禅 語 : 一日不作一日不食

一日作(な)さざれば、一日食らわず。
あるとき百丈(ひゃくじょう)は、僧堂の大衆が総出で作務(さむ)(労働)を行なう際に、
高齢の老師様だからというので、お出ましいただかないように配慮された。
鎌を隠されてしまったのである。
そのことを不満に思った百丈は、その日、食事を頑として採らなかったという。
これは、そのときの言葉である。
いかにも「 百丈清規(しんぎ) 」の作者らしい言葉である。
ここには、老師様と大衆の差別、高齢と壮年の差別、知性と身体の差別等への、
問いと批判がこめられていよう。
禅のいのちは、用にある。
はたらいてやまないところに、、禅者の真価がある。
それをかけがえのないご法体(ほったい)、大切にしてくださいと、ただじっとしている
よう言われたら、承服しかねるのも無理はない。
ただし「 作す 」ということ、行為には、仏教の場合、身(しん)・語(ご)・意(い)の
三方面があるのだから、いわゆる肉体労働のみが作務とは限らないであろう。
老師には老師の業務もあったはずである。
大人げない、と斬り捨てるのもまた一見識かとも思う。
ともあれこの句には、懈怠(けたい)と無為に過ごすのみの不心得者への警告を、
すなおに読めばよいであろう。
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