仏教伝来 3/7

その時の伝統重視派の意見は
「 我が国家の天下に王とましますは、恒に天地社禝百八十神を、春夏秋冬に祭り
拝むことを、事と為したまふ。
方今(いま)改めて蕃神(となりつくにのかみ)を拝まば、恐らくは国神(くにつかみ)
の怒りを致しまつらん。 」というのであった。
敬神崇仏ならいざ知らず、天皇が崇仏廃神に走られるなどというのは、とんでもない
選択でございますというのであって、これ以後、敬神崇仏か、敬神廃仏かが争われ、
蘇我氏も含めて崇仏廃神を主張したものは全く存在しなかった。
ここに伝統重視派が、仏教を「 となりつくにの神 」(日本書紀)と称していることが
注目されるのであって、仏教も「 神 」の一種として受け入れる素地があった。
「 日本霊異記 」によると、この当時「 仏像 」のことを「 隣国の客神の像 」と
呼んでいる。
これは仏教に対する当時の人々の理解を示すものとみられる。
これは伝統派だけの考えではなく、日本古来の神の信仰にもとづく思考方法で仏教
を神の一種ととらえて受け入れる余地があったものと思われる。
ただし、この時の討論の結果は、欽明天皇のご期待に反することになってしまって
いて、仏教の公的採用の中止が決定されてしまうが、しかし天皇には仏教に対する
未練がおありであった。
そこで、蘇我氏における個人的崇仏を許可されたのである。
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