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2008年2月29日

釣りの思い出(5) 針が親指に

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金目の仕掛けは、おもりを投入すると50センチメーターくらいの枠から糸と針がパラパラとリズミカルに出て行く。 ただし、きれいに仕掛けを作っていたらの話だ。 金目釣りをはじめて間がない頃パラパラt針がでたのはよいが、針が錘の重力で飛び出し私の右手の親指に突き刺さったことがある。他に4~5名乗船していたので、釣りが終了するまで帰港するわけにはゆかない。痛いのを我慢して、港に帰るとすぐ、伊東病院へ行って針を抜いてもらった。そのため自宅へ帰って仕掛けを作って、何回も2階のベランダから仕掛けの投入実験をして工夫した。

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2008年2月28日

釣りの思い出(4) 船のまわりは3Mの海水

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大島沖へ金目釣行の場合、冬はよく風が吹くので、船頭がよく大島の気象台へ電話をして気象状況を確認した。夜中の12時、1時にせっかく伊東の港へ行っても風が強いと波が高いので、船が出ないこともあった。私の場合家で仕掛けの針にエサをつけてから港へ行くので、船が出ない日は家へ帰ってから、針からエサを外さなければならない。針を洗うとともに外したエサをすてなければならない。

天神丸のエサはカツオのはらみを10~12センチメートルの長さに、短冊状に切ったものを使用していた。早めに港へ行き船頭からエサをもらって仕掛けの針に刺すこともあり、また家でエサを針に刺すこともあった。家で刺す場合はスルメイカを短冊状にして使った。

ある時波が高かったが釣行した。これは船頭の判断だ。大島沖へ着くとかなりの高波で、船が波と波の谷間に入ると周りは波ばかりで、船から見て横には波しか見えない。そうすると船のみよし(先頭)から甲板に海水が押し寄せる。しっかり船につかまっていないと体が海水に持っていかれる。こういう時はもう釣りどころではない。生きた心地はしない。安全のためキャビンへ入っても体はアッチへゴロゴロ、こっちへゴロゴロ、きわめて居心地が悪い。伊東の港へ帰って来てはじめてホットする。

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2008年2月27日

気になる政治家の年齢?

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最近ちょっと政治家の年齢が気になったのでWikipediaで調べてみた。ここで取り上げた人は私が日ごろテレビや新聞で見ている人で、思想、信条には全く関係ありませんことをお断りしておきます。

やはり年寄りには退いてもらって、若い人に頑張ってもらいたい。年寄りが悪いというわけではないが、衰退する日本を盛り返すには若い人のエネルギーが必要だ。

順番は若い人から年寄への順です。氏名、誕生日(年、月、日)、2008年2月25日現在の年齢を記しています。 敬称略。

[1960年代生まれの人]

  •  1. 枝野幸男  1964.5.31 (43)
  •  2. 前原誠司  1962.4.30 (45)
  •  3. バラック・オバマ  1961.8.4 (46)

[1950年代生まれの人]

  •  1. 野田佳彦  1957.5.20 (50)
  •  2. コンドリーザ・ライス  1954.11.14 (53)
  •  3. 安倍晋三  1954.9.21 (53)
  •  4. 岡田克也  1953.7.14 (54)
  •  5. 渡辺喜美  1952.3.17 (55)

[1940年代後半生まれの人]

  •  1. ヒラリー・クリントン  1947.10.26 (60)
  •  2. 鳩山由紀生  1947.2.11 (61)
  •  3. 菅 直人  1946.10.10 (61)
  •  4. ジョージ・W/ブッシュ  1946.7.6 (61)

[1940年代前半生まれの人]

  •  1. 胡 錦濤  1942.12.21 (65)
  •  2. 温 家宝  1942.9 (65)
  •  3. 小沢一郎  1942.5.24 (65)
  •  4. 金 正日  1942.2.16 (66)
  •  5. 小泉純一郎  1942.1.8 (66)
  •  6. 李 明博  1941.12.19 (66)

[1930年代生まれの人]

  •  1. 平沼赳夫  1939.8.3 (68)
  •  2. 森 喜郎  1937.7.14 (70)
  •  3. 福田康夫  1936.7.16 (71)

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2008年2月26日

釣りの思い出(3) 大島沖は川のよう

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 40歳台に約10年金目ダイの釣りをした。

天神丸という船に乗って午前1時から2時に伊東の港を出る。3時間くらいで大島沖に到着する。夜明け前から夜が明けてしばらくの釣りだ。1回の釣行で5~6回しか仕掛けを投入できない。水深は400~600メーターあり、道糸が1000メートル出たこともある。天神丸では大体せいぜい5~6人の釣り人。最初の頃はお客は私一人で、よく船頭と2人だった。船頭は寝るわけには行かないが、私は狭いキャビンで座って寝ていた。天神丸の船頭は人柄温厚でよく面倒をみてくれた。今は体調をくずして引退したと聞いている。

夜明け前に(大島沖に)「着いたよ。始めるから準備してください。」と言われると。右舷の船頭が支持する席に行き、ロッド・ホルダーをセットする。次オリンピックの太鼓型の電動リールをロッド・ホルダーにつける。ロッドとは竿のことで、ロッド・ホルダーとは竿を固定する道具だ。50センチくらいのわっかに20本針がついた仕掛けを電動リールから引き出した道糸につなぐ。仕掛けの先には鉄筋を30センチくらいに切ったおもりをつけている。船頭が「はいやって」というとみよし(船の先頭部分)の人がおもりを投入する。しばらく間をおいて、頃合いを見計らって「はい、次の人どうぞ。」で2番手がおもりを投入する。もたもたしているとその回は投入できないでパスということになる。この調子で次から次へおもりを投入する。大島沖は潮は川のように流れていて、あっという間に船は流される。船頭は流れに逆らって船を進め鮒が流されないようにしながら、おもりを投入させる。

おもりを投入しても竿先を注視していなければならない。おもりが海底に着いたら道糸がそれ以上出ないようにしなければならない。おもりが海底に着いても道糸を出しっぱなしにすると、「お祭り」と言って他人に仕掛けと絡んでやっかいなことになるので、人に迷惑をかけることになる。おもりが海底についたかどうかは竿先を見ていればわかる。一瞬糸の出が遅くなるのを見て判断する。おもりが海底に着くころには糸は500メートルから700メートルくらいは出ている。一番長く出た時は1000メートルだった。

 そうこうするうちに金目が食いはじめる。金目が餌を食うと竿先がわずかにピクピクと動く。そうすると少し糸を送り込む(糸を出す)。他の金目が他の餌を食うとまた竿先がピクピクと動く。あの感触忘れられないね!20本の針に5匹のときもあれば10匹の時もある。一度など船頭が有馬さん、仕掛けをつないで50本針にしてみろというのでそうしてみた。金目が40匹くらい食っていた。もう24ボルトの電動リールがキーキーと悲鳴をあげる。こちらは悲鳴ではなく、大漁で顔がほころぶ。一度など1回の釣行で110匹も釣れて処分が大変だった。たまには良いことのマネをしてみようと老人ホームへ30匹、お年寄りに食べていただこうと思って持って行った。そしたら決められたところからしか買えない規則になっているといって断られた。残念だった。

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2008年2月25日

釣りの思い出(2) 雷に追いかけられて

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  ある年の6月、伊東の春平丸に乗ってイサキの夜釣りに出かけた。     港を出て15分くらいでポイントに到着した。船頭のきよしさんが「いいよ」  と言って竿を出し、仕掛けを投入すると同時に船が四方を雲に囲まれてし まった。船頭が「悪いけど今日は帰るよ!」と言ったので、釣り具をしまいかけたら今度は雷が船の真上で鳴り始めた。もう本当に20~30メーター 上空でドンガラガラが鳴り、稲妻が光る。赤い光ではなく、緑色のように見えた。竿は甲板の上に横にして置いて、自分は頭を低く下げた。今にも雷が落ちるのではないかと恐怖で頭はいっぱい。この状況は船が伊東の港に着くまで続いた。わずか15分が1時間にも2時間にも思えた。

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2008年2月24日

釣りの思い出(1) 強風でボート流される

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今はもう釣りを止めてから2年余りになる。                                              家内の実家が伊東にあり、家でごろごろしていてもお邪魔虫なので、子供の頃を思い出して、釣りを再開した。

その頃海辺近くに梅原さんとい人が釣具屋をしていた。                         釣りを再開した頃は、梅原さんの貸しボートをアンカー(錨)付きで借りてポイントを教えてもらって釣りをしていた。伊東の湾内のポイントには漁船が沈めてあり、そこに魚が集まるとのこと。ポイントにアンカーを打って船を固定した。ここではカイワリ、鯵などおかずくらいは結構釣れた。

あれはたしか5月頃だが、アンカーを打って釣りをしていたら、突然強風が吹き出した。これは危ないと思いアンカーを揚げようとしたが、水深が30メーター位あって、アンカーの真上まで行くのにかなり時間がかかる。

やっとアンカーの上に来たが、30メートル余りのロープをたぐりよせるのに時間がかかる。船が風圧を受けているので、アンカーが海底を離れてから船まで上がってくるまでに、ボートはまたたくまに数100メートルは流される。ぞっとした。怖くなった。どこまで流されるんだろうかと。

そこで考えた、いや岡山県の下津井でボートで流された時のことを思い出した。風に逆らうことはできない。そうだ、風に流されながら、陸の方へ向って斜めにオールをこぐことを。思い出したら恐怖心はなくなった。オールを漕いだ、漕いだ。なんとか宇佐美近くから陸伝いに伊東のb-ト置場へ帰ってきた。

反省点 : ①.気象、天気を調べてから釣りに行くこと。                                        ②.自分の力を過信しないこと。                                                  学生時代に貸しボートのオールを折ったくらい私は腕力があった。                         ③.他人を頼りにしてはならないが、困った時は素直に他人の助けを借りること。                    実はロープを引っ張っている時に漁船が引いてあげようと言ってくれたのを断っていた。

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2008年2月22日

梅のつぼみ

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 2月14日(水)に相模原北公園に行った。

梅を100本ばかり植えてあると聞いて出かけた。

まだつぼみで、しかも膨らんでいなかった。

まだ早かったようだ。

2月19日(火)には、小田原の曽我梅林へ出かけた。

ここは食用の梅をとるために植えていて、白い梅ばかりだった。それなりに美しい。

木全体の写真をとるときれいだが、花びらを大きく撮ろうとすると写真になる花びらがなかなか

見つからない。

2月21日(木)には、町田の薬師池公園へ出かけた。ここの梅も花はまだだった。

でも、ここでつぼみを見ていて、花よりつぼみのほうが美しいのではないか?という気がしてきた。

この記事の写真は薬師池公園の梅。なんともよく膨らんでいて、もうすぐ開きますと言っている

ような気がする。開花の時期に梅の花を愛でたい。

 

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2008年2月21日

海難事故

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痛ましい海難事故が起きてしまった。

漁船が真っ二つに裂かれている。

イージス艦が避けようとしていたのなら、あのようにはならないのではないのか?

イージス艦は、2分前に漁船を発見した、というのが、12分前になり、

次には30分前になる。 責任逃れしようとしたら、次々ボロがでて、その度に言うことがかわる。 

これは嘘をつく時の典型例だ。

上は汚職、下は事故。軍艦に私物の電気器具を持ち込んで、火災。

こんな軍隊で日本国を防衛できるのか? 心配でならない。

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2008年2月20日

悲しい言葉「間引き」

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私は岡山県の南部、玉野市に生まれ、18歳まで玉野で育てられた。
母は岡山県生まれ、父は香川県生まれ。
現在、岡山県は気候温暖で、豊かな国として知られている。
でも学生時代に母から忌まわしい、悲しい話を聞いたことがある。
昔食べて行くのがやっとという貧しい家では、赤ちゃんが生まれるとすぐ
菰に包んで旭川に流していたらしい、とのこと。
父からも似たような話を聞いたことがある。
食うや食わずの家に赤ちゃんが生まれると、この次はもっと金持ちの家
に生まれてくるよう諭して、穴を掘って埋めることもあったようだ。
これを称して「間引き」というのだそうだ。
父方の祖父は、6歳で高松に丁稚奉公に出され、行った先で同い年の
子供の子守りをした、という話も聞いた。昔は食いぶちを減らすために、
次男坊以下は早くに家から出されたそうだ。祖父は飢饉の時は、松の
皮まで食べたという。
昔凶作の時には、この物資豊富な世の中では考えられないような
「間引き」が時として生きるために行なわれることもあったようだ。
昔の人は、生きるためとはいえ、やむにやまれず、忌まわしく、悲しい
ことをせざるを得なかったこともあった、と聞いた。

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2008年2月19日

ジュセリーノの予言(5)

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ジュセリーノの予言の代は、
2036年11月に2つの惑星が地球に接近する。
1つの小惑星は、直径2Kmの「2002-NT7」で、地球に接近する。
もう1つの惑星は「アポフィス」といい、2029年に地球に接近する。
これらは、2036年に地球に衝突する可能性がある、とのこと。

恐竜が滅びたのは、小惑星が地球に衝突したためだとか。
過去には、隕石が地球に衝突したり、シベリヤでは地球に衝突する前に空中で
爆発したことがあったと聞いた。

2036年には、私は生きていないだろうが、生き残る子供たちのために私に
何が出るのだろうか?
自分のこと、自分の国のことだけ考えていては、問題は解決できない。
地球規模で発想して、人のために何か役に立つことをして行きたい。

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2008年2月18日

ジュセリーノの予言(4)

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ジュセリーノの予言の第5は、
日本で、2008年夏、7月16日~9月15日の間に、気温が43度~45度になり、
デング熱という感染症が流行する。
地球の温暖化と都市の温暖化(ヒートアイランド現象)で、日本が亜熱帯化して、
熱帯の感染症「デング熱」を引き起こすシマ蚊が北上するとのこと。

藤田紘一郎という先生も、日本の亜熱帯化はすでに始まっていると、言っておられた。
デング熱だけなんですかねえ?
一緒にいろんなものがついてこないことを祈ります。

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2008年2月17日

ジュセリーノの予言(3)

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ジュセリーノの予言の第3は、
2008年中に、エイズ・ワクチンが完成する。
つまり、エイズ予防に有効なワクチンができる。
「ルアナー」という植物がエイズと同じタンパク質をもっていて、これがキーになる。

5つの予言の中で唯一、明るい予言である。
是非そうなってほしい。

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2008年2月16日

ジュセリーノの予言(2)

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ジュセリーノの予言の第2は、
2011年に、新型ウィルスが大流行して、7300万人が死亡する、とのこと。
感染症:鳥インフルエンザ H5N1型が、人と人の間で流行する、という。
人と人との間では感染しないとされていたが、感染するようになる、とのこと。
アセトアシノフェンという解熱剤と最少60日分の食糧を備蓄せよ。
また、水、携帯電話、ラジオを身近に置いておけ。
ウィルスは短期間に変異するのと、種類が多くてどれをターゲットにしてワクチンを
作ったらよいかわからない、と言っていた。

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2008年2月15日

ジュセリーノの予言(1)

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2008年2月12日(火)19:00~20:55 12チャンネルで
「史上最強の予言者ジュセリーノ未来への5大警告”」という番組を見た。
この人はブラジルの人で、予知夢で予言するとのこと。
今まで何回も予言が的中した実績があるそうです。
「ジュセリーノの予言」という本が近々出るそうです。

予言の第1は、
アジアのある国で、2008年9月13日(土)、巨大地震が起きる。
マグニチュードは9.1、30メートル以上の津波が起きて、100万人以上が犠牲
になる。アジアのある国がどこかは言えない。
というものであった。

いろいろな学者、専門家に意見を求めていたが、可能性はあるとのこと。
不幸が起こらないことを祈るのみ。

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2008年2月14日

格闘技ファン

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私は子供のころ岡山県玉野市という瀬戸内の田舎町で育った。
小学生のころ近所の渡木の政子ちゃんの家へよくテレビを見せてもらいに行った。
悪がき5~6人でお邪魔する。目的はプロレスのテレビ番組を見るため。
力道山全盛のころだ。そのころ、三井造船の清輝寮でボクシングの試合があるという
ので見に行った。これがボクシングを目の前で見た初めて。2回目は社会人になって
まだ独身の頃だ。東京の後楽園で藤猛(ふじ たけし)の試合を見た。藤猛の相手が
簡単に倒れたのでびっくりした。
ボクシングを目の前で見たのはこの2回だけ。あとはテレビばかり。
ボクサーで名前を覚えているのは、ファイティング原田、青木勝利、大場政男、沼田義明、
海老原博幸などである。日本人ボクサーでノックアウト・パンチがあったのは、やはり
何と言っても海老原博幸だ。彼のパンチは「カミソリパンチ」で有名だった。1発で相手を
倒す醍醐味のあるボクサーだった。いまだに彼ほどのパンチを持ったボクサーを見たこと
がない。
外国の世界チャンピオンでは、ブラジルのエデル・ジョフレ。彼は「ロープ際の魔術師」と
言われ、ロープを背にしてカウンターで1発で相手をマットに沈めるハードパンチャー。
彼のボクシングは芸術品だった。
ボクシングの後は、キック・ボクシング。その次は現在K1(ケーワン)などを見ている。
格闘技は、世の中が豊かになると、弱くなる。
悲しむべきか?喜ぶべきか?

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2008年2月13日

大阪勤務の時代 : 大きな録音機で講演録作成

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関西IBM研究会の事務局を担当していた時、甲南大学の岸本英八郎先生に講演を
お願いしたことがあった。講演内容を講演録にすることになった。専門の人にお願い
する予算がないので私が会社の録音機を借りて、アパートまでタクシーに乗せて帰り
録音された講演を聞いては、文字にする。この先生早口で声が小さいので聞き取り
ずらい。何度も何度も聞き返す。話されたとおりでは文字にならないので、文字に直す。
こうして10倍以上の時間をかけてやっと講演録の原稿ができた。
なんでもやってみるものだ。やってみないとわからない。いい経験になった。
こんなバカなことは二度とやってはならないと。

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2008年2月11日

私が鳥をあまり食べない理由

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私が小学生のころ家では鶏を飼っていた。
雛を買ってきて、餌をやって大きくして卵をとるためだ。鶏が大きくなるよう育てると
愛着がわいてきて可愛くなってくる。
餌は米屋から買ってきた糠に大根の葉っぱを刻んでいれる。それに時々牡蠣や貝の殻を
金づちでたたいて細かくして混ぜる。カルシュームが不足すると卵の殻が柔らかくなるのを
防ぐためそうしていた。家の裏に鶏小屋を造って鶏を6~7羽飼っていた。
たまにイタチに取られたり猫にもっていかれた。
実は人間にももっていかれた。
当時は戦後で物のない頃、大人たちが集まると酒を飲み、酒には肴が要る。その酒の
肴に私が飼っている鶏が徴用されるのだ。鶏はスキヤキにされる。鶏でも、牛肉でも、魚
でも同じだが、とれたて、屠殺直後は肉が固い、あるいはしわい。うまみも少ない。
子供心に自分が飼っていた鶏を食べる気にはなれない。スキヤキにした鶏肉を口に入れても
固いのと、何かいけないことをしているような気がしてはきだした。
それと、大学生のころ友人と新宿を歩いていたら、鶏の足をもって刺身包丁のようなもので
首をチョンと切って、お湯が入った醤油樽に放り込んでいるのをたまたま見かけた。
また子供のころ近所の肉屋の裏の川に鶏を逆さにつるして首をはねて血が出ているのを
見たこともある。
どうも自分が飼っていた鶏とイメージがダブッテ、なんとなく食べたくないのである。
でも、冷静に考えると、私が食べているものは、いや人間が食べているものは皆生き物で
ある。自分が飼ったことのない豚肉、牛肉、自分が栽培したことのない米、麦、野菜、イモ
・・・は平気で食べている。
命をいただいて生きているのだから、贅沢しないでいただく命はできるだけ少ない方がよい
のではないでしょうか?

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2008年2月10日

大阪勤務の時代 : お願いしてないのに・・・

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確か昭和42年(1967年)の春ごろのこと。
関西IBM研究会が終わって、日本生命のK部長と一緒の帰り道のことだった。
梅田駅の地下道まで来たとき、K部長が突然「有馬さん東京へ帰りたいんでしょう?
今度東京で委員会がありお宅の竹下本部長と会うから帰れるように言ってきてあげます」
と言いだされた。私は「お気持ちはありがたいのですが、社内の問題なので、どうか
そのような話はなさらないでください。」とお断りした。
にもかかわらずK部長、竹下本部長と話をつけてこられた。K部長、東京から帰って
こられると「話しつけてきたよ。そのうち帰れるから、待っていなさい。」との話。
肥後もっこすの竹下本部長のこと、きっと雷が落ちてくる、と覚悟していたが、雷はなしで
その年の9月1日付で東京転勤になった。
これには訳がある。当時全U協(全国IBMユーザー協議会=IBMユーザー研究会の
全国組織)の事務局を担当していたWさん(日本では高校しか出ていない)が、会社を
休職してアメリカの大学へ私費留学するので後任にどうかと直接私に話がありOKの
返事をしておいた。多分WさんがK部長に打診したのだと思う。
それにしてもWさん、私なんかと比べると大したものだ。お父さんが早くなくなり、母親に
育てられたとのこと。私と同じ貧乏人の息子。どこだったか忘れたがちゃんとアメリカの
大学を卒業して帰国した、IBMに復職した。

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2008年2月 9日

大阪勤務の時代 : 夜中にお客さんを送ったが・・・

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ある時T社という商社のS次長と一緒に飲んで、箕面のご自宅へ送ることになった。
私が石橋に住んでいたので近く夜中でもあるのでタクシーでお送りすることにした。
Sさん玄関を開けて、是非寄って行けという。夜中なのでお断りしたが聞き入れない。
しようがないので、お邪魔した。そしてらSさん奥さんに「有馬君が是非寄りたいという
ので、連れてきた」と言うではないか。奥さん渋い顔をしている。この人今何時だと思って
いるのか、と顔に書いてある。Sさん自分が引っ張りこんでおいてそれはないでしょう?
と思ったが、Sさんに恥をかかせるわけにはゆかないので、黙って座敷に上がった。
幸いタクシーを待たせておいたので、ビールを1杯ご馳走になって、早々に失礼した。
このSさん日頃私を贔屓にしてくれていたので、まあしょうがないかと忘れることにした。

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2008年2月 7日

日本のGDPは?

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聞くところによると、日本の一人当たりのGDPは世界で18番目になったそうです。
2000年には3位だったそうです。これからどこまで落ちるのでしょうか?
経済担当大臣は、評論家のように「日本の経済はもはや一流ではない」と迷言をはき、
2大政党の党首は中国へ媚を売りに行き、アメリカからは無視される。これでは株価
が下がりっぱなしも不思議ではない。
なんとか若い元気のよい、優秀な人が出てこないか、私は期待している。
政治の世界は年寄りばかりで何もできない。民主党の岡田さん、前原さん、野田さん
のような若い人に期待しています。
民主党もいつまでも小沢さんを担いでいるようでは選挙に勝てません。
小沢さんの防衛論など無茶苦茶だ。
俺にやらせろ、といって小沢さんに対決するような人はいないのか?

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2008年2月 6日

有馬シマノスケの最期 (10)

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僕は昨年12月のはじめくらいから右目の内側になにか腫瘍でもできたのか、右目が
見えなくなりました。そのうち年末には左目の視力もかなり衰えてきました。佐藤先生
から消炎剤、抗生剤などをもらい、シュークリームやプリンに混ぜて飲みました。
8年近く生きていると、爪がかなり伸びるとともに、歯も犬歯?が伸びてかみ合わせが
悪くなりました。このためスプーンでシュークリームやプリンを食べるのが難しくなりました。
ババは左手の手のひらに僕を乗せ、右手の指で薬を混ぜたシュークリームを僕の口まで
持ってきてくれました。僕は亡くなる1~2ヶ月は食欲旺盛で食べまくりました。
冬という季節のせいだったのでしょうか?
1月25日(金)にはママが看病に来てくれました。
1月26日(土)朝、僕の右の目のあたりがかゆいので、爪でかいていたら、血が出てきて
ママがガーゼでふいてくれたのですが、血が止まりません。ママが佐藤先生に電話して、
ジジが車で朝10時に薬をもらってきてくれました。消炎剤、抗生剤、すこし眠くなる薬
などです。
1月27日(日)もママが看病してくれ、ママがアパートへ帰る寸前に僕の呼吸が最初
しばらくゆっくりになり、その後早い呼吸になり、5~6回呼吸すると僕の心臓は鼓動が
止まりました。ママが「シマノスケが動かなくなった」と言ったので、ババとママのお姉ちゃん
が見ましたが2度と動きませんでした。家族みんなショックで、ママとババは目を泣き腫ら
していました。ババがジジを2階へ呼びに行き、ジジが2階から下りてきてお経をあげて
くれました。ママは予定を変更して27日も泊ってゆくことにしました。
1月28日(月)10時過ぎにババとジジが相模川の高田橋の河原で石を3個拾ってきてくれ
ました。その後ジジがシマコが眠る庭のお墓の隣にかなり深い穴を掘って、ママの手で
埋葬されました。
僕と一緒に僕が好きだったピスタッチオ、胡桃、リンゴのスライスなどをお土産に持たせて
くれました。僕のお墓の上にはシマコと同じように丸い石が3つ置かれています。
もう一度ジジが別れのお経をあげてくれました。
一番悲しみを引きずっていたのはババです。ババは自分の母親が亡くなった時以上に
悲しみを引きずっていました。1週間以上も。
有馬家の家族の皆さんありがとうございました。
僕は今天国で幸せな生活を始めました。
家族の皆さんお元気で。
さようなら。

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2008年2月 5日

有馬シマノスケの最期 (9)

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僕シマノスケとシマコは別々の住まい(ケージ)で暮らしましたので、僕は生涯独身
で過ごしました。そういう点ではさびしい一生でした。
でもこれにはわけがあります。
僕を売っていたペット屋のお姉さんが、2人(2匹)1つ住まいに入れておくと、喧嘩して
血みどろになるので別々の住まい(ケージ)の方が良い、とアドバイスしたためでした。
ペット屋のお姉さんは、こうも言っていました。シマリスは発情期(年に数日しかない)
だけおす、めす一緒でそれ以外は別に暮らすのだと。
それで僕とシマコは別のケージ、ただし隣り合わせで生活しました。
お姉さんのペット屋では小さなケージに10匹も15匹もシマリスを入れていたのに
別々が良いとはちょっとおかしな話だとは思いますが。そういえば売っているシマリス
の中には耳がちぎれた者もいました。おまけに餌は奪い合いで、その勢いはすさまじい。
僕は一軒家に一人で住んでいましたから、誰に食べ物を奪われるわけではなく、平和な
生活をさせてもらいました。そのせいか僕はカミリスにはならないですみました。
僕らの仲間にはカミリスになるものもいて、人間に嫌われることがあるそうです。

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2008年2月 4日

有馬シマノスケの最期 (8)

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僕らの仲間には飼い主のポケットの中で眠ったりする者もいるらしいのですが、僕は
そうはなりませんでした。でもママ、ママの姉ちゃん、ババ、ジジを怖がったり、嫌がったり
はしませんでした。家族の誰がいても平気でした。自分の好きなように飛び回っていました。
ババは僕が有馬家にいた8年足らずの間、旅行にも行かずほとんど毎日家にいてくれました。
ババは毎週1回ババのお父さんの看護のために伊東へ日帰りで行きましたが、朝早くに
出て、夜には帰ってきました。その間はママのお姉ちゃんか、ジジがついていてくれました。
僕はグルメのシマリスになりました。シュークリーム、プリン、モンブラン、イチゴなどご馳走
を僕にすすめてくれたのはジジでした。

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2008年2月 3日

有馬シマノスケの最期 (7)

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僕は住まい(ケージ)から出してもらうと、はじめテリトリーを見て回ります。
巡回が終わるとこたつの中で遊んだり昼寝したりします。
それに飽きるとババのところへ行きます。ババが腕を差し出してくれるので、腕を
登り、ババの肩でしばらく休憩していました。ここは僕が安心していられるところでした。
時々ババの肩で居眠りしたりしました。
でも居間にいても恐怖がよぎることもありました。テレビの音にはなれていましたが、
窓際にいる時カラスが飛んでゆく影が見えたりすると、僕はフリーズしました。
それは誰からも教わったわけではありませんが、僕たちは野生の世界では大きな鳥
にねらわれる存在だったから、本能的に反応したのだと思います。

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2008年2月 2日

有馬シマノスケの最期 (6)

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僕はどうやら中国の旧満州で生まれ、幼い頃に人間に囚われて、日本へ連れてこられた
ようです。僕たちシマリスは、満州では冬になると冬眠します。
日本でも冬に寒くなると冬眠する仲間もいるようです。
冬眠の前には木の実を採取、隠して他人に取られないよう蓄えます。
また冬眠に備えて脂肪を体につけるためいつもより食べる量が増えます。
有馬家では、ママとババが心配してくれて、冬眠しないように冬になると僕がいる居間に
暖房を切らさないように入れてくれました。夜も室温が下がらないように暖房が入っており、
僕のケージには二重、三重に暖かい毛布をかけてくれました。お陰で冬でも快適で、
僕は一生冬眠しないですみました。
でも生来体が丈夫でない僕は、初冬や春先に体調を崩して、よくプラスティックの箱に
入れられ車で佐藤先生の動物病院へ連れて行かれました。
動物病院へ行くと、大体僕の嫌いなネットに入れられ、身動きできないようにしてインター
フェロンの注射をうたれるのでした。
でもそのお陰で僕は人並みに生きることができたとママやババに感謝しています。

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2008年2月 1日

有馬シマノスケの最期 (5)

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僕の住まいは有馬家の居間に作ってくれました。
住まいは縦・横・高さとも50センチメーターくらいのケージでした。
ケージは町田の小田急デパートの屋上のペット屋さんから買ってきてくれました。
ケージの下から20センチメーターくらいのところにジジがアクリル板でテラスを作り、
その上にプラスティックの部屋を置いてくれました。僕のベッドは最初木くずを使い
ましたが、佐藤先生のアドバイスで新聞紙を幅1~1.5センチメーター、長さ15~
16センチメーターに切ったものを使用しました。僕は新聞紙を布団にして部屋の中
で丸まって寝ました。新聞紙は毎日ババが新しいものと取り換えてくれました。
とても快適でした。
僕の家の中にはママが床から30センチメーターくらいの所にハンモックを作って
くれました。僕はこのハンモックの中に食べ物を蓄えたり、遊んだり、時にはここで
寝ました。ハンモックは両側は棒で人間が使用するソックスでママが作ってくれました。
僕の家には、床に餌箱、水箱、それにプラスティックのトイレを置いてありました。
ババのお陰で僕の家、部屋はいつも清潔に保たれていました。
ママのお姉ちゃんが休みの土日にはよく遊んでくれました。ケージから出してもらって
1~2時間、ときには3時間余りもお姉ちゃんが付き合ってくれました。

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