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2010年2月アーカイブ

ビジネスマナー以前 : 他人のじゃまをしない

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 次のような行為は自分で意識しないで行なっていることが多いものです。

相手の立場に立って見直し、自分が相手だったらどう感じるか、どう思うか、を

考えてみる余裕を持ちたいものです。

これらの行為は、ビジネスマナー以前の問題です。

無神経に他人のじゃまをするようでは、ビジネスマナーはできません。

 (1). 他人の前を横切る

 (2). 他人の前に立ちふさがる

 (3). 他人の話に割り込む

 (4). 自分ばかりしゃべる

 (5). 電車で、席に座り、足を組んで、組んだ足を通路に出している

 (6). 電車の中で携帯電話をする

 (7). 電車の中で、大股を広げて座る

 (8). 歩きながら携帯電話、メールをする

 (9). 電車をホームで待つ時、最前列の人が安全ラインから一人分くらい

      空間をあけて並んでいる

(10). 道路に車を止めて、携帯電話する

禅 語 : 一日不作一日不食

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一日作(な)さざれば、一日食らわず。

あるとき百丈(ひゃくじょう)は、僧堂の大衆が総出で作務(さむ)(労働)を行なう際に、

高齢の老師様だからというので、お出ましいただかないように配慮された。

鎌を隠されてしまったのである。

そのことを不満に思った百丈は、その日、食事を頑として採らなかったという。

これは、そのときの言葉である。

いかにも「 百丈清規(しんぎ) 」の作者らしい言葉である。

ここには、老師様と大衆の差別、高齢と壮年の差別、知性と身体の差別等への、

問いと批判がこめられていよう。

禅のいのちは、用にある。

はたらいてやまないところに、、禅者の真価がある。

それをかけがえのないご法体(ほったい)、大切にしてくださいと、ただじっとしている

よう言われたら、承服しかねるのも無理はない。

ただし「 作す 」ということ、行為には、仏教の場合、身(しん)・語(ご)・意(い)の

三方面があるのだから、いわゆる肉体労働のみが作務とは限らないであろう。

老師には老師の業務もあったはずである。

大人げない、と斬り捨てるのもまた一見識かとも思う。

ともあれこの句には、懈怠(けたい)と無為に過ごすのみの不心得者への警告を、

すなおに読めばよいであろう。

禅 語 : 一葉落知天下秋

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 一葉(いちよう)落ちて天下の秋を知る。

「 淮南子 (えなんじ) 」「 説山訓 (せつざんくん) 」に「 一葉の落つるを見て歳の

将(まさ)に暮れなんとするを知る 」による。

桐の葉一枚が落ちるのを見て、秋の到来を知る。

ささいな出来事の中にも示される大自然の真実(仏法)。

また、わずかなやり取りの中に示される学人の才気。

「 圜悟録 (えんごろく) 」巻一に「 問う、大庾嶺(だいゆれい)頭、提不起。 

如今(いま)、何としてか師の辺に在りや。 師、払子(ほっす)を挙(こ)す。

進みて云く、拈来(ねんらい)すれば宇宙に当たり、錦上(きんじょう)、更に

花を鋪(し)く。 師云く、一葉落ちて天下の秋を知る 」とある。

六祖が大庾嶺で示した仏法が師のもとにあるとはどういうことか、の質問に、圜悟

は払子を立てて答とした。

そんな余計なことをしなくても仏法は現前にあるという僧の発言に、圜悟は秋の

到来はやはり一葉の落ちるをもってこそ知りうる(表現できない世界をあえて表現

する)と答える 」。

宏智正覚 (わんししょうがく) (1051-1197)の『 頌古 (じゅこ) 』の「 真身

(しんじん) 」にも「 一葉落つる時、天下の秋。 不風流の処、却って風流 」

(一葉が落ちる季節は必ずしも風流ではない。 しかしそれもまた仏法の真実に

ほかならない )のことばがある。

禅 語 : 滅却心頭火自涼

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心頭滅却すれば、火も自ずから涼し。

甲斐恵林寺( かい えりんじ )の快川紹喜( かいせん しょうき )( ?~1582 )

が、織田信長に攻められて焼死するに当たって述べたとされることから、人口に膾炙

( かいしゃ )することとなった。

ただし、元来は唐末の杜荀鶴( とじゅんかく )の「 夏日題悟空上人院 」によることが

指摘され、のち「 碧巌録 」第四三則に出ることが知られることから、快川の創唱ではない。

また、快川のエピソードから「 坐禅すれば燃える火の熱さも感じない 」といった、坐禅

すれば熱さは感じないといった理解もあるが、これは誤り。

「 安禅は必ずしも山水を須(もと)めず、心頭を滅却すれば、火も自ずから涼し 」と

あるように、坐禅の場としては必ずしも山水が必要というわけではない。

条件が整わなくては坐禅はできないという、取捨選択の心(心頭)をなくしてしまうことが

大事で、そうなれば火すらも涼しいものとなる、の意。

重点は「 取捨選択の念 」とどう向き合うかにある。

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 「 腹 」という字の右側の部分は器を逆さまにした形で、大きくふくらんでいるという

意味があるそうだ。

白川 静さんの「 字統 」の説明である。

それに月(にくづき)をつけて動物のおなかを示そうと考えた人は、腹はふっくら大きい

のがいいと考えたのだろう。

日本では「 腹が大きい 」、「 腹が太い 」といえば、「 度量がある 」ことを意味するし、

「 腹を肥やす 」といえば「 私利私欲をむさぼる 」ことをいう。

「 腹がふくれる 」といえば、文字通り満腹を指す他、言いたいことを言えずに不快な

さまをも示す。

昔から「 腹 」という言葉を、見た目では分からぬ心の容量や懐具合を示すのに

使ってきた日本人だ。

だからお互いの真意は「 腹を割って 」話さねばわからない。

だが平成の日本では、腹の周囲の大きさで中身を判定するのが習わしとなった。

腹囲が女性90センチ・男性85センチ以上、加えて血圧、血糖、血中脂質のうち二つ

異常が重なるとメタボリック・シンドローム(内臓脂肪症候群)と判定されるメタボ

健診である。

しかし、一昨年春から始まって、世の中高年を震撼させたこの腹囲測定の効果に

疑問符が突きつけられたという。

もともと心血管疾患の発病防止を目的とする腹囲測定だ。

だが厚生労働省が先週公表した3万人以上のデータによると、現在の腹囲の基準

数値による線引きにあまり意味のないことが判明した。

健診開始当初からの疑問がさらにふくらんだ。

とはいえ腹囲が増すほど発病の割合が高まる傾向は明らかだから、ここは「 腹の

太さ 」をたたえた昔の人をしたり顔で称賛もできない。

古人から学ぶべきは、人の「 腹の内 」ばかりはなかなか巻尺一つででは分からない

ということか。

毎日新聞 2010年2月16日 余録 から。

木材の"水中乾燥"

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温度を上げる、風邪をあてる、天日にさらす。

モノを乾燥するやり方はいろいろある。

乾かすためにわざと水につけたり、温度を低くしたりと、一見理屈に合わないようでいて、

実は理にかなう手法もある。

乾燥の世界には不思議がいっぱい詰まっている。

山あいの小さなため池に、約500本の丸太が静かに浮かんでいる。

近づくと丸太の切り口にはヌメヌメした液体が見える。

「 樹液がよう出とるは 」。 宮内建築の宮内寿和さんは切り口を見ながらつぶやいた。

忍者で有名な滋賀県甲賀市の山奥。

池に浮かぶ丸太のほとんどは特産のヒノキだ。

家2軒分の住宅に使う構造材として「 水中乾燥 」をしている。

伐採したての木は多くの水分を含んでいる。

木は乾くにつれて縮む性質があり、住宅や家具に使うには水分量が安定するまで乾かす

必要がある。

現在日本では高温の乾燥機の中に入れて短期間で乾かす方法が圧倒的に多い。

水中乾燥の場合、1年ほど水につけてから引き揚げて、半年から1年置いておく。

伊勢神宮で今も続いている伝統の手法だ。

なぜわざわざ水につけるのか。

職業能力開発総合大学校東京校の定成政憲教授は、

「 いったん水をすわせることで樹液をはき出させる。

  そうすると池から引き揚げたときに内部の水が早く均一に抜ける。 」

と解説する。

屋外に放置する一般的な天然乾燥の場合、表面が割れてしまうことがある。

高温乾燥は表面だけ乾いて内部に水分が残ることもある。

一方、水中乾燥は手間はかかるが、ムラなく乾くので割れにくい。

しかも「 樹木の油分が適度に残り、色、つや、香りのいい木材に仕上がる 」という。

--- 中 略 ---

日本の森林はいま、危機にひんしている。

林野庁によると、国内の森林資源(利用可能な樹木)はこの30年間で倍増した。

一方で森林の面積はわずかだが減っている。

外国材に押されて国産材が売れず、間伐も進まない。

面積は減っているのに樹木が増え、森がかってないほど過密になっている。

密集した森には光が差し込まず、下草が育たない。

保水力が低下した森は、災害を誘発する恐れもある。

国産材が売れない理由は価格だけではない。

乾燥の問題もある。

日本の人工林のほぼ半分を占めるスギは特に乾燥が難しいといわれる。

中心部が乾きにくく、柱などに使うと施行後ゆがんでしまうこともある。

出典 : 日本経済新聞  日経マガジン 2010年2月21日号。

禅 語 : 平常心是道 (びょうじょうしん これ みち )

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平常心は、一般的に用いる場合には「 へいじょうしん 」と読むが、平常心是道という

禅語としては、「 びょうじょうしん 」と読む。

唐代の禅宗発展の立役者である馬祖道一( ばそどういつ )のことばで、仏を特別な

尊い存在と見るのではなく、行住坐臥( ぎょうじゅうざが )の日常生活を離れたところ

に悟りを求めず、人間存在のありのままこそが仏法の実現であるとするのである。

馬祖の門流によって主張され、即心是仏( そくしんぜぶつ )とともに唐代禅宗の特徴

を示す禅語となった。

禅の悟りが特別なものではないことを、多くの禅僧がさまざまな表現で説いているが、

臨済宗の祖臨済義玄( りんざいぎげん )は

「 屙屎送尿( あしそうにょう )、著衣喫飯( じゃくえ きっぱん )、困(こん)じきたれ

ばすなわち臥(が)す 」 ( 大小便をし、服を着て飯を食い、眠くなれば寝る )と述べた。

つまり朝起きてから夜眠るまで、何の変哲もない日常生活全体が修行ということである。

また永平寺を開いた道元は、修行自体が悟りの現成(げんじょう)であることを

「 修証一等 ( しゅしょう いっとう )という語で示している。

禅 語 : 日々是好日 ( にちにち これ こうじつ )

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中国禅宗は五家七宗(ごけしちしゅう)に分派したが、その中の雲門宗の開祖雲門文偃

(うんもんぶんえん)が修行僧達に、過去のことについては何も問わない、今日以後の

ことについて何が大切なのか言い表してみろといったが、誰も答えられなかった。

そこで雲門が示したのが、日々これ好日(毎日毎日がかけがえのない大切な日だ)と

いう一句である。

仏教では過去・現在・未来を三世というが、われわれが認識できるのは常に今という

瞬間でしかない。

過去はすでに過ぎ去って戻らないし、未来はやって来れば現在に変わってしまう。

結局、今という瞬間を生きるしかないのだから、過去にくよくよしたり必要以上に未来

期待せず、今日この日を精一杯に生きるしかない。

仏道修行に好い日も悪い日もないと、雲門は説いているのである。

永平寺を開いた道元も、「 正法眼蔵 (しょうぼうげんぞう) 」において「 而今

(にこん)という表現を用い、自分自身が修行している場面でこそ、悟りが現成

(げんじょう)していると述べている。

茶禅一味 4/4

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中国の唐代の趙州( じょうしゅう )和尚は、誰が尋ねてきても「 喫茶去 」「 喫茶去 」

と言ったという。

たまりかねた弟子の僧が「 どうして何時でも何時でも喫茶去なのですか 」と質問した。

その瞬間「 喫茶去 」、と趙州和尚は弟子に言われたという話がある。

とにかく理屈ぬきで文句なしに「 茶をいただきなさい。 爽やかなお茶一服で、貴方の

心は落ち着きますぞ!! まずはそこから始まりだ 」とのことである。

多くの人は、折角そう言われても「 あっ! 忙しいので 」とか「 作法を知りませんので 」

などと逃げ口上になる。

趙州和尚は「 茶を飲めないほど忙しいのか。 そんなに忙しいということは、身を滅ぼす

ということだぞ 」と教えられている。

現代社会の人々に対する警告でもあろう。

茶禅一味 3/4

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禅語の読み方は、俗にいう娑婆(しゃば)読みと禅の読みの異なるものが多いから、

十分に禅語は注意する必要がある。

例えば「 平常心是道 」とよく墨蹟などで拝見する。

普通では「 ヘイジョウシン コレ ミチ 」であるが、禅の方では「 ビョウジョウシン

コレ ドウ 」とも読む。

「 喫茶去 (キッサコ) 」を茶をいただいたら帰れ、、と誤解した読みをする人があるが、

これは「 まあ一服お茶を飲みなさい 」というおすすめの意である。

因みに「 且座喫茶 (シャザキッサ) 」の且座は「 まあ、坐って 」ということになる。

茶禅一味 2/4

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何としても床の間に掛ける軸、即ち掛物に苦心する。

亭主の一会に対する心構えを現わす第一義のものであるから、多くは禅語を取り上げる。

客も心して席入りと同時に、まず掛物またはそれに類するものの掛っている前に進む。

( 部屋が洋風であったとしても )座礼の場合をいうならば、まず手をついて床の掛物に

一礼し、その後に拝見するのが、客の作法の始まりである。

難しい墨蹟や古筆などであれば、最近の日本人の国語力では読めないし、意味も取れ

ないものが多くある。

これには心配しなくとも、判っても判らなくても一応拝見を篤(とく)としておく。

そして、席が定まって亭主との会話の中で、掛物を中心に道具の取合わせの質問が

あるから、遠慮せずに尋ねて納得することが大切である。

知ったかぶりや生半可な心得は方々(かたがた)しないようにする。

こうして、高僧・文人・家元歴代宗匠方の書かれた一行物(いちぎょうもの)(縦のもの)

、横物(よこもの)(横紙など)の意味を知り、亭主の心をくみ取るためにも、日々客として

の稽古も疎かにしてはならない。

茶禅一味 1/4

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大法輪 2010年1月号 裏千家前家元・千 玄室 ( せん げんしつ )様の

「 茶禅一味 」から引用させていただきました。

茶人にとって一会の催しは、大切な修行の一つにある。

一会即ち茶事・茶会をいう。

今では人と巡り合ったり、一つのチャンスを得ることなどに「 一期一会(いちごいちえ) 」

の語句が用いられているが、本来の意味を判っての使われ方ではない。

茶事・茶会に招く亭主と招かれる客とが出合い、短い時間の中で、人間同士の心と心を

真剣にふれさせることができてこそ、一期一会なのである。

茶事・茶会の席では、物言わぬ茶道具が主と客を結びつけるポイントの役割を持つ。

千利休の教示した「南方録」の中に次の言葉がある。

  「 掛物ほど第一の道具ハなし、客・亭主共に茶の湯三昧の一心得道の物也(なり)、

   墨蹟を第一とす、其(その)文句の心をうやまひ、筆者・道人・祖師の徳を賞翫

   (しょうがん)する也、俗筆の物ハかくることなき也、 (中略) 仏語・祖語と筆者の

   徳と、かね用(もちひ)るを第一とし、重宝の一軸ない。 」

茶室や稽古場或いは自分の住まいに床の間がある。

その床の間に掛ける軸についての教えだが、人間に例えれば顔のあたるのが床の間である。

人を招くにしても床の間を中心にして、道具の取り合わせをする。

さまざまな美術工芸品の中から茶道に適する、いわゆる茶美をとりあげるのである。

名画、だましのテクニック

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眼前の風景を描く絵画は、3次元世界を2次元で見せる「 だまし 」の芸術である。

「 モナ・リザ 」の最大の魅力は謎の微笑とも言われる。

微笑(ほほえ)みの先にある視線の行方も、謎の一つだろう。

「 モナ・リザ 」は、どこから見ても視線があう。

逆にいえば、絵を自の前にしてあちこち逃げ回っても、視線から逃げることはできない。

これは絵画や写真に特有の現象である。

美術館で彫像の視線の行方を観察するとわかるはず。

視線の集中する目の前の1点に立たないと、見られている感じはしない。

ほんの少しずれると、視線は外れる。

彫像の視線に、どこまでもつきまとわれる感じはしない。

そのからくりは人がものを見る仕組みにある。

視線のつきまといは2次元世界に限られるのだ。

絵画に描かれた人間の身体はもともと3次元で、視線を向ける顔も目玉も3次元の

世界にある。

それを強引に2次元に映しこんだのが絵画である。

次元の歪(ひずみ)みによって視線の位置が1点に定まらなくなったのである。

絵画の視線の行く先は曖昧(あいまい)だ。

画家たちは故意に曖昧さを提示し、私たちを惑わせる。

それが名画の魅力といえよう。

出典 : 日本経済新聞 2010年2月15日号 

      中央大学教授 山口真美さんの 「 だましの名画 」から。

元にもどすという常識

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使ったものを元にもどすというのは常識だと思うがいかがでしょうか?

1. 出して使用した椅子は、使い終わったら元の机の下にもどします。

2. 開けたドアは、部屋に入ったら、または部屋から出たら、閉めます。

3. 使用した会議室は、きれいな元の状態にもどします。

  後で使う人がすぐ使えるように。

4. 使用したトイレは、水で流してキレイにしておきます。

5. 点けた電灯は、使い終わったらけします。

6. 使ったよごした部屋は、キレイに掃除して、元にもどします。

7. 食べ物を食べた後は、口をすすぎ歯を磨き清潔にします。

8. 借りたものは、返します。

モンスターペアレント 2/2

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モンスターペアレントとはこの父親のことを言う。

どんなに高いカネを払っていても、レストランはいろんな客が集う公共の場所だ。

守らなければいけないルールやマナーは当然ある。

そんなことも子供に教えられない恥ずかしい親がごまんといる。

--- 中  略 ----

自己中心的で理不尽な要求を振りかざす保護者、「 モンスターペアレント 」の暴れぶり

は目に余る。

子供が教師に注意されたといって職員室に乗り込み、教師を吊るし上げる。

給食費を滞納しても「 給食を作ってくれと頼んだ覚えはない 」と逆ギレする、学級写真

の中央に子供が写っていないとゴネる ---。

報告されている例は数えきれない。

今子供たちを育てているのは、30代を迎えたいわゆる団塊ジュニアの世代だ。

彼らが子供たちをまともに躾けることができず、それを恥じることなく堂々と開き直るモンス

ターペアレントとなってしまったのは、団塊の世代に責任がある。

団塊の世代は1947~49年の第一次ベビーブームに生まれた世代である。

戦争を知らない戦後世代だ。

それでも、戦中派の世代に育てられたこの世代は、子供のころには家庭でそれなりの

躾を授けられてきたはずである。

「 人が嫌がることをしない 」

「 目上の人を敬う 」

「 困った人がいれば助ける 」

・・・・。

そうやって地域の共同体は助け合いながら戦後すぐの焼け跡の貧しい時代を凌いで

生き残ってきた。

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落合信彦さんの「 恥の殿堂 」、お薦めの本です。

私は団塊世代より少し上ですが、落合信彦さんのおっしゃるとおりだと思います。

私も責任を感じています。

自分に何ができるか考え直して見ます。

モンスターペアレント 1/2

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落合信彦さんの著書 「 恥の殿堂 」 ( 小学館101新書 )に次のような文章がある。

最近、レストランで食事をしていて一番気になるのが、子供たちの騒ぎ声だ。

以前、高級ホテルのチャイニーズレストランに行った時もそうだった。

ある男性客が若い女性と2人で食事をしていた。

おそらくデートなのだろう。

その席の近くに3人の子供を連れた家族客が座ったいた。

その子供たちがとにかくうるさい。

落ち着きがなくじっと座っていられない。

気がつくと席の周りを走り回っていた。

私は少し席が離れていたので我慢できたが、席が近かった男女2人の客は我慢

ならない様子だった。

たまりかねた男性がマネージャーを呼んだ。

「 あの子供たちを黙らせてくれ。 何のために高いカネを払っていると思ってるんだ! 」

恐縮したマネージャーは、すぐさま家族客に注意しにいった。

家族客の父親が言った。

「 少しくらい大目に見たっていいだろう。 こっちだって高いカネを払ってるんだ。 」

モンスターペアレントとはこの父親のことを言う。

「 ほうほう 」言わないでもらいたい

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サンデー毎日 2010.02.14 の 今週のブーイング 松崎菊也さん の

「 新幹線のコーヒー 」の中に次のような文章があった。

新幹線の売り子さんを教育している方には是非改善していただきたい。

筆者も同じような印象を持っています。

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さて、販売嬢がわたしに言うのである。

「 コーヒーのほう、ホットのほうとアイスのほうをご用意できますが? 」

「 ホットコーヒーを 」

「 ホットコーヒーのほうでございますね。 かしこまりました。

  お砂糖ミルクのほうはお使いになりますか? 」

ねえ、販売員さんその、「 ほう 」って何だ?

「 コーヒーのほう、ホットのほう、アイスのほう、お砂糖ミルクのほう 」

ってそんなに「 ほうほう 」言わないでもらいたい。

「 カップのほうがお熱くなっておりますので、やけどのほうお気をつけください 」

って何だ?

やけどのほうに気をつけるほどスチロールのカップのほうは熱くないだろう。

「 ほう 」とは方角を表すことばであろう?

なにをあんた物好きに「 ほうほうほうほう 」。

販売マニュアルにも、そう書いてあるのだろうか?

うっとうしい日本語だ。

簡潔で分かりやすい日本語マニュアルに変えろよ。

時代は簡潔、便利な「 ほう 」へ「 ほう 」へと進化しているのだぞ。

せっかく材質がスチロールに変わり、蓋まで付いた新幹線ホットコーヒー。

なお感じる不愉快。

禅 語 : 和敬静寂 ( わけい せいじゃく )

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 侘茶 ( わびちゃ )の精神を示したもの。

「 四規 」などとも呼ばれ、「 利休七則 」とともに茶の湯の心構えの基本される。

大徳寺系の禅の影響を受けつつ形成されたものとされる。

「 和 」とは、茶室で皆が一つとなって和(なご)むこと。

「 敬 」は、上下の隔てなく互いを敬(うやま)い合うこと。

「 清 」は、和と敬のところから、外面だけでなく内面的にも清らかさが生まれること。

「 寂 」は、その清らかさが、茶室という限られた空間を超えて形成されることで、

仏教の悟りにも喩えられる概念である。

侘茶の祖とされる村田珠光 ( じゅこう ) ( 1423~1502 )の創唱とも、大成者の

千利休 ( せんのりきゅう ) ( 1522~91 )の語とも伝えられるが、後世の仮託

とされる。

近年では、大徳寺二七三世の大心義統 ( だいしん ぎとう )の作である可能性が

指摘されている。

禅 語 : 行雲流水 ( こううん りゅうすい )

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「 行く雲、流れる水(のごとし) 」と読む。

この語句は「 墜葉飛花 ( ついよう ひけ ) 」の語句と一対で使われている。

語録によると、煩悩は避けることもでき、消すこともできるが、行雲流水・墜葉飛花は

避けることも消すこともできないといっている。

これは自然現象は人為的なものでなく、避けられないことを教えている。

行く雲、流れる水、落ちる木の葉、散る花は自然の営みで、無情な現象であることを

表わす代表的な禅語である。

これをもって禅宗では仏教修行者の生きざまと表わした。

一定の住所にとどまらず、家や財産にも、世間の生業にも、金銀財宝にも、名誉や

地位にもまったく執着せず、諸方を遊行する修行者のの姿は、雲や水のようである

ところから、修行者を雲水と呼んだ。

この呼び名はこだわりがない修行者の心境も併せて意味している。

禅語の雲遊萍寄 ( うんゆう ひょうき ) ( 雲が遊び、浮き草が漂う様 )

も同じ意味である。

禅 語 : 大道無門 ( だいどう むもん )

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人はそれぞれに「 道 」を求めている。

ピアノでも、絵画でも、スポーツでも、自分の好きな道に向かって求めている。

しかし、基本は自分の才能に気付くことである。

まして、迷いや苦しみから解放された「 空 」で「 無心 」な心の世界に気付く

発見は難しい。

その気付きの契機には条件がない。

唐突に気が付くのである。

それは外からの教唆とも言えないし、自分の力だけとも言えない。

「 無門関 」を編集した慧開(えかい)和尚はいう。

「 門より入(い)るは家珍(かちん、家宝)にあらず 」。

外から教えられただけなら内心の宝ではない。

内心の宝に気付く契機に決まった門などない。

道はどこにでもあるとう。

「 無心になる 」ことは求めていないと、気がつかない。

したがって何時でもどこでも求めていたら、発見があるということである。

それはあこがれである。

強い敵を討ち、高い的を撃ちたいというような求めの心を持てと道元さんはいう。

禅 語 : 上善若水 ( じょうぜん みずのごとし )

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 ( 上善如水とも )

上善は水の若(ごと)し。

人間は生活環境や人生の経験によって思考法が形成される。

とくに強い抑圧を経験すると心の癖ができて、事が起こるとその癖が意思を決定して

しまう。

それで生き方が窮屈になり、周りの人とも摩擦を起こすことがしばしばあり、離婚など

にも発展する。

理想的な生き方は水のようなあり方だと「 老子 」はいう。

水について貝原益軒先生の、「 水五訓 」は見事である。

「 一、 自ら活動して他を動かしむるは水なり。

  一、 常に己の進路を求めて止まざるは水なり。

  一、 障害に逢いて激しく勢力を倍加するは水なり。

  一、 自ら潔(きよ)うして他の汚濁(おだく)を洗い清濁(せいだく)併(あわせ)

     せ容(い)るるは水なり。

  一、 洋々として大洋を充(み)たし発しては霧となり、雨雪と変じ霞と化す、

     凝じては玲瓏(れいろう)たる鏡(水のこと)となり而もその性を失わざるは

     水なり。

「 老子 」でいう水とは「 川 」でとくに大河のことだという。

「 川の流れのように 」無限に変化しつつとらえどころがなく雄大な生き方という

事である。

禅 語 : 以心伝心 ( いしんでんしん )

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広辞苑には、「 禅家で、言語では表わされない真理を師から弟子の心に伝えること。 」

とある。

大法輪 2010年1月号 禅語百選 にはつぎのとおりある。

「 心をもって心に伝える 」と読む。

この語句は「 不立文字 ( ふりゅうもじ ) 」と一対である。

仏法の奥義は経典や文字では伝えることは不可能で、心から心に伝えられるという意味

である。

多くの場合、この意味をそのまま受けて、安易にこの語句を使っているが、仏教の心の

意味はこうである。

心は身体のどこに、どんな形で、どんな色をしている代物かわからない。

心は不安定で、制しがたく、捉(つら)えがたく、形がなく、見がたく、好きなようにさまよい、

どこか胸の奥に潜(ひそ)んでいるらしいと釈尊は「 法句経( ほっくきょう ) 」で説かれた。

こんな心が向かい合って何かを伝えることができるだろうか。

仏教では心は身体の感覚作用を総称したものをいい、からだが感覚する働き全体、人の

行動そのものである。

したがって、正しい習慣を身に付けて、煩悩( ぼんのう )が起こらないようにこだわりを

離れた生き方、その行いを以心伝心の心で表したのである。

禅 語 : 行住坐臥 ( ぎょうじゅうざが )

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広辞苑には、

「 行くことと、止まることと、坐ることと、臥すこと。

  戒律にかなった日常の起居動作を言う。

  転じて、日常、ふだん。 」

とあります。

大法輪 2010年1月号 特集:禅語百選 には次のように有ります。

「 「 行く、住(とど)まる、坐る、 臥す 」と読む。

  この語句は禅語というより仏教用語である。

  厳密に使い分けているのではないが、この語句には二つの意味が含まれている。

  一つは、仏教徒は歩いている時も、立ち止っている時も、坐っている時も、そして

  横になっている時も、仏法にしたがって己の心身を律していなければならないという

  意味で、行住坐臥を使っている場合である。

  これを仏典では四威儀(しいいぎ)(四つの振る舞い)という。

  もう一つは、終始、つねづねという意味でも使っている。

  つまり、四つの振る舞いは人の行動のすべてであり、したがって「 どんな動きの

  場合も 」という意味で使われた。

  仏典では、釈尊は行住坐臥に禅を行なわれたという言い方をする。

  坐禅といえば、坐っている時だけと考えられるが、古くから行住坐臥に禅を行なうと

  教えているのは、単に四つの振る舞いに限らず、つねづね、どんな動きの時もと

  いう意味が強調されている。 」

とあります。

禅 語 : 一期一会 ( いちごいちえ )

鳥1001.jpg

広辞苑には、一期一会の意味を次のように書いてある。

「 生涯にただ一度まみえること。 一生に一度限りであること。 」

また大法輪 平成21年1号 禅語百選 には次のようにある。

「 ” 一期の一会 ”と読む。 

 一期一会の縁などと日常会話でよく使われ、この語句を知らない人はいないほど

 有名であるが、これが仏教用語と知る人は少ない。

 一期とは仏典によると命尽きるまで、つまり終身という意味である。

 一生涯のことである。

 一会とは中国の古い文献では一度の出会い、巡り合いという意味だが、これを引いて

 仏典では説法や法要が行なわれる時の集い(つどい)という意味で使った。

 つまり、宗教的な集まりを一会という。

 とくに説法を聞く機会は日頃多忙な人にはなかなかない。

 仏典に ” 仏法に逢(あ)うことは稀である ”とあるが、その仏法を聞くような集まりに

 参加することは、おおげさにいえば一生に一度しかないほどの貴重な時間を過ごす

 ことである。

 感謝の言葉のありがとうは 「 有りがたし 」、つまり稀なことという意味で、説法を

 聞く集まりにいること、これこそ有りがたしで、これを一期一会という。

人のふり見て我がふり直せ

獅子001.jpg

私は子供時代母から「 人のふり見て我がふり直せ 」と耳にタコができるほど

言われて育った。

今考えてみると大変含蓄のある言葉だ。

田舎のおばさんは偉大な哲学者だったのか?

人間、人のことはよく気がつく、特に欠点などみて批判する。

人を批判するだけではなく、自分も同じことをしているのではないか?

同じことをしているのであれば、直さなければならない、と考え、あやまちをしない

よう改める。

そういう心がけで自分を磨け、というのが母の教えだった。

自分のことは自分が一番知っていると誰しも思うが、自分のことを一番知ら

ないのは自分かもしれない。

他人は自分の鏡に映った姿だと思えば腹も立たなくなる。

目 線

観音様1.jpg

他人と話す時の目線は大事です。

目線をあわせっぱなしでは、窮屈ですし、ほとんど目線をあわさないのは、熱意は

伝わらないし、自信がないように見えます。

目線をあわせるのは、時間にして2~3割り位でしょう。

他は額か鼻か、顔をみていればいい。

でも、話を強調する時、相手に迫る時は相手と目線をあわせる必要があります。

合わす目線の位置は、相手と同じ高さが適当です。

上から目線では、相手を見下ろすようにとられ、に尊大に見えたり、傲慢に見えたり、

する可能性があり、好ましくありません。

また、下から目線では、媚びているようにいるようにとられかねません。

後は、相手の職位、社会的地位、相手の年齢、自分との年齢差、お客様との関係、

状況などに応じて、臨機応変に対応することが求められます。

これは目線とは関係ありませんが、いくら目線が適当でも、ふんぞり返った姿勢、

大股を広げた足、クロスレッグなどは相手の印象を悪くします。

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