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2010年1月31日

「 おせち 」の意味は?

 

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「 おせち 」の語源は、「 御節供 (おせっく) 」と言われています。

端午の節句( 5月5日 )などの五節句に神前に供える料理の総称でした。

やがて、節句の一番目にあたる正月料理を「おせち」と呼ぶようになりました。

五穀豊穣(ほうじょう)の祈りを込めて年神様に供え、家族の健康を願って

いただいたのが起源だそうです。

重箱に詰めるのは、「 めでたさ 」を重ねるという意味です。

料理は縁起の良い名前が着いたものばかりです。

昆布巻きは「 よろこぶ 」という語呂合わせ。

黒豆は「 まめ(健康)に暮らす 」、エビは「 腰が曲がるまで丈夫に 」、

数の子は卵の数が多いので子孫繁栄、田作りは「 豊作 」の意味。

もともと、その土地で収穫したものを使っていました。

例えば、正月魚は東のサケ、西のブリと言われます。

雑煮は特に地方色が表れ、餅の形や具、味付けもさまざまです。

正月料理を見れば、郷土の産物や保存法がわかるというほどです。

出典 : 毎日新聞 2010年1月1日号 「 なるほドリ 」から。

筆者の子供のころは、岡山では、雑煮に「 塩ブリ 」を入れていました。

2010年1月30日

他人の話の聞き方

蝶と花1001.jpg

他人の話は、無視したり、いばったり、いいかげんな態度で聞いてはなりません。

このような態度では、話し手は気持よく話せません。

話す意欲を失います。

話し手が話しやすいよう、おだやか、明るい表情、好意的な態度で、積極的に耳を

傾けることが、聞き手のあるべき態度です。

コミュニケーションは、話し手、聴き手、の双方向で成り立つもの。

一方通行ではコミュニケーションは成り立ちません。

うまくコミュニケーションできないと、正常な人間関係は維持できません。

最終的には、職場の雰囲気、上司・同僚・後輩との関係、仕事の成果に結びつきます。

2010年1月29日

子規と柿と東大寺 5/5

夕暮れの二人連れ.jpg

明さんは何度か司馬さんに会ったことがある。

機械メーカーの会社員をやめ、造園業に転職することを話したこともあったそうだ。

「 司馬さんは、『 植物を相手にするのはこれから有望やし、すばらしい仕事や。 

 土にまみれなさい 』といってくれましたね。 」

と、明さんは懐かしそうにいう。

「 子規にとっては結局、奈良が最後の旅になってしまいます。

 でも、きれいな女性との出会いもあり、印象深い、いい旅だったと思います。

 その奈良に私がいま住んでいるのは偶然ですが、縁を感じますね 」

子規にはいくつもの柿の句があり、明治31年にも詠んでいる。

「 秋募るゝ奈良の旅籠(はたご)や柿の味 」

柿はほんのり甘い ” 恋の味 ”だったのだろう。

子規は常に明るさを失わない人だった。

脊椎カリエスの激痛に耐え、俳句・短歌の革新に最後の情熱を傾ける。

奈良の旅の記憶はそんな痛みを和らげてくれただろうか。

2010年1月28日

子規と柿と東大寺 4/5

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子規には庭にも一家言あった。

随筆集「筆まかせ」には、理想の「 書斎と庭園 」を図で描いている。

それによると庭の一角には桔梗(ききょう)、萩(はぎ)、女郎花(おみなえし)、薄(すすき)、

撫子(なでしこ)など、すべて秋草を植えるという。

「 野生の有様にて乱れたるを最上とす 」

庭の好みも、自然そのままを重んじた子規らしい。

「 子規の庭 」もそのイメージを大切にしている。

明さんは正岡忠三郎さんの次男。

忠三郎さんは子規の死後に養子となって、正岡家を継いだ。

忠三郎さんの実の父親は子規の保護者だった加藤拓川(たくせん)で、養母は子規の

妹の律になる。

司馬さんは忠三郎さんと深い親交があり、1976年に忠三郎さんが75歳で亡くなった

ときには葬儀委員長もつとめた。

その後、司馬さんは忠三郎さんを主人公にした物語として「 ひとびとの跫音(あしおと)

(中公文庫)を書いた。

子規、陸羯南( くが かつなん )、加藤拓川といった人々に、忠三郎さん、友人で

詩人のぬやま・ひろし( 西沢隆二(たかじ) )さんらが登場し、もちろん律も重要な

登場人物となっている。

2010年1月27日

子規と柿と東大寺 3/5

渋川海水浴場から見た四国の山並み.jpg

「 帰りに奈良へ寄って其処から手紙をよこして、恩借の金子(きんす)は当地に於いて

正に遣い果たし候とか何とか書いてゐた。 恐らく一晩で遣ってしまったものであろう 」

( 談話 「正岡子規」 )

旅館の跡地には、いまは日本料理店「 天平倶楽部 」があり、その庭園の一部は

「 子規の庭 」と名づけられている。

誰でも自由に入れるが、入り口には、「 鹿侵入につき出入口は必ず扉を閉め、カギを

掛けて 」といった注意書きがある。

やはり今も昔も鹿天国の奈良らしい。

年末に行くと冬枯れで、ススキが風に揺れていた。

しかし、子規が見たという東大寺の瓦屋根はたしかに見えた。

柿を食べて聞いた鐘は、法隆寺ではなく東大寺のようだ。

「 東大寺よりも法隆寺のほうが言葉の響きがたおやかなので子規は変えたのでは

ないでしょうか 」

というのは正岡 明さん(64)。

正岡 明さんは造園業で樹木医。

子規の顕彰と研究が目的の「 正岡子規研究所 」も主宰している。

「 子規の庭 」の作庭も担当した。

「 子規が泊まった對山樓の跡地に柿の古木があり、子規に縁のある私が奈良に

住んでいて、樹木医もしているということで頼まれたんです 」

2010年1月26日

子規と柿と東大寺 2/5

経蔵1002.jpg

美しい女中さんの出身を聞くと、奈良で昔から有名な梅林がある月ケ瀬だという

答えが返ってきた。

「 梅の精霊でもあるまいか 」と、子規は書く。

「 余はうつとりとしてゐるとボーンという釣鐘の音が一つ聞こえた 」

どこの鐘かときくと、東大寺の大釣鐘だといい、障子を開けて見せてくれた。

月が荒れた木立の上を淋しそうに照らしていた。

「 更に向ふを指して、大仏のお堂の後ろのあそこの処へ来て夜は鹿が鳴きますから

 よく聞こえます、ということであった 」

と、随筆は結ばれている。

子規が泊まった旅館は、奈良の老舗旅館「 對山樓 (たいざんろう) 」。

フェノロサや岡倉天心といった明治の文化人が泊まり、宿帳には明治28年10月

24日に子規の名前が残っている。

当時の高級な旅館で今はない。

子規には贅沢な感じだが、おそらく漱石のおかげだろう。

松山を去るとき、子規は漱石から10円借りている。

松山中学の月給の8分の1にあたり、漱石は語っている。

2010年1月25日

子規と柿と東大寺 1/5

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子規の最後の旅、奈良の旅でも、魅力的な女性が登場する。

この旅で詠んだ句といえば、「 柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺 」に尽きるが、句が生まれた

事情について、「 くだもの 」( 明治34年 )という随筆に書いている。

「 柿などというものは従来詩人にも歌よみにも見離されてをるもので、殊に奈良に柿を

 配合するといふ様な事は思ひもよらなかった事である。

 余は此新しい配合を見つけ出して非常に嬉しかった。 」

いきさつは、さすがに食いしん坊の子規らしい。

まず、奈良で泊まった旅館で、夕飯後に柿が食べたいと頼んでいる。

直径45センチほどのドンブリ鉢に、山盛りの柿が来た。

子規はその量だけでなく、女中さんの美しさにも目を奪われたようだ。

「 柿をむいてゐる女のやゝうつむいてゐる顔にほれぼれと見とれてゐた。

 此女は年は十六七位で、色は雪の如く白くて、目鼻立ちまで申分のない様に

 出来てをる。 」

出典 : 週刊朝日 2010年1月29日号 「子規と秋山兄弟の選択」から。

2010年1月24日

仏教東漸の理念を貫いた鑑真和上の足跡 3/3

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鑑真和上の故郷・揚州は当時、中国最大級の貿易都市で、シルクロードを伝わって

来たありとあらゆる文物や技術が集まっていたと言います。

だから、鑑真和上も非常に知識が豊富だったし、一緒に連れてきた僧や仏師も国際色

が豊だった。

それは唐招提寺が所蔵する仏像にもよく表れている。

例えば新宝蔵(しんほうぞう)に安置されている如来形立像(にょらいぎょうりゅうぞう)

は、腰の曲線のなまめかしさ、波打つような衣のデレープなど、ガンダーラ仏に近い

趣があります。

また「 木彫仏が日本で初めて作られたのも唐招提寺だった 」という石田執事のお話

も興味深くうかがった。

中国では石工が盛んで、木彫に使うのは白檀くらいだったけれど、日本では彫刻

向きの石も白檀も手に入りにくい。

代わりに檜(ひのき)、榧(かや)、桐(きり)といったさまざまな木を試し彫りするなかで、

木彫技術が進歩した。

2010年1月23日

仏教東漸の理念を貫いた鑑真和上の足跡 2/3

=成田経蔵 .jpg

そこで大師自ら「 法のためである。 なんぞ身命をおしむことがあらんや。 」と

死を覚悟の渡海を決め、その情熱に押されて弟子たちもつき従うこととなった。

1度目の航海は密告により失敗。

2度目は難破。 さらに南方に漂流し賊に襲われたり、失明するほどの難に遭いながらも

「 釈尊の正法を東の日本に伝える 」という信念を曲げず、ついに6度目の渡海で日本の

土を踏む。

そして平城京の東大寺大仏殿前で聖武上皇、光明皇太后、孝謙天皇など多くの人に

授戒をし、国家的事業として大きな役割を果たした。

その後、唐招提寺を開いたのは” 主流派から追いやられたから ”という説もあるが、

今回の修理で金堂が想像されていた以上に高い格式で、格別な配慮があったことが

わかっている。

仏教東漸の理念を貫いた鑑真和上の足跡 1/3

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平城京に遷都してから約20年後の天平5年(733年)、遣唐使に任ぜられた普照

(ふしょう)、栄叡(ようえい)らの留学僧は、「 仏教の戒律を授けてくれる高僧を唐

から招聘するように 」という勅命を受けた。

その背景には、たび重なる天災や疫病の流行で人心が乱れる中、ときの聖武天皇

(しょうむてんのう)が仏教をたのみにしたこと、また当時の日本の仏教界には授戒

制度がなく、課税逃れのための”自称・僧侶”が増えて、風紀も乱れていたという事情

がある。

しかし、命懸けの危険な航海をともにし、日本に正しい戒律を伝えてくれる高僧が

どこにいるのか?

井上 靖が「 天平の甍 」で描いた鑑真和上の物語はここから始まる。

留学僧たちは、適当な僧を紹介してもらえまいかと、当時55歳だった律宗(りつしゅう)

の大師・鑑真に会いに行く。

が、呼びかけても引き受けてはいない。

出典 : J-B Style 2010.02

2010年1月22日

サケが生まれた川に戻れるのは? 2/2

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サケはなぜ、これだけの距離を迷わず生まれた川に向かえるのか。

有力な説は日の出と日の入りの方角と地磁気を利用して自分の位置を割り出す

「 地図とコンパス説 」だ。

サケの頭部には鉄を含む成分があり、磁気センサー役を果たしていると考えられている。

ただ、つじつまの合わない実験結果もある。

上田教授らは洞爺湖のヒメマスに磁石をとりつけ、生まれた場所に戻れるかどうかを

確かめた。

すると、正確に戻り、磁器感覚が乱されても問題ない結果が出た。

目を見えなくした実験では、戻れるサケと迷走するサケがいた。

方位を決めるのに視覚も使っているが、それが決定的な情報とまでは結論を

下せなかった。

サケは高精度な生物時計を備え、生まれた川まで戻る時間を記憶している

という説もある。

海流を体感して方位を把握しているという仮説も唱えられていて、すっきりした

答は出ていない。

サケが生まれた川を見分ける際には、においが大きな役割を果たすことも

わかってきた。

サケの鼻は人間の100万倍以上の感覚をもち、極微量な成分も感知できる。

上田教授らはアミノ酸がカギを握っているとみて、どのアミノ酸に反応するのか

を調べている。

「 回遊をうまく制御できれば、大量のサケを戻して漁獲する方法も実現できる

のではないか 」(上田教授)と期待を寄せる。

2010年1月20日

サケが生まれた川に戻れるのは? 1/2

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サケは餌を求めて数年間、外洋を巡り、高い精度で故郷にたどり着く。

どうやって方位を定め、生まれた川を特定できるのか。

サケの”ナビゲーション・システム”は、謎に包まれている。

日本には遺伝的系統的に古い順に、サクラマス、ベニザケ(ヒメマス)、シロザケ、

カラフトマスの4種類のサケが生息する。

原始的なサクラマスはほぼ正確に同じ川に戻り、進化したカラフトマスは違う川でも

遡上(そじょう)する。

北海道大学の上田宏教授は「 分布域を広げ個体数を増やしてサケが進化した

証拠だ 」と解説する。

放流の歴史が長いシロザケの回遊は、比較的調べられている。

北太平洋を4年ほど巡り、成熟すると泳ぎを活発にするホルモンが分泌され生まれた

川に向かう。

2000年には速度や水深などの計測器を付けたシロザケを捕獲する実験に成功、

67日間2760キロメートルを泳いだ記録が取れた。

出典 : 日本経済新聞 2009年11月15日号 「 ナゾかがく 」

2010年1月19日

リチウム資源、なぜ南米に?

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自動車の蓄電池などに使用される希少金属:リチウムが注目されている。

電気自動車の普及ととともに需要の急増が予想されるからだ。

リチウム資源は、チリやボリビアなど南米に集中している。

銀白色で軟らかなリチウムは金属としては変わり種だ。

鉄や銅など多くの金属は鉱石から採るが、リチウムは塩湖のかん水(塩分を多く

含んだ水)を天日で干して集める。

世界全体の推定資源量2000万トンのうち、7割がかん水、残り3割が鉱石に

含まれる。

資源の半分以上が集まるのが、南米アンデス山系に属し、アルゼンチン、ボリビア、

チリにまたがり、スペイン語で高原を意味する「アルティプラノ」と呼ばれる地域。

標高3800メートルの広大な盆地に100以上の塩湖があり、チリのアタカマ塩湖

がよく知られている。

アンデス山系に眠る資源も、もともとは海水に溶けたリチウムだったとの説が有力。

数千万年前地球の岩盤が隆起、海がそのまま持ち上げられ、その名残が塩湖と

みられる。

出典 : 日本経済新聞 2010年1月17日号 「ナゾかがく」。

2010年1月18日

語いを増やし表現力を高めるには

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1.辞書を引く

  辞書としては、次のようなものがると便利です。

  ①.国語辞典  ②.広辞苑  ③.漢和辞典  ④.類語辞典  ⑤.反対語辞典

2.書き写す

  自分が好きな本や文章を書き写す ( パソコンではなく )

3.音読

  自分の好きな文章や短歌、俳句などを声をだして読む

4.自分の文章を見直す

  同じ言葉を何回も使用していないか?

  同じパターンの文章担っていないか?  (  ・・・が、・・・ )

  を見直して修正する

5.要件の抜けがないか見直す

  6W3Hに抜けがないか確認する

  ①.What  ②.Who  ③.Whom  ④.When  ⑤.Where  ⑥.Why

  ①.How to  ②.How many  ③.How much

6.多読

  多くの本を読む

2010年1月17日

体温と病気 : 5/5 体を温める食事

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(1).体を温める食物をしっかり摂る

(2).食物の質

   漢方医学ではすべての事象を「陽」と「陰」に分けて考える

(3).食物の量 - 現代人は一食抜くのがよい

(4).基本の食べ物と食べ方

(5).ニンジン・リンゴジュース、ショウガ紅茶はなぜ効くのか

(6).ニンジンの効果

(7).リンゴの効果

(8).ショウガの効果

(9).黒砂糖・ハチミツの効果

(10).その他、体を温めるもの

2010年1月16日

体温と病気 : 4/5 体温を温める健康法

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(1).入浴

(2).「薬湯」で入浴効果をさらにアップ

(3).半身浴

(4).足浴、手浴

(5).サウナ浴

(6).”特効”湿布=ショウガ湿布

(7).衣服

(8).湯たんぽ、カイロ

(9).筋肉運動

(10).ウォーキング

(11).スクワット、もも上げ運動

(12).上半身の運動

2010年1月15日

体温と病気 : 3/5 冷えると悪化する症状・病気

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冷えると悪化する症状・病気は次のとおり。

(1).痛み

(2).胃腸炎

(3).アレルギー

(4).めまい、耳鳴り、嘔気(嘔吐)

(5).緑内障

(6).ヘルペス(帯状ほう疹)

(7).頻脈、不整脈

(8).肥満

(9).ガン

(10).血栓症(心筋梗塞、脳梗塞)

(11).高血圧

(12).糖尿病、高脂血症

(13).風邪、気管支炎をはじめ炎症疾患

(14).膠原病(自己免疫疾患)

(15).うつ、統合失調症、自殺などの精神疾患

(16).子供の自殺、いじめ、骨折、近視など

(17).瘀血

広辞苑によれば、「瘀血(おけつ)」とは、「古くなった血。また、血の道。」。

2010年1月14日

体温と病気 : 2/5 体温低下の理由

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約50年前には平均36.8度あった日本人の体温が、現在では約1度低下している。

その体温低下こそが代謝を悪くし、免疫力を低下させ、ほとんどの病気の原因や

要因になっていると言っても過言ではない。

体温を低下させた要因として、次のようなものが考えられる。

(1).運動や筋肉労働の不足

(2).塩分の控えすぎ

(3).水分の取りすぎ

(4).食べ過ぎ

(5).体を冷やす食物の取りすぎ

(6).ストレスでいっぱいの現代生活

(7).化学薬品、化学調味料、食品添加物の摂取

(8).シャワーですませる入浴習慣

(9).夏のクーラー

2010年1月13日

体温と病気 : 1/5 体温と免疫力

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最近筆者は、石原結實先生( 医学博士、イシハラクリニック院長 )が書かれた本

「 体温力 - 冷えをとれば病気は治る! - 」 ( PHP研究所 発行 ¥700 )

を読みました。

自分の健康を考えるうえで非常に有効な本だと考えます。

以下に概要を紹介しますので、詳細を知りたい方はお求めください。

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約50年前、大人の平均体温は約36.8度、子供の体温は約37.0度とされていた。

今でも医学事典には、日本人の腋窩(えきか、脇の下)の平均体温は36.89±0.34度

と書いてある。

しかし、これは約50年前の日本人の体温のことである。

現代医学の研究は臓器レベル、細胞レベル、細胞の核の中の遺伝子レベルと深く

細かく究明する方向に進んでいるため、単に体温を測ってそれを学会や医学誌に

発表するような研究をする学者がいなくなった。

たとえそういう研究がなされても、医学会や医学誌で発表や掲載されることがない

ためであろう。

私は日常の診療で必ず患者さんの体温を測ることにしているが、高い人で36.2~3度、

ほとんどの人が35.0度台と低体温である。

人類の平均体温とされる36.5度以上ある人は、むしろ例外でさえある。

体温が1度低下すると免疫力は約30%以上減衰し、逆に平熱より1度上昇すると、

免疫力は5~6倍にもなることがわかっている。

この50年間で、日本人の体温が1度近く低下したということは、日本人の免疫力が

低下し、種々の病気にかかりやすいことを意味している。

2010年1月12日

略地図と道案内で感じること

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1. ホームページや案内状の略地図

  ホームページや案内状の略地図を見てわかりにくいものが時々あります。

  こういう地図を見ると私はイライラ、ムカムカしてきます。

  見る人を無視していると思えるからです。

  わかりにくい原因は明確です。

  自分が地図のとおり歩いたことがないか、自分が地図を見る人の立場に立って

  見直していないからです。

  この地図を見て、目的地に迷わず到達できるか否か、見る人の立場で見ていない

  ということです。

2. 道案内

  道案内を読む人が、迷わないで、間違いないよう、わかりやすく、簡潔、明確、正確

  に記述する必要があります。

  どちらでもとれるような表現はいけません。

  これも読む人の立場に立って、これで間違いなくわかってもらえるか否か見なおす

  ことが大事です。

2010年1月11日

「身だしなみ」に関するアンケート結果

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昨年11月下旬日本経済新聞が「 身だしなみ 」について調査した結果が同紙に

掲載されていました。 有効回答数1030。

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人に見られているという自覚が「ある」と答えた人は77%。

男女別にみると男性の70%に対して、女性は84%だった。

具体的にどんな点か。

多かったのは、服装の手入れ不足で、男性の「ワイシャツの襟や袖口の汚れ」は

91%の人が気になると答えた。

「スーツのしわ」、「洋服のしわ」も8割が気になると答えた。

また、「靴の手入れ不足」が気になると答えた人は

7割近くで、「かばんの手入れ不足」(約6割)を上回った。

出典 日本経済新聞 2009年12月12日号

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知らないのは自分だけということにならないように注意しましょう。

身だしなみができていないと、 不潔 → 嫌い → ビジネス不調の原因 になる事も

あります。

2010年1月 9日

江戸そば粋に食いねえ

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下記は2009年11月21日の日本経済新聞の記事が出典。

江戸蕎麦(そば) ほそ川 店主の細川貴志さんのインタビュー記事から抜粋。

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主役のそばを「 つゆにどっぷり付けるのは田舎もの 」という定説がある。

細川さんも「 最初の2,3口は何も付けず食べた方がいい。 うまいそばは、つゆを

付けるのを忘れてしまうぐらい 」と賛同する。

一方、かまずにのど越しで味わうのが粋(いき)との説はどうか。

「 くちゃくちゃかむのは好きじゃないが、ちょっとはかまないと甘みや香りが出てこない。 」

薬味のネギやワサビをつゆに溶かさず、そばの上に載せる食べ方は「 最初にワサビの

味が来て ( 薬味の刺激が強すぎて )、そばの味が分からなくなってしまう 」と否定する。

仕上げはそば湯。 細川さんは「 飲むと ” ああ、そばを食べたんだあ ”と安心する 」

と効用を説く。

「 白湯みたいな店が多いが、うちは一手間かけてそば粉を水に溶き、湯に足して濃く

している 」と特製のそば湯も味わってほしいと話している。

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筆者 : この記事には、音をたててたべることについての記述はありません。

     音をたてるのはやむを得ないが、音は控えめにした方がいいのではないでしょうか。

2010年1月 8日

感じの良いお辞儀

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1.あいさつ、お辞儀の順

  通常あいさつの言葉を述べてからお辞儀します。

  お辞儀は頭を下げて、下げきったところで一瞬静止、ゆっくりと上体を起こします。

  こうすると、より丁寧な感じを相手に与えます。

  お辞儀をする前と後には、相手の目を見ます。

  できれば、相手より先に上体を元に戻さない方がよいと思います。

  NHK総合テレビの夜7時のニュースで、アナウンサーのあいさつ、お辞儀は、

  お辞儀 → あいさつの言葉の順です。

  これはテレビだからかもしれません。 

  ビジネスの現場では私は一度も見たことがありません。

3.お辞儀の種類

  (1). 会釈 ( 体の傾斜、前傾15度 )

      同僚とすれちがったり、他人の前を通る時に敬意を評する時のお辞儀。

  (2). 敬礼 ( 体の傾斜、前傾30度 )

      通常の状態で、お客様や上司にするお辞儀。

  (3). 最敬礼 ( 体の傾斜、前傾45度 )

      深い感謝や心からの謝罪など心を込めたお辞儀。

2010年1月 7日

仏教伝来 7/7

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宗教においてシンクレティズムは大きく二つに分けられるとされている。

一つは、何らかの理由によって相異なる教理や祭儀などを重層させようと試みられる

ケースである。

代表的なのが、十七世紀のドイツ・プロテスタント諸教派とカトリック教会との融合である。

もう一つは、二つ以上の異なる教義や祭儀などが意図されずに重層的な融合がなされる

ケースである。

仏教伝来当初の日本人は日本古来の神の信仰にもとづく思考方法で仏教をとらえ神の

一種とみなして受け入れたと思われるが、そうした場合に生ずる現象が第二の重層信仰

である。

日本の場合は後者のケースより発生した重層信仰であって、そのようにして心の深層に

敬神思想を残しつつ崇仏思想を加上し現在に至ったのである。

2010年1月 6日

仏教伝来 6/7

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つまり、仏教伝来以前の日本人の心の原風景を基層信仰として心の深層に刻みつつ、

その上に重層信仰(シンクレティズム)として、仏教・儒教・道教・陰陽思想を積み重ねて

行ったのである。

シンクレティズムは、古くはギリシャのプルタルコスが思想の対極者たちを互いに調和

させようとして採用したものであって、日本でも、用明天皇と推古天皇のお二人が、

「 敬神崇仏 」というシンクレティズムを採用されたことは、仏教伝来期を乗り切って

いく過程で、極めて重要な選択であったと思われる。

特にその深層に「 山 」や「 川 」の信仰、あるいは「 海 」の信仰を留めていたのが、

万葉人たちの「 心の原風景 」であった。

2010年1月 5日

仏教伝来 5/7

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「 日本書紀 」推古天皇二年(594年)の条に「 皇太子及び大臣に詔して三宝を興隆

(おこ)さしむ 」とあって、聖徳太子と蘇我馬子に対し、推古天皇は仏法興隆を命じて

おられる。

推古天皇の時代は、このように一方で仏教が興隆する時代であるが、「 日本書紀 」

推古天皇十五年(607年)二月の条によると、同時に注目すべき宣言がなされ、行動も

起こされている。

同書に記して「 朕聞くむかし我が皇祖(みおやの)天皇等の世を宰(おさ)めたまえること、

天に蹄(せぐくま)り地に蹐(ぬきあし)して、敦(あつ)く神祇を禮(うやま)ひ、周(あまね)く

山川を祠(まつ)り、幽(はるか)に乾坤(あめつち)に通はす。

是を以ちて、陰陽(ふゆなつ)開け和(あまな)ひ、造化(なしつくること)共に調(ととの)へり。

今朕が世に当りて、神祇を祭祀(まつ)ること、豈怠り有らむや。 

故(か)れ、群臣共に為に心を竭(つく)して宜しく神祇を拜ひまつるべし。 」とある。

ここに見える認識は重要である。

その二月十五日の「 日本書紀 」に「 皇太子及び大臣百寮を率いて神祇を祭拝(まつり

うやま)ふ 」とあるものである。

二月十五日というのは祈年祭の日であって、祈年祭とは、天皇ならびに大臣以下が

今年は豊年満作でありますようにと祈る日であった。

推古天皇は仏教への偏りを戒められたのである。

そして、聖徳太子も蘇我氏も反省して祈年祭に参列したのであって、その結果、推古

天皇の時代は、一方で仏教興隆の詔が出されたが、他方で神祇祭祀の詔が出され、

バランスのよい時代であった。

2010年1月 4日

仏教伝来 4/7

紅葉1011.jpg

用明天皇の時代になると相当様子が違う。

用明天皇二年(588年)の「 日本書紀 」に

「 朕、三宝に帰らむと思欲ふ。 卿等、議(はか)れ。 」

という天皇のお言葉が記されている。

「 私は仏教に帰依したいのだ。 仏教を軟着陸させるよう検討せよ。 」

というご下命であった。

「 日本書紀 」は用明天皇を評して「 天皇仏法を信じたまひ、神道を尊びたまふ。 」

と記している。

仏教を信仰されたが、天皇としての祭祀については従来どおり継承されたという

意味であって、重層信仰を開始されたのである。

用明天皇、崇峻天皇と続いた後を受けて、女帝の推古天皇が即位された。

欽明天皇の皇女であり、敏達天皇の皇后であった。

その摂政として、政治の実際にあたったのが、皇太子の聖徳太子であった。

2010年1月 3日

神社の起源

=大社1 .jpg

神社は、神道(しんとう)における神々を祀(まつ)る場であり、そこには当然、社殿や

建物などの施設があるものと思われているだろう。

しかし、神道の原初の形態に於いては、神々を祀る場が、そのような建築施設を伴う

ものだったわけではない。

日本の神は八百万(やおよろず)といわれるように、本来、天地自然に無数に存在する

不可視の神霊であり、祭祀(さいし)に応じて特定の場所に来臨すると考えられていた。

そして、そのように常駐しない神を招き寄せる媒体=依代(よりしろ)、あるいは神霊が

鎮座する所と考えられたのが、神籬(ひもろぎ)、磐境(いわさか)、あるいは磐座(いわ

くら)である。

神籬は神霊がよりつく樹木や枝の「 依代 」であり、磐境は岩石であるが、古くは

どちらも「 神祀りの場 」を広く指していたらしいいのである。

いずれにせよ、特徴のある自然の樹木、岩石などに神を招いて祀っていたのが、原初

の神道祭祀のあり方であったといわれる。

一方、神の鎮まる神聖な森や山などは、「 神奈備(かむなび)( 神が降りてくる場所

の意 ) 」とよばれた。

これはその特定の場所自体が、際立った景観などで呼び起される神聖感の強さ、

あるいはそこでなされる祭祀の定着などにより、神と不可分と理解されていった結果

と思われる。

つまり、「 神祀りの場 」の定着化・固定化である。

このように神社ははじめ「 神祀りの場 」が定着し、そこに神の饗応などにつかう臨時

の施設がつくられ、それが次第に常設化していったところに成立したといわれる。

これは、「 神社 」「 社 」が神の占有する禁則地(きんそくち)との意で「 もり ( 森・

杜 )とよばれたり、「 やしろ ( 社・屋代 ) 」が注連縄( しめなわ )などで区切ら

れた神の聖域、あるいはそこでの簡素な祭祀施設を意味していることによく対応している。

とはいえ、神道の祭祀がいつごろから恒久的な社殿・建物でおこなわれていたかを確定

することはむずかしい。

出典 : 三橋 健 著 「 神社のしくみと慣習・作法 」 ( 日本実業出版社 )

2010年1月 2日

鳥井(とりい)の由来

灯篭1001.jpg

鳥井は、神社の入り口に設置されており、神域入る門といわれている。

二本の柱の上に笠木(かさき)を置き、その下に貫(ぬき)を入れて柱を連結したもので、

構造上からは笠木の下に島木(しまぎ)のあるものとないものとに大別される。

鳥井は神社に邪悪なものが侵入しないようにとの意味で立てられているともいう。

また、参道は(さんどう)は産道(さんどう)に通ずるといい、鳥井をくぐることによって、

新しく生まれ変わることができるとの解釈もある。

鳥井の起源は明らかではないが、鳥井という言葉から、鳥が居るとの意味に解する

説もある。 これもあながち間違っているともいえない。

「 鳥 」は祭祀のときに用いられることも多く、神聖なものと考えられている。

記紀神話には「 鳥 」が多く登場する。

鳥井の形はさまざまであるが、それを大別すると神明系(しんめいけい)鳥井と

明神系(みょうじんけい)鳥井とに分類される。

 

鳥井1000.jpg

出典 : 三橋 健 著 「 神社のしくみと慣習・作法 」 ( 日本実業出版社 )

2010年1月 1日

禊(みそぎ)と神社参拝

鳥井0001.jpg

神社参拝の時手水舎(てみずや)に来たら、そこで手を洗い、口を漱(すす)ぐ。

これは神様の前に出るにあたり、身や心を清めるということである。

禊祓(みそぎはらえ)の省略形と考えればよい。

禊祓には次のような起源神話がある。

「古事記」に、亡き妻の伊耶那美命(いざなみのみこと)に会うため、死者の国・

黄泉国(よみのくに)を訪れる伊耶那岐命(いざなぎのみこと)の話がある。

伊耶那岐命は黄泉国から戻った時、「 私は醜いこともはなはだしい穢(けがら)

わしい国に行った。 だから、禊(みそぎ)をしよう。 」といい、禊祓をした。

まず、川に入る前に身に着けていたものをすべて投げ捨てた。

つぎに川に入り、水中で「 御身(おんみ)を滌(すす)ぎたまふ 」つまり水中で

心身をすすいだのである。

この「 身そそぎ 」が縮められて「 みそぎ 」になったとされる。

この禊をした伊耶那岐命は清らかな気持になり、その最後に天照大神( あま

てらすおおみかみ )、月読命( つきよみのみこと )、素戔嗚尊( すさのおの

みこと )を生んだ。

これが禊祓の起源神話である。

禊祓のしくみと私たちの入浴のしくみとは類似している。

脱衣場で身につけていた衣類をすべて脱ぐことは祓いに相当し、体に湯をかけたり

浴槽につかるのが禊にあたる。

禊祓や入浴の後は心身ともにさっぱりとする。

これが神道でいう「 潔斎( けっさい ) 」の状態である。

この潔斎は、心身ともに清浄な状態になることである。

潔斎の「 斎 」は「 ゆ 」とも読み、それは「 湯 」という言葉に通ずるものである。

出典 : 神道学博士 三橋 健 著 「 神社のしくみと慣習・作法 」 ( 日本実業出版社)

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関連用語の意味は、漢字源によるとつぎのとおり。

禊 ( みそぎ ) : 川の水でからだを清め、けがれを除く

 示 ( まつり ) : 外にあらわして見せる

 契 ( けずりとる ) : 約束のしるしをきざみつける

                かたく誓って約束する

祓 ( はらい ) : 神道で、神に祈って罪やけがれをとること

罪 ( つみ ) : 法をおかすこと。 悪事やあやまち。

穢 ( けが )れ  : 神の前に出たり、勤めにつくのをはばかる出来事

              よごれ。 不潔。 不浄。 きたないこと。

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