仏教伝来 5/7

「 日本書紀 」推古天皇二年(594年)の条に「 皇太子及び大臣に詔して三宝を興隆
(おこ)さしむ 」とあって、聖徳太子と蘇我馬子に対し、推古天皇は仏法興隆を命じて
おられる。
推古天皇の時代は、このように一方で仏教が興隆する時代であるが、「 日本書紀 」
推古天皇十五年(607年)二月の条によると、同時に注目すべき宣言がなされ、行動も
起こされている。
同書に記して「 朕聞くむかし我が皇祖(みおやの)天皇等の世を宰(おさ)めたまえること、
天に蹄(せぐくま)り地に蹐(ぬきあし)して、敦(あつ)く神祇を禮(うやま)ひ、周(あまね)く
山川を祠(まつ)り、幽(はるか)に乾坤(あめつち)に通はす。
是を以ちて、陰陽(ふゆなつ)開け和(あまな)ひ、造化(なしつくること)共に調(ととの)へり。
今朕が世に当りて、神祇を祭祀(まつ)ること、豈怠り有らむや。
故(か)れ、群臣共に為に心を竭(つく)して宜しく神祇を拜ひまつるべし。 」とある。
ここに見える認識は重要である。
その二月十五日の「 日本書紀 」に「 皇太子及び大臣百寮を率いて神祇を祭拝(まつり
うやま)ふ 」とあるものである。
二月十五日というのは祈年祭の日であって、祈年祭とは、天皇ならびに大臣以下が
今年は豊年満作でありますようにと祈る日であった。
推古天皇は仏教への偏りを戒められたのである。
そして、聖徳太子も蘇我氏も反省して祈年祭に参列したのであって、その結果、推古
天皇の時代は、一方で仏教興隆の詔が出されたが、他方で神祇祭祀の詔が出され、
バランスのよい時代であった。
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