奈良の仏様と京都の仏様

8世紀末、山城にあたらしい首都を建設した政府は、都市計画の中にはわずか2つの寺、
東寺と西寺しか置かなかった。
しかもこれらは多分に官寺としての機能を役目とするもので、思想の中心が比叡山や
高野山にあったことはよく知られている。
そこで寺院は権力や世俗にまぎれることなく自立し、人びとは純粋に宗教を求めて心の
対話を深めることができた。
その結果、仏像は民衆の心との相似形の中で発達して行くことになる。
ここで前世紀の奈良の仏像と当時の京都の仏像を並べて思い出してほしい。
すると奈良の名だたる仏像は、それぞれりっぱで堂々としていて、均整美にあふれていて
尊厳である。 光背も装飾性にみちていて華麗である。
ところが京都の仏たちには、これらのどの1つも当てはまらない。
もっと実質的で威圧感はない。
しかし、この像こそがじつは本当に民衆が手に入れた仏の姿だった。
親しみぶかくて穏和で、ゆったりとした安定感があって、何事も受け入れてくれそうな気がする。
( 中略 )
この「 穏和 」こそが古代日本人が至上の価値をおいた美であった。
美術家たちは当時の定朝( じょうちょう。 ?~1057 )一派を代表的な仏師集団と考え、
定朝様式ということばで、この時代に達成された仏像彫刻を呼ぶ。
定朝様式の特色は気品にあふれ優雅で、抑制された調和美だと言われる。
そしてこれが、いまだに中国ふうな造像の中にあった奈良の古仏から、日本的に自立した
美だと考える。
出典 : WEDGE 2009年6月号 中西 進 氏 の 「 根幹を築いた情の文化 」
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