ブログトップ閑話休題 > 伝説のファースト・エンペラー(始皇帝)の真実 (1)

伝説のファースト・エンペラー(始皇帝)の真実 (1)

仏様5.jpg

株式会社ソニー・ミュージック・ダイレクト の The CD Club 2009年5月号の

作家・塚本靑史さんの 「 中華統一は始皇帝の望みか否か? 伝説のファースト・

エンペラーの真実 」から。

--------------------------------------

「 史記に記された出生の秘密 」

始皇帝(しこうてい)が当時の敵国である趙(ちょう)の都・邯鄲(かんたん)で生を受けた

のは、系図上の父とされている荘襄王(そうじょうおう)が質子(ちし)、つまり不可侵条約

の保証人(人質)として送り込まれていたからだ。

 戦国七雄は、それぞれ質子を交換し合っていた。 単純計算で、全国に四十二人いた

勘定になる。 その中に、将来使い物となる一人を捜していたのが、大商人呂不韋( りょ

ふい )だった。

現代的な感覚で捉えれば、彼は投資家である。 その言葉に「 奇貨居くべし (きかおく

べし = 得難い好機は、逃さず利用する意)」がある。

この奇貨に当たったのが当時の荘襄王である。 彼は、呂不韋の妾を見染めて貰い受

けるが、その腹には既に始皇帝が宿っていたと言われる。

その経緯は「 史記(しき) 」の記述で通説となっている。 呂不韋はソグド人(白人系、

コーカソイド)で、漢民族(黄色人種、モンゴロイド)とは容貌体型が違う。

遺伝子を受けた始皇帝の姿は、、公然の秘密だったろう。

呂不韋の計算が狂ったのは、邯鄲から咸陽へ戻した荘襄王が、先代の夭逝(ようせい)

で早く王位に就いてしまったことだ。 先々代の昭襄王が、五十七年もの長きに亘って

君臨したためである。 それは呂不韋にとっても嬉しい誤算言えよう。

自分の意のままに動く王に付いていれば、投資の数万倍の儲けが見込めるからだ。

だが、荘襄王も在位四年で他界する。 こうして王位に就いたのが当時十三歳の我が

子始皇帝(当時の呼び名は、秦王政(せい) )だった。

呂不韋にとって問題だったのは、少年始皇帝の聡明さである。

彼は出生の秘密も自らが置かれた立場も理解して、隠忍自重の末に父親の呂不韋

を飛び越えて追い落とした。

コメントする

2011年10月

            1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30 31