
福井藩第十六代藩主・松平春嶽( まつだいら しゅんがく、 1828年 ~1890年 )
は、1828年、一橋家、清水家と並ぶ徳川御三卿の一つ、田安家の八男として江戸
城内で誕生する。
将軍家との血縁は深く、十一代将軍徳川家斉(いえなり)の甥、十二代将軍徳川家慶
(いえよし)のいとこにあたり、幼名は錦之丞(きんのじょう)。
十五代藩主斉善(なりさわ)の病没後、幕命により越前松平家を継いだ錦之丞は、
十一歳で藩主となり、元服後将軍家慶の一字を賜わって慶永(よしなが)と名を改める
が、彼自身は春嶽という号を好んだという。
藩政改革に取り組んだ彼は、まずひっ迫した藩の財政を立て直すために、徹底した
緊縮財政を推進、率先して倹約に努めるとともに、家臣たちにも徹底させ、さらにさまざま
な改革に取り組んだ。
欧米の圧力が高まる中、海防の強化、洋式の大砲や鉄砲の鋳造による強兵策、人材
育成のための教育改革などの必要に迫られた春嶽は、身分にかかわらず優秀な人材を
登用しながら次々と藩政改革を実行に移し、やがて幕政にも参画して大きな影響を与え
るようになる。
人材育成の必要に迫られた春嶽は、1855年藩校を設立する。 当時、藩医から藩主の
側近くに仕える御書院番に抜擢されていた橋本左内は、二年後、二十四歳で藩校明道館
の校長格にあたる学監同様心得(がっかんどうようこころえ)になり、欧米の学問を学ばせ
る洋書習学所を新設。 由利公正らと協力しながら文武両道を目指す本格的な教育改革
を推進する。
そのころ幕政において将軍継嗣問題に取り組んでいた春嶽は、左内を江戸に呼び寄せて
この任に当たらせる。 左内は一橋慶喜(よしのぶ)を次期将軍にすべく、奔走する。
しかし、反対派の井伊直弼(なおすけ)が大老となり、次期将軍は徳川家茂(いえもち)に
決定。 政争に敗れた春嶽は、三十一歳の若さで隠居・謹慎を言い渡され、その後捕え
られた左内も翌年には斬首される。 この時、左内は二十六歳。 福井藩の責任を一人
背負った死で、春嶽はその死を悼んだと言われている。
桜田門外の変で井伊直弼が亡くなり、春嶽は謹慎を解かれる。 政界に復帰した春嶽は
横井小楠を政治顧問に迎え幕政改革に努める。
その後春嶽は明治新政府の中で徳川宗家の存続のために尽力する。 一方、中国の
古典から「 聖人君子が天下に耳を傾ければ、世は明るく平和に治まる 」という意味を
持つ「 明治 」を元号候補に挙げるなど、新政府内でも重きをなし、その後も要職を歴任。
1870年には公職を退き、著述に専念、数多くの著作を残した。
* 日本経済新聞 2009年3月21号 より。