百選

結婚式 女性の装い 2/2

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昼のパーティーか夜のパーティーか、時間帯によっても若干ルールが異なる。

昼は肌を見せないのが基本。

肩が出る服の場合はストールなどで肌の露出を減らす。

夜ならば肩を見せてもマナー違反にはならないという。

宝石を着ける場合、真珠とダイヤモンドは昼も夜も使えるが、エメラルド、ルビー、

サファイアなど色の付いた宝石は夜向けだ。

式、披露宴が昼から夜まで続く場合は、夜に合わせて服をコーディネートする。

最近はカジュアルな式ならばサンダルを履いても構わなくなっている。

ただし、かかとにストラップがないものはマナー違反。

かかとにストラップがるものを選ぶこと。

式や披露宴のときは小さなバッグだけを持つのがスマートだ。

席に着いたらバッグはひざ上に。

その上にナプキンを置く。

いすに深く座って安定して食事をとるたにも、いすの背もたれ背中の間に挟むのは

やめる。

「 堅苦しいと思われがちなマナーですが、決まりがあることで楽な面もあります。

  知識があることが堂々とした振る舞いにつながります。 」

と住友さんは語る。

結婚式 女性の装い 1/2

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結婚式に招待された時、どんな服装で出かければよいか。

特に女性は、服や靴、宝飾品など選択肢が多いので悩んでしまうものだ。

おしゃれに装うためにも、まずは基本マナーを知っておこう。

「 式や披露宴が行なわれる場所や時間にふさわしいこと、主催する相手がうれしいと

思うことをしてあげることが基本 」と語るのは、マナー教室セレブスタイルを主宰する

、マナー研究家の住友淑恵さん。

結婚式やパーティーでは、自分も会場に花を添えるという意味をこめて、なるべく華や

かな装いをすること。

それが主役の格を上げることにもつながると住友さんは指摘する。

ただし、あくまで主役は花嫁。

花嫁を超えるような華美な装い、白いドレス、キラキラ光るティアラなどは避けたほうがよい。

黒い服は慶弔のどちらとも取れる色なので服、靴、ストッキングなどすべてを黒で

そろえるのは避ける。

テーマを決めるとコーディネートしやすい。

なるべく華やかにアレンジしよう。

出典 : 日本経済新聞 2010年3月6日号 暮らしのワンポイント

               「 結婚式 女性の装い 」

線香復権

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 冠婚葬祭にもデフレが進み、葬儀の簡素化を希望する人が増えている。

お別れ会は身内で小規模に。

その上仏壇も持たないと言うから、線香も先細りかと思ったら、さにあらず。

現代ならではの意外な需要が生まれている。

トップメーカーの日本香堂は2008年と09年、11月の売上高が前年に比べて

それぞれ3割増、4割増と大幅アップした。

11月は年賀状を前に喪中はがきが最も多く届く時期。

「 はがきを受け取ったら線香を贈りましょう 」というキャンペーンCMを流したところ、

予想以上の反響があった。

もともと日本にはおくやみを伝えるため線香を贈る習慣があった。

だが、葬儀や法事に参じる機会が減るうちに忘れられてしまったようだ。

知人の弔事は「 喪中はがきではじめて知る 」人も多い今、線香で弔意を表す習わし

が復活してきた。

出典 : 日本経済新聞 2010年3月6日号 「 線香復権、若者がけん引 」

「 はい 」という返事

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「 はい 」という言葉を使うのは2つの場合と考えられる。

一つは、人に呼ばれた場合、もう一つは、ものごとに関して賛成か、反対かの意思表示を

する場合の賛意を表明するケースだ。

今回は人に呼ばれた場合。

病院の待合室で人の名前が呼ばれても、「 はい 」と言って返事をする人はあまりいない。

黙って呼んだ人の所へ行く人が多い。

小学校で名前を呼ばれたら「 はい 」と返事しましょう、と教わったあの小学生は今どこへ

言ってしまったのでしょうか?

人の名前を呼ぶということは、確認、指示、要請などその人に用事があるから、コミュニケ

ーションをとろうとしているので、相手は返事をしなければならない。

「 はい 」と返事して、手を上げる、立ち上がるなどしなければならない。

自分が逆に呼びかける人だったらどう感じるか考えてみれば事は明らかだ。

会社では、上司に呼ばれたら、「 はい 」と返事して、上司の方を向いて立ち上がり、ペン

とメモ用紙を持ってすぐ上司の前に行きます。

学校であろうが、病院であろうが、職場であろうが、人に自分の名前を呼ばれたら「 はい 」

と返事してから行動しましょう。

コミュニケーションは気持よく行ないましょう。

人間関係の基本です。

晴れ着

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「晴れ着」という言葉に残る「ハレ」は、仕事を休んで祭りや祝い事をする特別な日を指した。

これに対し労働にいそしむふだんの暮らしは「ケ」だ。

民俗学者の柳田国男はのの二つの軸から日本の生活文化をとらえ直した。

着物の色にせよ、昔からハレには鮮やかで派手な色、あるいは黒や白という神聖な色が

用いられる。

これに対しふだん着はあえてくすんだ色と地味な模様を用いた。

だが近代化とともにその区別が薄れてきたきたことについて柳田はこう述べる。

「 理由はケとハレとの混乱。 即ち稀(まれ)に出現する所の昂奮(こうふん)というものの

  意義を段々に軽く見るようになったことである。

  実際現代人は少しずつ常に昂奮している。

  そうして疲れてくると、初めて以前の渋いという味わいを懐かしく思うのである。 」

これは今から約80年前の指摘だ。

昔の人が見ればケもハレもない毎日が祭りのような暮らしとなった「 現代人 」だ。

出典 : 毎日新聞 2010年3月5日号 「 余録 」

津波の破壊力はなぜ大きい?  2/2

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高波は海面付近の水だけが動き波長は最大でも200メートルほど。

1つ1つの波の力はそれほど大きくない。

これに対して津波は海底から海面までの水が巨大な塊となって押し寄せる。

波長は数百キロメートルに達することがあり、強い力が長時間かかり続ける。

有川主任研究官は「津波は頭で考える以上に水量が多く、流れも速い」と警告する。

「地形によっては津波が引く時の方が怖い」と高知大学の岡村 真教授は話す。

津波の高さが1メートルなら海抜4メートルの高さまで海水がする恐れがある。

それが戻っていく時に速さを増し、破壊した木材やがれきが凶器になる。

下り坂から平地になる場所には渦が発生して足を取られやすくなる。

遠い場所で起きた津波がいつ、どの程度の破壊力で日本に到達するかの予測は

依然難しい。

震源付近の触れや海底地形に関する十分な」データがそろわない場合が多いからだ。

地形の影響で反射した波が後からやってくるば場合もあり、最悪のケースを想定して

ある程度長い時間に渡って警戒をを続ける

津波の破壊力はなぜ大きい?  1/2

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チリ大地震では、地球の反対側でに位置する日本に1メートルを超える津波が到達した。

予想より小さかったと安心した人も多いが、実は高さ数十センチの津波にも人を押し流す

力がある。

2メートルを超えると木造家屋を押しつぶしてしまう。

なぜこれほどの破壊力を持つのだろうか?

日本の沿岸では津波警報が出ていても海岸に様子を見に行く人やサーフィンを続ける

人がいた。

しかし、高さ20センチの津波でも流れは毎秒30センチに達する。

遊泳禁止になる水準で、海の中にいると沖に流される危険がある。

「陸上では、ひざ上程度の高さでもほとんどの人が流されてしまう」と、独立行政法人・

港湾空港技術研究所の有川太主任研究官は指摘する。

同研究所の世界最大級人工津波発生装置で実験したところ、体重の軽い女性は30

センチ、男性でも60センチを超えると転倒した。

有川主任研究官によると、高さ1メートルに達すると厚さ6ミリの鉄板が曲がる威力が

あり、木造家屋は部分的に壊れる。

2メートルなら、全壊の恐れがあり、津波がぶつかる時の圧力は1平方メートルあたり

最大15トンに達するという。

津波は高波とは仕組みも威力も異なる。

2004年の台風23号では13メートルを超える高波が発生。

高知県室戸市では堤防が壊れ家屋に大きな被害が出た。

これに対し、津波は高さが数分の1の2~3メートルでも堤防を破壊する。

出典 : 日本経済新聞 2010年3月7日 ナゾかがく 「津波の破壊力はなぜ大きい?」

      から。

恐竜絶滅の原因は?

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恐竜など白亜紀末期の生物大量絶滅は、現在のメキシコ付近への1回の小惑星衝突

が原因とする論文を、日本など12カ国の国際チームが5日の米科学雑誌「サイエンス」

に発表した。

約6550万年前に地球環境を一変させた破壊的衝突の全容も明らかにした。

大量絶滅をめぐっては、複数の地球外天体衝突説、火山噴火説も出されているが、

研究チームは「否定された」と結論付けた。

チームには、地質学、古生物学、地球物理学、惑星科学など専門家が結集。

メキシコ・ユカタン半島の巨大クレーター「チュチュルブ・クレーター」(直径約180キリ)

が形成された時期の世界各地の地層などの最新データを解析し直した。

その結果、

 O チュチュルブ・クレーター形成と大量絶滅の時期は一致

 O 他の天体が前後に衝突した痕跡はない

 O 6550万年前ごろは火山活動が活発ではなかった

と判明。

クレーター形成による環境変化は、大量絶滅に十分だったとした。

チームによると、衝突した天体は直径10~15キロの小惑星、衝突速度は秒速約20キロ、

衝突時のエネルギーは広島型原爆の約10億倍、衝突地点付近の地震の規模は、マグ

ニチュード11以上、津波は高さ約300メートルと推定された。

衝突による放出物は世界約350地点で確認された。

放出物は大量のちりとなり、太陽光がさえぎられて地球上が寒冷化。

5~30度の気温低下が約10年続き、海のプランクトンや植物が死滅、食物連鎖の上位

にいた恐竜などが絶滅したと考えられるという。

この際、海底に生きる一部のプランクトンや、体が小さくて食料が少なくてすんだ哺乳類は

生き延び、後に多様化したと見られる。

チームに参加した後藤和久・東北大助教(地質学)は「チュチュルブへの衝突によって、

生物の大量絶滅が起きたという説が揺らぐことは、もはやないだろう」と話している。

出典 : 毎日新聞 2010年3月5日 「 恐竜の絶滅 」から。

温暖化、森林・海洋に影響大

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環境省の有識者検討委員会は、人為的な原因で自然環境が広範に損なわれている

とする報告書をまとめた。

高度経済成長期に盛んだった国土開発の影響は薄れつつある一方で、近年は地球

温暖化が生態系の損失に拍車をかけていると分析している。

なかでも森林や海洋の生態系に及ぼす影響が大きいという。

温暖化の関与が疑われる生態系への影響としては次のようなものが上がっている。

1. 気温上昇に伴ってシカやサルなどが高山帯に出没、植生が乱れ始めている。

2. 国の特別天然記念物であるライチョウは、高山植物の減少によって食料を確保

   しにくくなると懸念されている。

3. 北海道・アポイ岳で高山草原が急減。

4. チョウ、トンボ、カメムシなどの分布域が北上。

5. 繁殖地や越冬地の気温上昇でコハクチョウの個体数が急増。

6. オホーツク海の海氷が減り、植物プランクトンが減少。

7. 海水温の上昇により、サンゴの白化減少が進んでいる。

   沖縄県の石垣島と西表島の間に広がる石西礁湖では1998年ごろから白化

   現象が目立つようになった。

出典 : 日本経済新聞 2010年3月3日号

幕末外交に大きく影響した「 フェートン号事件 」 No.6

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こうしたことを可能にした背景に、鍋島直正(号・閑叟かんそう)の学制改革があった。

佐賀藩は藩士はすべて藩校弘道館にゆくことができた。

いや、行かされたと言うべきかもしれないが、後に幕末四賢侯の一人と讃えられる閑叟

は教育の充実こそ近代化の決め手だと知っていたのだ。

基本的に「儒教」と「武術」しか教えない他藩の藩校と違い、洋学コースを設けた。

そして15歳以下の子弟のためには蒙養舎(もうようしゃ)という「小学校」まで設立した。

他藩ではこういうことはなかった。

長州では下級藩士の息子である伊藤俊輔(博文)はそもそも藩校に行く資格がなかった

から、吉田松陰の私塾「松下村塾」に行くしかなかった。

土佐でも坂本竜馬などの郷士(下級藩士)は藩校に行けなかった。

佐賀では、他国(筑後国=現在の福岡県)から日本のエジソンと呼ばれる「からくり

儀右衛門」こと田中久重を精錬方招くなど、出身地、出身階級に拘らない実力本位

の人材登用を行なった。

これも軍事の天才であった村田蔵六(大村益次郎)を「医者にすぎない」ということで、

他藩の人間が注目するまで放っておいた長州藩との大きな違いである。

「 明治維新は一足先に佐賀藩で達成された 」という意味のことを司馬遼太郎が

言っている。

幕末外交に大きく影響した「 フェートン号事件 」 No.5

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1830年(天保元年)、十七歳の若さで家督を継ぐと、ただちに藩政改革に乗り出し、

まず産業を盛んにして財政を立て直したのち、次に藩の近代化に乗り出した。

近くに長崎があるのを幸いに、次々と藩内の人間を「留学生」として送り込んだ。

その成果は着々と上がり1850年(嘉永3年)には精錬方が日本初の本格的反射炉

を建造した。

これにより鋼鉄の生産が可能になり、佐賀藩の大砲は日本で最も進歩したものになった。

これはペリー来航(嘉永6年)前のことである。

また1858年(安政5年)に海軍所を設け翌年には精錬方が火薬製造に成功、

1865年(元治2年)には蒸気船まで独自に開発した。

俗に、維新に活躍した雄藩を略して「 薩 長 土 肥 」という、薩摩、長州、土佐は

当然として、なぜ肥前(佐賀藩)が入っているのか?

それは明治維新直前の時点で、佐賀藩はその工業力を生かして世界最新鋭(日本

最新鋭ではない!)の大砲アームストロング砲多数保持しており、ギリギリになって

倒幕勢力に加わった佐賀藩の火力が、上野にこもった彰義隊との戦争を一日で

終わらせ、難攻不落と言われた会津若松城をも開城に追い込んだからだ。

幕末外交に大きく影響した「 フェートン号事件 」 No.4

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江戸幕府は、武器の改良そのものを禁じていた。

だから銃は火縄銃のままで、大砲は青銅製だった。

 大船は建造することすら禁止していた。

その「 進歩を止めた武器 」で「 二百年以上進歩した武器 」に対抗しようと思っても

無理な話だ。

叱責すべきは佐賀藩ではなく幕府自身の「 平和ボケ 」である。

本来なら、「 ペリー 」ではなく「 ペリュー 」の直後に「 海軍伝習所 」や「 造船所 」

や「 反射炉 」をつくり、西洋列強に対抗できる体制づくりに励むべきだった。

事件当時、佐賀藩の当主は鍋島斉直(なりなお)といったが、その後を継いだ斉正(

のち直正に改名)は怒りに燃えた。

それはそうだろう。

フェートン号事件でイギリスの無法を許してしまった責任は、どちらかといえば佐賀藩

ではなく幕府の政策にある。

ならば、この恥をすすぎ、必ず幕府を見返してやる、とこの「若殿」は考えたのだ。

もちろん、個人的な復讐心だけでな、長崎防御を任された大名として、このままでは

責任が果たせず、ひいては日本国全体の安全が脅かされるという危機感もあった。

幕末外交に大きく影響した「 フェートン号事件 」 No.3

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この事件は日本史に重大な影響を与えた。

それまでの日本は「鎖国」をしていたとはいえ、外国船を無闇に追い払うようなことは

していなかった。

というのは、航海中に食料や飲料水が不足するなどということは珍しいことではなく、

また嵐などの不可抗力で日本の海岸に漂着してしまうことだってある。

そういう折に幕府は薪水などを与えて国外退去を命じていた。

つまり、人道的に対応していたのである。

ところが、このフェートン号の無法に怒った幕府は、身内の松平康英が犠牲になった

こともあり、「 有無を言わさず無二念(むにねん)(余計なことを考えずに)打ち払え 」

という、極めて乱暴で強硬な異国船打払令をだしたのである。

1925年のことだ。

この対応にはやはり大きな問題点があった。

なぜ長崎奉行松平康英は切腹しなければならなかったのか?

それはフェートン号というたった一隻の戦艦(しかも帆船)にまるで歯が立たなかった

からだ。

そもそも佐賀藩が規定の人数を警備に回してもダメだったということは分かったはずだ。

幕末外交に大きく影響した「 フェートン号事件 」 No.2

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イギリスはやりたい放題のことをやって悠々と退去した。

江戸から派遣されていた長崎奉行松平康英は国威を傷つけられた責任をとって切腹した。

長崎自体は幕府の直轄地であり、だから中央から旗本出身の長崎奉行が赴任していたの

だが、長崎湾自体の警備は近くの佐賀藩に委託されていた。

今は、佐賀県と長崎県に分かれているが、昔は肥前国であって、一つだった。

佐賀藩は、一番近い大藩として長崎警備を担当させられていたのだ。

しあkし、幕府も、日本全体もそうであったように、この時代の佐賀藩も完全に「 太平の

ねむり 」つまり「 平和ボケ 」にひたりきっていた。

本来なら千名を警備に割かねばならないのを、わずか百名でごまかしていたという。

当然、幕府はその「 怠慢 」を厳しく叱責した。

幕末外交に大きく影響した「 フェートン号事件 」 No.1

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1808年(文化5年)、長崎に侵入したイギリス軍艦による狼藉事件。

ナポレオン戦争によりフランスに併合されたオランダと交戦国の関係にあったイギリスの

軍艦フェートン号(艦長・ペリュー大佐)が1808年10月24日(和歴8月15日)、オランダ

国旗を掲げて長崎に入港、これを蘭船と誤認して、長崎奉行所役人、通詞らとともに出向

いたオランダ商館員2名を捕らえ、湾内を探索したうえ、薪水、食料を強要して乱暴を

働いた。

イギリスの国旗を掲げるべきなのに、オランダ国旗を掲げてダマしたこともそうだが、

民間人であるオランダ商館員を人質にとって、中立国である日本を脅迫し、物資を

奪い取ったのであるから。

フェートン号は巨大戦艦ではあったが、木造帆船で蒸気船ではない。

しかし、それでも日本側はこの狼藉を黙って見ているしかなかった。

日本側は同じ帆船とはいえ、一本マストデ帆が一枚の外洋航海できない帆船しか

なかったし、大砲も基本的に戦国時代と同じもので、破壊力も射程距離もフェートン号の

艦砲にすら及ばなかったのである。

出典 : 週刊ポスト 2010年2月12日号  井沢元彦氏著 「 逆説の日本史 」

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