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2009年10月アーカイブ

VISTA ( ビスタ )

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グローバル投資の新たな対象先として注目を集める代表的な国を指しています。

ベトナム、インドネシア、南アフリカ、トルコ、アルゼンチン 5ヶ国の頭文字から

命名されました。

豊富な労働資源、労働人口の増加、購買力のある中産階級の台頭といった条件

を備えています。

VISTAの経済規模は、2050年にかけて現在の14.4倍に拡大すると推計

されています。

1.9倍の主要国はもちろん、10.7倍のBRICsをも上回るペースでの急成長

と推計されています。

参照 : 日本経済新聞 2009年10月18日号。

BRICs ( ブリックス )

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BRICs ( ブリックス )は、ブラジル ( Brazil )、ロシア ( Russia )、インド 

( India )、中国 ( China )の英語の頭文字をつないで作った造語です。

アメリカのゴールドマン・サックス証券が、2003年10月に発行した投資家向け報告書

「 Dreaming うぃth BRICs : The Path to 2050 」で初めて使用してから

広く使用されるようになりました。

チャイメリカ

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昨年11月に開かれた初の20ヵ国・地域(G20)首脳会議の際、米ハーバード大学教授

ニーアル・ファーガソン氏が、米中の相互依存関係を説明するのに用いた造語。

米紙ワシントン・ポストに投稿した論文で、「 巨大な貯蓄国と巨大な消費国のパートナー・

シップ 」が世界経済に重大な影響を与えると解説した。

G20が模索した新金融秩序を 「 ブレトンウッズ2.0 」と呼ぶなど同氏は新語をよく

つくる。

参照 : 日本経済新聞 2009年10月3日号。

エルニーニョの正体

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今年の夏は記録的な豪雨や日照不足に見舞われた。

天候不順をもたらしたとされるのが「エルニーニョ現象」だ。

世界規模で干ばつや洪水などを引き起こすと言われる。

長年の研究で、発生の仕組みは見えてきた。

太平洋の赤道付近では、貿易風と呼ぶ風が東から西に吹く。

これが海面近くの温かい水を西へ運び、西側の水温が東側よりも高くなる。

だが、いったん貿易風が弱くなると、西側の暖かい水が東へ移動し、南米ペルー沖の

水温が高くなる。 これがエルニーニョだ。

それでは、貿易風が弱くなる引き金は何か。

有力候補が「 西風バースト 」だ。

冬から春先に西太平洋で強い西風が吹き、貿易風が打ち消される。

赤道を挟んで南北に強い熱帯低気圧が発生すると、西風バーストになりやすい。

北半球の渦は反時計回り、南半球の渦は時計回り。

これらの渦のため強い西風になる。

日本大学の山川修治教授は「 2つの強い低気圧が発生した数ヵ月後にエルニーニョ

になることが多い 」と指摘する。

出典 : 日本経済新聞 2009年9月27日 号 「ナゾ謎かがく」から。

金価格の高騰

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金の価格が急上昇している。

10月6日のニューヨーク・マーカンタイル取引所の金先物相場は、指標となる12月

渡しが一時、1トロイオンス=1045.00ドルまで上昇し、08年3月につけた取引時間

中の最高値( 1033.90ドル )を、約1年7カ月ぶりに更新した。

ドル安の進行と表裏一体的な動きで、当面はドル安基調が続くとの見方が強いこと

から、金価格は一段の上値をうかがう展開も予想される。

金価格が上昇基調にあるのは、米国の超低金利政策の長期化観測からドル安=

ドルの価値下落が進行し、安全資産である金に資金が流入しているためだ。

金価格は08年3月、商品価格の上昇を受けて一時1000ドルを突破。

金融危機で一旦下落したが、最近は超低金利のドルを売って、高金利の資源国

通貨や金など商品先物に投資する「ドル・キャリー取引」が広がっているとされる。

出典 : 毎日新聞 2009年10月8日 から。

葬儀・法事の仏教語 (10) 彼岸 ( ひがん )

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彼岸とは、梵語のパーラミター( * それを音写したのが、波羅密多(はらみた) )

を訳した「 到(とう)彼岸 」を短くしたものです。

到彼岸、すなわち、迷いの世界である「 此の岸 」から、悟りの世界である

「 彼の岸 」へ渡ること、または、渡るための修行が、本来の意味なのです。

つまり、お彼岸は、春と秋に七日ずつありますが、その七日のうち、中日をはさんだ

六日間で、悟りの岸へと渡るための六つの実践行をするのが正しい彼岸会(え)、

「 到彼岸 」会なのでした。

順番に「 布施 」「 持戒)じかい) 」「 忍辱(にんにく) 」「 精進(しょうじん) 」

「 禅定(ぜんじょう) 」「 智慧(ちえ) 」がその徳目で、六波羅蜜とも、六度(ど)

とも呼ばれます。

俗に、「 暑さ寒さも彼岸まで 」と言われるこの季節の変わり目が爽(さわ)やかに

体感できる時節に、年2回ほど、「 悟りの岸 」へ渡るための修行を一日一テーマ

で実践しようというのですから、この彼岸会を発明した人は、天才的なアイデアマン

だ、不世出の鬼才プロデューサーであり伝道者だ、と、いくら誉めそやしてもたり

ない気がいたします。

葬儀・法事の仏教語 (9) 位牌 ( いはい )

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位牌が戒名を記したものだということは、皆さんよくご存じでしょうが、実は、この位牌

というもの、その大本のルーツは、儒教なのです。

儒教では、位板(いばん)、木主(もくしゅ)、神主(しんしゅ)、虞主(ぐしゅ)といって、

生前の位官、姓名を祖廟(そびょう)にまつる風習が古くからありました。

このやり方を宋の時代に留学した禅僧が持ち帰り、そこへまが国古来からの「 霊代

(たましろ) 」という、木板を祖先や個人の魂が宿った象徴として崇める風習が一緒

になって、今日のような位牌が出来上げりました。

そんな訳で、日本以外の国では、仏教における位牌というものは存在しません。

しかし、俗語で跡取りのことを「 位牌持ち ( * 施主の役どころなので ) 」

というように、儀礼における地位が極めて高いのが、位牌です。

世界の仏教から見れば変種なのでしょうが、日本人の信仰形態、心情にぴったり

合っている、と言っては言いすぎでしょうか?

葬儀・法事の仏教語 (8) 戒名 ( かいみょう )

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戒名とは、その名の通り、「 戒 」( 守るべき戒(いましめ) )を師僧から授かり、三宝

(さんぼう。 = 仏、法、僧 )に帰依することを誓って、仏弟子になる時に頂く(いただく)

名前です。

( * 教義的な理由から、「 戒名 」と言わずに「 法名 (ほうみょう) 」や「 法号 (

ほうごう ) 」という宗派もあります )

現在は、葬儀の時に、導師が引導文を詠(よ)み上げながら追贈(ついぞう)するのが

一般的ですが、本来ならば、生きている間に受戒(じゅかい)して、「 自分は仏教徒

として仏法にふれている 」という自覚を得るのが筋道なのです。

ですが、戒名は亡くなって初めて頂く、と大多数の方がぼんやりと思い込んでおられる

現状の「 常識 」を、根底からひっくり返すのは、まだまだ時間がかかりそうです。

それどころか、赤ちゃんの「 名付け本 」に便乗したのか、「 あなたも自分で戒名が

つけられる! 各宗派対応 」なんて本までが出る始末。 いやはや、何んとも。

笑撃的な本が世に出たものです。

しかし、笑っている場合じゃありません、この痛すぎる末法ぶりは。

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用語の意味 ( 広辞苑による )

臨終 = 死に臨むこと。 死にぎわ。

導師 = ①. 仏道を説いて衆生を悟りに導く者の意で、仏・菩薩の敬称。

       ②. 法会の時、中心となる僧。また、唱導の師で、願文・表白を述べて

          一座の人々を導く者、唱導師。

肝心要 = 極めて肝要なこと。

讃歎 = ふかく感心して褒めること。

追贈 = 死後に官位、勲章などを贈ること。

受戒 = 仏門に入るものが、仏の定めた戒律を受けること。

戒律 = ①. 一般に宗教における生活規律。

       ②. 出家者・在家者の守るべき生活規律。

          戒 = 自発的に規律を守ろうとする心の働き。

          律 = 他律的な規則。

葬儀・法事の仏教語 (7) 引導 ( いんどう )

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「 引導を渡す 」とは、正しくは、人生の最後である臨終(りんじゅう)のいちばん大事な

時に、導師が仏弟子となった死者に法語を与え、「 迷うことのない世界へ旅立つのだから、

安心せよ、嘆くなかれ、恐れるなかれ 」と、文字通り、仏の教え、仏の世界へと導き入れる

、葬儀法要における肝心要(かんじんかなめ)とも言うべき大切な儀式です。

( * 浄土真宗だけは、その教義ゆえに引導をわたしませんが、代わりに阿弥陀さまに

救われる喜びを、お経を唱(とな)えて讃嘆します )

ですから、本来は、引導を「 わたす 」「 わたされる 」などと、軽々しく使われるべき言葉

ではないのです。

引導、という言葉が聞こえたなら、果たしてそこに「 生き死に 」の問題や場面があるのか、

己が胸元に切っ先を向けていただきたい、とさえ思うのです。

葬儀・法事の仏教語 (6) 荼毘 ( だび )

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荼毘に付す、とは「 火葬すること 」だとは皆さんご存知でしょうが、この荼毘という

不思議な響きのある言葉が、何から来ているのかまでは、ほとんどの方が知らない

のではないでしょうか。

「 荼毘 」とは、パーリー語のジャーペーティを漢字に音写したものだと言われています。

その意味するところは「 燃やす 」「 火を点ける 」「 火葬にする 」。

我が国の葬法は、古来より土葬、風葬、水葬が行なわれており、その中でも土葬が主流

でした。

仏教は6世紀の前半に外来の思想として「 輸入 」されたのですが、その後、いわば

舶来(はくらい)の葬法として、8世紀初めから火葬が取り入れられ、少しずつ広まって

行きました。

つまりは、外国生まれのスタイルで、いわば新参者であった火葬は、それに相応しい

日本語がなく、また、死に関する事項は一種のタブーであり、忌み言葉ですから、

ジャーペーティの音を漢字に置き換えた「 荼毘 」が、そのまま日本語として定着

したのだと思われます。

葬儀・法事の仏教語 (5) 枕経 ( まくらぎょう )

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臨終の直後に菩提寺から僧侶を招き遺体の枕もとに三具足を飾った上で、(さらに

一膳飯(いちぜんめし)や枕団子(まくらだんご)を供えたりもします)、その側で読経

してもらうことを言います。

この枕経は、インド発祥らしいのですが、日本では、キリシタン禁止の政策上、死体

改め(一種の宗門改めとして)の意味も加わり、江戸時代から一般に広がったようです。

ですが、本来の枕経の目的は、「死者」という、まだ仏の世界へ旅立つ前の存在と、

こちら側に残り、まだ見送る準備もできずに動揺している遺族の双方に仏の教えである

お経を静かに読み聴かせ、またわかりやすく仏法を説き、話す。

そして、その厳粛な癒し、慰めの時間の中で、死者と親族から迷いを取り去ることだと

思われます。

昔は一晩中、読経していたと言いますし、近親者だけで、日頃から親しんでいるお経を

読誦したり、念仏や唱題をするのも大変に意義深く、功徳のあることではないでしょうか。

葬儀・法事の仏教語 (4) 布施 ( ふせ )

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お布施というと、回向をしていただいたお坊さんに包む御礼、と一般には思われて

おりますが、本来は「 自分のできることを他人にしてあげて功徳を積むこと 」と

いう意味です。

原語である梵語では、「 ダーナ 」と言います。

檀家というのもここから来ておりまして、菩提寺を支えて行く、サポートして、盛り

立てて行く信徒の方々、各家々という意味です。

余談ですが、「旦那(だんな)」や、英語の「 ドナー(寄付する人) 」も同じ語源で

して、平たく言えば、「 布施行 」をする方々、と言えましょうか。

また、布施というのは物やお金だけではなく、行いや考え方によって相手に尽くす

ことも含みます。

身体の弱い方やご老人にサッと席を譲る、悩んでいる人に優しい言葉をかけてあげる、

温かいまなざし、表情で親愛の情を示す。

それら全てが「 布施行 」なのです。

法要の場では、僧侶は「 法施(ほうせ) 」と言って、有難い仏法を伝道して行く役目

を担います。 これもまた布施行です。

これに対し、文字通り「 施(ほどこ)しの主 」である施主さんが心を込めて「 財施 

(ざいせ) 」 ( 物やお金を布施して功徳をつむこと )をする、というのが正しいあり

方なのです。

葬儀・法事の仏教語 (3) 香典 ( こうでん )

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香典、香資(こうし)、香奠(こうでん)と色々な呼び方がありますが、ご想像通り「線香

代用のお金」ということです。 ( 香奠のみ、「奠」という字の持つ意味合いから物品

そのものをお供えする場合にも用います )

香を購(あがな)うための「 典 」であり「 資 」として金品をお供えするというのは、

つまり、「 良いお香を焚いて、仏様を懇(ねんごろ)ろに供養し、こちらの世界から

せめてもの功徳を手向ける 」という信心の姿勢が意義深く、尊い行為であるという

前提があるからなのです。

三具足(みつぐそく)と言って、仏様をお奉(あつ)りする時の基本は、灯明(とうみょう)、

仏花(ぶっか)、お香ですが、この内、灯明は仏さまの智慧を、お花は仏さまの慈悲

を表していると言われます。

そして、お線香や焼香などの「 香 」は、仏様に向かうこの身よ、心よ、清浄なれ、

という信仰者の心映(こころば)えを象徴しているのです。

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広辞苑によれば、

購う = 買い求める

焚く = 火で燃やす(もやす)。 香をくゆらす。

供養 = 三宝(仏、法、僧)または死者の霊に供物を捧げること。

功徳 = よい果報をもたらすもととなる善行。

      善行の結果として与えられる神仏の恵み。 ごりやく。

奉る = 差し上げる。 たてまつる。

慈悲 = いつくしみあわれむ心。 情け。

      仏、菩薩が衆生をあわれみ、いつくしむ心。

心映え = 思いやり。 心づかい。

 

葬儀・法事の仏教語 (2) 満中陰 ( まんちゅういん )

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満中陰と言ってピンと来ない方でも、「 四十九日 (しじゅうくにち) 」のことですよ、

と言えば「 うん、知っている 」と大きく頷(うなず)いてくれるでしょう。

極めて大まかに説明しますと、人は亡くなると、肉体を離れて別の存在になり、

( 「魂」という概念は仏教にはありませんので、ご注意を )七日毎に生まれ変わり・

死に変わりのような状態を繰り返して、そのうちに次の生の「 行き先」 ( いわゆる

「 転生 」のことです )が決まる ・・・・ という思想が、仏教にはあります。

この肉体を持たずにさ迷う(?)期間は「 中陰 」、あるいは「 中有 (ちゅうう)」と

呼ばれています。

ですから、亡くなった日を1日めと数えて、最初の第一週の区切りが初七日

( しょなのか )忌、五週めがいわゆる「 三十五日忌 」、七周めが「 四十九日忌 」

満中陰忌となります。

文字通り、さ迷える「 中陰 」期間が満ちて、次の生の「 行き先 」が定まるのが

七日 X(かける) 七週 の四十九日めだからなのです。

また、中陰期間のさ迷える存在は、梵語(ぼんご)で「 ガンダルヴァ 」( 乾闥婆、

けんだつば )と呼ばれ、香が好物ゆえに「 食香 (じきこう ) 」とも訳されます。

「 通夜 」の項で、「 香を絶やしてはいけないのは、本当は四十九日忌までですよ 」

と申し上げたのは、こうした理由からなのです。

なお、香食に供える香は、上等のものほど良い、とされています。

さ迷いながらも、香りグルメというのか、贅沢者なんですね。

出典 : 「 葬儀・法事で聞く仏教語 」 朝野倫徳氏著

      大法輪 2009年10月号 ( 有限会社大法輪閣 発行 )

葬儀・法事の仏教語 (1) 通夜

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通夜とは仏教を説かれたお釈迦さまが亡くなった際に、弟子たちが枕元に集い、

「 私は、このようにお釈迦様に教わった」

「 仏陀は、あの時、こんな風に法をお説きになった」

と、それぞれが在りし日のお釈迦様の教えを披露しあい、「 夜 」を「 通 」して

説法をし、偉大なる師を称えて功徳を手向けた、という故事に由来します。

また、「 お通夜の晩は、お線香を絶やしちゃいけないんですよね? 」と聞かれる

ことが多いのですが、本来の意味からすると、香を焚き続けなければならないのは、

満中陰忌(まんちゅういんき)(四十九日忌)までで、お通夜は、夜通し起きて故人を

偲ぶのが習わしなので、「 結果として、線香が絶えることがない 」というのが正解

なのです。

出典 : 「 葬儀・法事で聞く仏教語 」 朝野倫徳氏著

      大法輪 2009年10月号 ( 有限会社大法輪閣 発行 )

「おしぼり」の使用法

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和食のお店などでは、食事の時に「 おしぼり 」が出されることが多い。

おしぼりは、お手拭用で、あくまでも手を拭くためのものです。

顔をふいたり、首をふいたりする人をたまに見かけますが、こういうことをしてはなりません。

また、テーブの上を拭いたり、テーブルにこぼした醤油やソース、食べ物などを拭く人も

いますが、これも同様してはなりません。

口紅のついたくちびるを拭くのもNGです。

口は、懐紙かティッシュで拭きましょう。

おしぼりは、洗濯して再使用しますので、再使用できないような使用法は控えなければ

なりません。

おしぼりは、使用後はキチンとたたんできれいに机の上に置いて帰りましょう。

褒め言葉

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マナーの基本は、人の立場に立って考え、行動することです。

つまり、人が嫌がることはしない、人の喜ぶことを自分から先に行なう、事です。

人は自分を認めてもらいたいという欲求を持っています。

この欲求は、褒(ほ)めることで確認します。

褒められる → 自分の存在、行為が認められる → 喜ぶ 

→ 心豊かに前向きになる → 自分にも良い影響がある → お互いに良くなる

という循環になります。

ですから、人より先に自分から他人を素直に褒めましょう。

自分から要求してはなりませんが、きっといいことがありますよ。

でも、褒め方には注意してください。

相手がバカにされたと感じるような、または、見え見えのヨイショは逆効果になります。

また、「 褒めるときは人の前で、叱るときは人のいないところで 」を忘れないでください。

褒め言葉とにはいろいろあります。

「 さすが 」、「 いいですね 」、「 立派 」、「 すばらしい 」、「 見事 」、等があります。

上司、目上の人に対しては敬意をもって表現しなければなりません。

漢字を間違えやすい仏教語 (3) 無間地獄?

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 「 無限ではない仏教の地獄 」

もし「漢字を間違えやすい仏教語ベストテン」というものがあったら、おそらく一位になる

と思われるのが「無間地獄(むげんじごく)」。

多くの人が、これを「無限地獄」と勘違いしているようです。

無間とは、「苦痛に絶え間がない」という意味で、別名「阿鼻叫喚(あびきょうかん)」。

父母を殺すなどの重罪を犯した者が堕ちるとされる、非常に恐ろしい地獄です。

この「絶え間がない」ということから、「無限」という語が連想されるのでしょう。

しかし、実は、仏教は、「無限に、永遠に抜け出すことのできない地獄」などというものは、

説いていません。

なぜなら、どんなに恐ろしい地獄にも、仏は大いなる慈悲の手を差し伸べ、必ず

救いの機会を与えてくださるからです。

もちろん地獄に堕ちるような悪いことを犯さないような人生でありたいものですが、

しかし地獄をも救って下さる仏の慈悲は本当に有難いと、私は思うのです。

漢字を間違えやすい仏教語 (2) 一連托生?

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一蓮托生(いちれんたくしょう)」は、複数の人が極楽浄土に咲く同じ蓮華の上に

一緒に生まれることを意味する仏教語ですが、日常語としては「運命や行動を

ともにする」という意味で使われます。

ドラマなどでも、「俺たちは一蓮托生だ!」というような台詞をよく聞きますね。

しかし、この「複数の人が行動をともにする」というニュアンスから、「連携」とか「連盟」

などの語がイメージされるようで、「一連托生」と間違えて書いてしまう人がいる

用です。

漢字を間違えやすい仏教語 (1) 諸行無情?

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漢字を間違えやすい仏教語を3回にわたりご紹介します。

出典は、雑誌「大法輪」平成21年10月号 (発行所:有限会社大法輪閣)です。

「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり ・・・・・」

”平家物語”冒頭のこの文句は余りに有名ですが、ここに登場する「諸行無常」は「すべての

現象は時の流れとともに必ず移ろいゆく。命あるものは必ず死を迎える」という意味で、

非常に重要な仏教語です。

ところで、この語を「諸行無情」と間違えて書いてしまう人、けっこう多いようです。

確かに、誰もが若く元気なままでいたいにも拘わらず、老いや死を与える「時の流れ」は、

残酷で情け容赦のないもの。

「無常→無情」、誤字と言えどもなかなか奥深いものがあります。

でも、漢字テストで「諸行無情」と書いたら、バッテンを付けられてしまいます。

 

漢字に意味がない音写語 (3) 末魔

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人が死ぬ時に感じる苦痛のことを「断末魔(だんまつま)」と言います。

「末魔」とは、そこを断たれたら死に至るとされる、人体の中の急所を意味する

「マルマン」(marman)」というインド語の音を写した仏教語。

「末魔」が音写語だと知らない人は、この語が持つ語感に、「世界の終末に現れる、

恐ろしい究極の悪魔」みたいな、スゴいものをイメージしていたかも知れませんね。

でも、漢字自体には何の意味もありません。

漢字に意味がない音写語 (2) 南無(なむ)

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「南無阿弥陀仏」、「南無妙法蓮華経」、「南無大師遍照金剛」などに冠せられる「南無」

(なむ)という語について、ある人から、「”南が無い”とは、どういう意味ですか?」と聞か

れた事があります。

なるほど、確かに「南が無い」と読めますね。

でもこれは、「南が無い」ということではないのです。

実はこの「南無」は、「帰依(きえ)・敬礼(きょうらい)・信従(しんじゅう)」などを意味する

インド語「ナマス(namas)もしくは、その語形が変化した「ナモー(namo)」の音を、

漢字で写したもの。

つまり、漢字自体には何の意味もないのです。

アメリカのことを「米国(べいこく)」というけど、「米の国」を意味するのではないのと同じ

ことです。

仏教語の中には、このように、インド語の原語を意訳せず、音そのものを漢字で当て字

にした「音写語(おんしゃご)」と呼ばれるものが、数多くあるのです。

漢字に意味がない音写語 (1) 三昧(さんまい)

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今回から3回、インド語を漢字に音だけ移しただけの意味のない漢字(仏教語)をご紹介

します。

出典は、雑誌「大法輪」平成21年10月号 (発行所:有限会社大法輪閣)です。

「三昧(さんまい)」は、精神が何かに向かって非常に集中している状態を表す仏教語で、

日常語でも「読書三昧(ざんまい)」とか「仕事三昧」などの形で使いますが、この語は

「サマーディ」(samadhi)というインド語の音を写したもので、漢字には特に意味はあり

ません。

「油を売る」という言葉の正しい語源は?

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江戸時代は電気などという便利なものはなかったから、油屋が一軒一軒行灯(あんどん)

の燃料となる油を売り歩いていた。

油は水と違って粘性が高いので、柄杓(ひしゃく)で移し替えるのに時間がかかる。

その間、油屋は客と世間話などをして時間をつぶすことになるわけだが、それがあたかも

仕事をさぼっているように見えた。

ここから、むだ話などをして仕事を怠けることを「油を売る」というようになったというのが一つ。

もう一つは、女性を相手に商売をする髪油の商人は、いろいろと客のご機嫌をとるための

営業トークに熱心だったため、遊び半分に仕事をしていると見られたからだという説。

怠けものの代名詞のようにいわれる油屋だが、実際のところはそれも仕事のうちだったのである。

出典 : 「語源の日本語帳」 一校舎国語研究会編 (株式会社永岡書店発行)

そばの食べ方 (6)

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しかも、本書に初めてそば切りの食べ方が出てくる。

そば切りは慶長年間から作られ、寛永頃には売り始められたが、上流階級に点心または

後段として用いられた切り麦・索麺とは異なり、最初は農民や町人の一部しか食べない

下賤な食べ物だった。

そのため、そばの食事作法が無かったのも当然と言えよう。

ようやく元禄頃になり、良家の子女が口にするようになったからであろう。

「男のように、汁をかけ食う事あるべからず。」とあるのは、麺類は汁をつけて食べるのが

正しく、汁をかけて食べるのは下種(げす)のすることだった。

食べ方は索麺の食べ方にならえというわけである。

薬味も年寄りは別として、晴れの場所では汁の中へ入れてはならないということになって

いる。

また、室町時代の武家故実書「今川大雙紙」は食物之式法の事の条りで、人前で麺子

(めんす)を食べるときは、背をまっすぐにして、それに沿って食べるものだ、と教えている。

ところが、安永期の古川柳を見ると、

ぐつとこごんでぶっかけを嫁は喰い

尻を高くしてぶっかけ娘喰い

という句がある。

これは、「女用智恵鑑」にぶっかけそばを食べるときは、

「皿をとりあげず、下におきながら喰うべし」

とあるからで、そばの食べ方にもマナーがあったことが分かる。

当節は、はた目に品よく、しかも食欲をそそられるような食べ方が一番であろう。

そばの食べ方 (5)

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武家礼式の宗家である小笠原備前守政清が、永正元年(1504年)に書いた秘伝書に

「食物服用之巻」一巻がある。

この中には、むしむぎ・ひやむぎ・うどん・索麺(そうめん)について食べる作法が記され

ていた。

女性の作法に関しては元禄五年(1692年)版「女重宝記」以後、「女教訓詞絵抄」(宝暦)

や「女用智恵鑑」(明和)、「女諸礼集」(元治元年ー1864年)など種々刊行されてはいるが、

麺類の食べ方についての記述はいずれも「女重宝記」の域を出ていない。

1.索麺くふ事

  汁を置きながら一はし二箸そうめんを椀よりすくい入れて、さて汁をとりあげ食うべし。

  そののちは汁を手に持ちすくい入れ、食いても苦しからず。

  汁をかけ候はば、初めはいくたびも汁を下に置きすくい入れ、とり上げ食うべし。

  饂飩も食いやう同じことなり。

  蕎麦切など男のように、汁をかけ食うことあるべからず。

  索麺のごとく食うべし。

  からみ(辛味)くさみなど汁へ入るべからず。

そばの食べ方 (4)

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さて、店によってそばとツユの味は違うから、最初の一箸はそばだけを味わう。

二箸めはツユの濃淡(薄口しょうゆは別として)を見て加減してつけ、三箸めから薬味を

一品づついれ、味の変化を楽しむのもいいものだ。

蒸籠(せいろ)に残った短いそばは箸を立ててきれいにとり、小分けにして注いだ徳利

のツユが余れば猪口にあけ、そば湯を差して飲むのが、私流の食べ方である。

食味に関する限り、どうしても馴染んだ味を基にして判断を下しがちである。

それで地方に出かけると、そばはうまいがツユがまずいとか、不満が起こってくる。

確かにそばとツユの調和が欠けているのも少なくないが、自分の口に合わないから、

まずいとは限らないし、土法の良さを率直に受け入れる謙虚さを持ちたいものである。

そばの食べ方 (3)

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うどん、そばのよしあしは嗜好と風土の問題であって、迷亭の意見はひとりよがりである。

そばの醍醐味は何といっても、のど越しの感触であろう。

そばをうどんやそうめんと比べれば、その違いが分かるはずである。

「そばは三分」でツユを三分の一つけるのは、昔のツユが辛口だったからであり、ツユの

濃淡によって決めることで、あえて通ぶる必要はあるまい。

終わりに、そばを何口で食べるかは、そばの分量によるので、一概には言えない。

そばの食べ方 (2)

ベゴニア901.jpg

これに対して私見を述べてみる。

「そば三たて」といって、挽きたて、打ち立て、ゆでたて、と三拍子そろったのが喜ばれる。

ゆでたては水が切れないしツユが薄(うす)まるので、むずかしくいえば水が切れるか

切れないかといったころあいのそばが最上である。

そばが延びるのは小麦粉が混ぜてあるためで、「きそば」なら延びることはない。

そばとツユは車の両輪みたいなもので、調和が取れなければうまいそばとは言えない。

ツユには甘辛二種類あるが、概してソバ粉の多いそばは辛口、小麦粉の多いそばは

甘口が合うようである。

東京では濃い口しょうゆを、うどんの好まれる関西では薄口しょうゆが使われる。

山葵もおろし山葵なら文句ないが、粉山葵はツユをまずくさせるので、かえってない方

がよい。

そばの食べ方 (1)

ヒマワリ901.jpg

数回にわたって「 蕎麦(そば)入門 」(新島 繁氏著、株式会社保育社発行)から

「 そばの食べ方 」をご紹介します。

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夏目漱石の『吾輩は猫である』は、明治38年1月から翌39年8月へかけて、俳誌

「ホトトギス」に連載されたものである。

その中で、迷亭(めいてい)先生が出前の笊(ざる)そばを食べる場面があり、漱石は

その通ぶりを皮肉って描写している。

迷亭の講釈を要約すれば、次のとおりである。

1. そばは打ち立てを食べるべきで、そばの延(の)びたのと人間の間が抜けたのは

   頼もしくない。

2. そばはツユと山葵(わさび)で食うもんだ。

3. うどんは馬子が食うもんだ。 そばの味を解しない人は気の毒だ。

4. そばはツユを三分の一つけ、一口に飲んでしまう。 噛んじゃそばの味がなくなる。

   つるつると咽喉(のど)を滑り込む所がねうちだ。

5. 一枚の笊は三口半か四口で食う。

キモノ と 呉服

蜘蛛901.jpg

和服用織物、とりわけ絹織物に対する総称として広く用いられている「呉服」。

それに対して綿織物・麻織物など太い糸の織物は「太物」と言われています。

呉服は古代中国、三国時代の呉の国から伝わった織り方によって作った綾

などの織物、「くれはとり=呉服」から来た言葉でした。

そんな呉の時代の日本は、邪馬台国女王、卑弥呼のころとほぼ同時期。

本来は反物である呉服が、時代を経るに従い、着る物=着物の総称になった

と思われます。

ちなみに、KIMONOという言葉は欧米を中心に世界中で認知され、呉服、太物

かかわらず和服の総称となっています。

出典 : 京老舗 呉服 ”に志田” 余話 「 キモノと呉服 」 (週刊朝日2009.09.18)

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