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2007年4月30日
2007年4月29日

私が中学生の頃紫雲丸事故というのがあった。
高松港の港外、ほとんど高松港の目の前で、国鉄・宇高連絡船の下りの宇高丸
(うこうまる)と上りの紫雲丸(しうんまる)が衝突し、紫雲丸が沈没、168名が亡くなら
れたという事故である。
ご冥福をお祈りいたします。
翌日の新聞には大々的に新聞に写真が載っていたのを思い出す。
なぜ記憶しているかと言うと、私が通った玉野私立日比中学校に高松に住んでいて
通っている先生がいたからで、事故の日はその先生が来なくて、学校中で心配した。
不幸中の幸いでその先生は無事だった。
168名の内100名以上が広島から修学旅行で来ていた広島の小学校の児童だった
そうだ。なんともかわいそう、哀れでならなかった。
衝突原因は霧による視界不良だった。
備讃瀬戸では3月~5月の春から初夏にかけて時に霧が発生することがあるのは、
私でも知っている。何とかならなかったのだろうか?
最近は太平洋で船同士が衝突する事故が何度も起きている。
あの広い太平洋でどうしたら船同士が衝突するのか?
不思議だが事故は現実にはある。
機器が発達しても人間が注意を怠ると事故になるということではないだろうか?
船長、パイロット、運転手・・・さんにはルールを教えるだけでなく、安全に対する意識を
徹底していただきたい。
ちょっとした不注意が大事故を招く。
2007年4月28日

私が通った小学校:岡山県玉野市立日比(ひび)小学校は海抜100メートルくらいの
山のふもとにあり、山にのぼると瀬戸内海が見渡せる。
すぐ下には三井造船・玉野造船所があり船の進水式など山上から見学できる。
この山にはヤマイヌが住んでいた。
私が通った当時は小学校は木造(杉材が多く使用されていた)で廊下を歩くとよくギシ
ギシと床が鳴いていた。20年位前に行ってみたら鉄筋の建物に建て替えられていた。
小学校の端に便所があった。便所の後ろには墓地がある。夕方薄暗くなってくると幽霊
が出るとか言って生徒は近寄らなかった。
時には悪がきが集まってジャンケンして、負けた奴が気味の悪い便所まで行って来る。
校舎が鉄筋になって気味の悪い便所へ行く必要はなくなったが、今時の悪がきは肝試
しなどやっているのだろうか?
2007年4月27日

私が育てられた家の前は道路で、その向こうには幅4メーターくらいの川が流れている。
家から200~300メーター下流に高さ50センチくらの堰が作られていた。その堰には
水が溜まるがドロも溜まる。このドロがどじょうの住みかになる。時期は忘れたが、時々
どじょうが息継ぎに水面に上げって来る。見ると腹が金色にそまり少々赤っぽい。
どうやら腹に児を持っているらしい。すごくきれいだ。
そこでどじょうの使用法を1つ伝授しよう。どじょうを裂いて骨をとって身だけにする。
これを熱をもった我々の身体の一部に貼る。すごく熱をとってくれる、ときいて実際に
使ったことがある。私の右の親指の先の爪の下がヒョウソウになって化膿して、隣町の
内田外科で爪をはがす手術をした時指がものすごく熱をもった。近所のおばさんが
ドジョウを裂いて貼ると熱を取ってくれるとアドバイスしてくれた。
やってみたら朝貼ったどじょうを見たら熱を吸収、煎餅のようにカリカリになっていた。
社会人になってから浅草の駒方へどじょうを食べに行ったことがあるが、あの子供時代
のドブ川を思い出して鍋に手がでなかった。
2007年4月26日

小学校の給食で記憶に残っているのは、カレーライス、ミルク、あんず、である。
カレーライスに、肉がないのでサバ(鯖)の身が入っていた。家ではあまりカレー
ライスを食べた記憶がなく、給食のカレーライスがおいしかった。
ミルクは、脱脂粉乳を溶かして甘みをつけたもの。家内などマズかった、というが
私にはあの丸いアルマイトの食器で飲んだ温かい脱脂粉乳のミルクはおいしかった。
ある時風邪かなんかで学校を休んだら、近所の同級生の子が今日は給食に「あんず」
が出たといって持ってきてくれた。おいしかった。
今のようにチューインガムなど売っていなくて、麦を噛んで代用品を作った。
大人はコンサイスの薄い紙にタバコをくるんで吸っていた。
そんな時代の話である。
2007年4月25日

私が小学生のころには我が岡山の田舎町にも旅回りの芝居がやってきた。
芝居小屋は原っぱにわらで編んだ莚(むしろ)で囲われ、簡易に作られる。
にわか作りの芝居小屋に入ると、莚がしかれておりその莚の上に座って芝居
見物する。直接莚にすわると足が痛いから家から座布団(ざぶとん)持参する。
見物料は10円か20円だったような気がするが確かではない。
出し物は3~4日連続物である。初日に芝居小屋に入ると大体終わりの日まで
見物することになる。
今でも記憶に残っているのは、鬼婆(おにばば)が出刃包丁で人殺しする出し物
があり、子供心に怖い思いをした。
田舎の便所(トイレ)には小さな豆球の電球しかついていないので薄暗く、夜など
芝居を思い出して怖くて便所へ行けなかった。
2007年4月24日

今日久しぶりに朝の満員電車に乗った。最近は朝夕のラッシュを避けて出かけるように
しているので、満員電車に乗ることはほとんどない。いなかっぺの私にはあの満員電車
ほどいやなものはないからだ。
今朝は電車の中で押されて身体が斜めになっても身体を元にもどせない、状態だった。
周りを見ると3人の女性が文庫本を読んでいる。
本を読んでいるとその分だけスペースをとることになって他人に迷惑をかける。そんな
ことなど全く意識がないらしい。平然としている。
私などたまたまラッシュの時に座れても、新聞や雑誌は読まないようにしている。
お互いに自分がしていることが他人に迷惑をかけていないだろうか、と気を使う気配り
がほしいものだ。
2007年4月23日

上司が飯田課長から渡邉 覓 (わたなべ もとむ)さん(通称ナベさん)に替わった。
渡邉さんは、1964年の東京オリンピックの時に報道課長を務めた人で、なかなか
の自信家であったが、文章のうまさには敬服した。
社内レター、お客様の名前で出す書簡を私が書いて提出すると、真っ赤赤に添削して
くれた。たしかそんなことが1年くらい続いた。
来る日も来る日もレターは真っ赤赤で気分はよくなかったが、何とか赤がはいらない
レターを書くよう努力、1年くらいしたらかなり赤が少なくなった。
一度など、ソニーの井深さんに全U協の論文審査委員長になっていただき、そのスピ
ーチの原稿を書くことになった。井深さんの三田マンションのご自宅に伺い、応接まで
渡邉さん口述、有馬筆記したこともある。
昔は今のようなパソコンの時代と違い、赤字で直されると、書き直さなければならない。
大変な作業なのだが、考えながら書き直すので、教育効果は高かったと思う。
今考えるとありがたいことだ。渡邉さん、ありがとうございました。
お返しに自分が若い人に添削などするチャンスがればお役に立ちたいと思う。
2007年4月22日

大阪から転勤で東京へ帰ってきてしばらくすると、ハードウェアとソフトウェアの価
格を分離するという価格分離を実施することになった。
それまでは込みの価格だった。価格は分離されていなかった。
全U協(全国のIBM研究会の連合体)はIBMユーザーの集まりでもあり、ある時
経団連会館で向野営業本部長が10名あまりの委員に対して、価格分離について
説明した。今から考えると合理的で至極当然な話だが、説明を聞いた広島のM自
動車のM部長など、激昂して真っ赤な顔で反論したのを覚えている。
多分値上げと受け取られたのだろうが、本当はそれは違っていた。
その後ハードとソフトの価格分離方式は国産機メーカーが従うことになり、世の中
の大勢となった。
私は全U協事務局担当者として、全U協委員各位の意見を会社に伝え、価格分離
の実施に雑用係りとして貢献した。
2007年4月20日
2007年4月19日

ある年の暮れに全U協の幹部とIBMの役員で忘年会を柳橋の料亭でやろうという
ことになった。
私が幹部お二人をハイヤーでお迎えに行くことになって、まず最初に田村町の日本
石油さんへ伺った。今は亡き鈴木室長をお迎えした。次に浜離宮の三井造船さんの
吉永部長をお迎えに伺った。
三井造船を出て間もなく事件は起きた。
三井造船を出て間もなくのところで鋼材を積んでいたトラックが横倒しになっていて
警察官が交通整理をしている。丁度夕方で懐中電灯をもって方向指示している。
ハイヤーの運転手さんは当然指示にしたがって走った。
そしたら行く道は首都高速しかなかった。首都高速へ誘導されたわけである。
運の悪い時は重なるもので、首都高速が夕方で大渋滞。
二人のお客様は悠々としていたが、私は気が気でない。冷や汗だらだらだ。
今と違って携帯電話などない時代。どうしようもなかった。
柳橋の料亭にはIBMの社長、副社長はじめ役員が10人くらいが待っていた。
結果として連絡がとれずに約1時間遅れて料亭に到着した。
私の上司の渡邉さんは青筋立てて怒っている。そら当然だ。
私は詰問するように叱られた。
そしたら日本石油さんの鈴木室長(全U協委員長)が事情を説明してくれ、有馬
せいではないということがわかり皆機嫌を直してくれて事なきを得た。
鈴木室長には大変お世話になりました。ありがとうございました。
数年前に亡くなられました。ご冥福をお祈り申し上げます。
2007年4月18日

全国IBMユーザー協議会の事務局を担当して間がない頃穿孔管理調査報告書を
出そうではないかという話が持ちあがってきた。
当時はデータ入力するのに80欄のIBMカードに穴をあけてその穴を機械が読み取る
という入力の仕方が一般的だった。このカードに穴をあける仕事をしてくれるのが女性
で「キーパンチャー」という職種だった。
生命保険会社などでは大量のデータが発生するので、100人とか150人とかいう
大勢の女性がキーパンチルームにいた。若い女性ばかりの部屋だった。
私など恥ずかしくては入れなかった。
という話は置いといて、このキーパンチという仕事、指でキーを叩くので腱鞘炎になる
ということで、労働省から1日ナン・ストロークとかいうキー・タッチの基準が出ていた。
以前に調査報告書を出してからかなりの年数が経っているので、新しくしようという
ことになった。
私はそのころはまだコンピューターのことは何も知らなかった。
IBMにはキーパンチで有名な2人の女性がいた。一人は古宇田さん、もう一人は
竹内さんで、お二人の指導よろしきを得て確か10年ぶりくらいで穿孔管理調査報
告書をだすことができた。お二人に今でも感謝しています。
ありがとうございました。
2007年4月17日

IBM本社の筋向いのマンション「北野アームス」には我が上司・渡邉 覓
(わたなべ もとむ)さんの友人である立教大学教授・野田一夫先生の事務所があった。
家賃が高いだろうによく大学教授がマンションを借りられるものだと不思議だった。
それに美人秘書がいた。我が上司はずっとチョンガでその美人が目当てでよく出入り
していたのかもしれない。そのせいか私はめったに連れて行かなかった。
この野田先生、虎ノ門会館でIBMユーザーズ・シンポジュームを開催した時、パネル・
ディスカッションの司会を引き受けてくださった。
どういう行きがかりか知らないが、京都の○○機械製作所の社員が、「野田先生は
きれいごとを言い過ぎる。現実派そんなものではない。あなたはやはり世の中を知ら
ない大学の先生だ。」と発言。野田先生、カットきたらしく、司会をパネリストに代わっ
てもらってヒト・ディスカッションが展開された。
その時はひやひやしたが、今となっては懐かしい出来事だ。
2007年4月16日
2007年4月15日
2007年4月14日
2007年4月13日

飯田課長(途中で渡邉課長に交代)の上に次長?の豊田敏夫さん(通称TT=
ティーティー)がいらっしゃった。豊田さんのことは亀田さんや門脇さんなど我々
仲間内ではティー・ティーと呼んでいた。
この人九州出身の東大卒で、ゴルフはシングル。落ち着いたしゃべり方でなか
なかの紳士だった。背が高く1メーター90くらいあったと思う。顔はちょっと失礼
だが昔のテレビのライフルマンに似ていた。でもいろいろお世話になりました。
飲めもしないのに時々銀座の泰明小学校の近くに確か「あざみ」という高級ク
ラブがあって、連れて行ってくれた。ここの店は九州が本店だといっていた。
この店で何度か紀伊国屋の社長をしていた田辺茂一さんに出会った。酔って
いるのか見かけたときはいつも微笑んで、フラフラと歩いていた。
あざみでは一度野球の中西 太さんを見かけたこともある。
私は若いサラリーマンとしては高給取りだったが、自分で銀座のクラブに行くほ
ど裕福ではなかったし、個人的にはそんな趣味はなかった。
当時私がお客様の幹部とのお付き合いがあったので、ちゃんとしたところへ出
てもビビラナイようにとの親心から連れて行ってくださったのだと思う。
それにしてもえらいご迷惑をおかけした。残念ながら今の私にはそんな力はない。
豊田さんありがとうございました。お元気でしょうか?
2007年4月12日

営業計画課(戸倉課長)に同年輩の門脇弘樹さん、亀田 登さんがいた。
門脇さんは会社が終わったら四ツ谷の日米会話学院に通っていた。アメリカの駐在員
を目指して頑張っていた。この人度の強い眼鏡をかけていたが、ある時コンタクトレンズ
に変えた。コンタクトをしっぱなしにしていて失明寸前まで行ったことがあった。
門脇さん、後年目標のアメリカ駐在員になり、日本に帰ってきてから営業部門で日産
自動車を担当の営業になった。おしいことに数年前になくなった。
亀田さんは、鵠沼の亀田病院の令息で、湘南の和歌大将といわれていた。
彼は早稲田の大学院を卒業していた。
後年彼はLBSというIBMの子会社の常務にまでなった。惜しくも先年亡くなられた。
また、勝部 雄さんという係長がいて気が合ってよく話をした。
勝部さんが旗の台の自宅へ遊びに来いとさそってくれお邪魔したことがある。
彼、見かけによらず情熱家でタンゴが好きだった。レコードを何枚も聞かせてくれた。
勝部さんは私のことを「ザ・マン(男っぽい男)」とよんで、可愛がってくれた。
この方はもうかなり前になくなられた。本当にまじめな人だった。
こうして同年輩の昔の同僚が2人、先輩が1人亡くなられている。
いい人は早くなくなる。
私は別に長生きしたいわけではない。せいぜい彼らを見習っていい人になりたい。
門脇さん、亀田さん、勝部さんのご冥福をお祈りします。
2007年4月11日

昭和42年(1967年)9月1日から営業推進本部、営業推進課(課長:飯田和雄さん)
の配下に入った。飯田課長ゴルフのうまい人だった。だけど、仕事の方は、たいしたこと
なかった。正直言って、仕事でいくら頑張っても評価する人ではなかった。上司や同僚の
課長と部下の評価を頑張ってくれるような人ではなかった。
でも、楽しいことがあった。
同じフロアに技術部があって男性はおじさんばかり。だから女性の秘書や事務担当者
はこちらに注目。中には誘いをかけて来る子もいる。
桑原さん、斉藤さんお元気でしょうか?その節はありがとうございました。
毎朝、お茶を入れてきてくれる。時にはお菓子をいただく。
IBMに30年近く勤めたが後にも先にもこんな天国はなかった。
2007年4月10日

若松延男さんから転勤の話が合ってから暫くしてのことだった。
関西IBM研究会の会合の後、日本生命の金山部長さんといっしょになった。
帰る方向が同じだったから。
今でも覚えている。梅田の駅の構内で、金山さんいきなり「有馬さん、東京へ
帰りたいんでしょう? 近く全U協の委員会があるので、その時におたくの
竹下さん(営業推進部長)に話をつけてきてあげるから安心しなさい」と言われた。
どこから話を聞きつけられたのだろうか?
私は、「社内のことでお客様にそのようなことをされると私が困ります」と申し
上げたが聞き入れてくれない。「安心しなさい」とおっっしゃる。
私は「お気持ちはありがたいのですが、でも本当にお止めいただきたい」とお願い
した。しかし同意していただけなかった。
本当に東京で金山部長さん、竹下本部長と話しをされた、とのこと。
実は、竹下 毅という人、肥後モッコスで、特攻崩れの一本気な人。
千鳥町でインストラクターをしている時、お客さんの受講生が居眠りをしていたので
チョークを投げつけた」という逸話の持ち主で、筋の通らない話で彼を怒らせると、
まとまる話も壊れてしまうと心配したからである。
結果としては、竹下さんに怒られることもなく、転勤の話はまとまり、転勤が決まった。
昭和42年9月1日付けで、営業推進本部、営業推進課へ異動になった。
金山さんありがとうございました。お元気でしょうか?
2007年4月 9日

ある時大阪の中之島のホテルで、お客さんのパーティーがあり出席した。
変なクセにお客さんがいて、酔ってくると誰かれかまわずホッペにチュウーをする。
別にホモではなかった、とのこと。
逃げて回っていたら、すごい美人のホステスに出会って、話し込んでデートの約束
をしているところへ邪魔が入って話不成立。NHKの部長に大島さんという部長が
おられてパーティーに参加していらっしゃった。この部長が邪魔をした。
ああ残念なことをした。そのホステス、父親が九州の炭鉱夫といっていた。
まれに見る美人だった。ああ残念、無念!
話のついでにもう一人の九州美人を紹介します。
福岡へ出張、飛行機の中で事務管理課長の清水 潔さんと一緒になった。
タラップを降りる途中で清水さんが私の袖を引っ張る。何だろうと思ったら、前を行く
女性は中尾ミエさんだという。私はそれまで気がつかなかった。言われてみると
そのとおりだ。中尾ミエさんだ。真っ赤なコートを着て、サングラスをかけていた。
スタイルも良いし、絶世の美人だった。その頃は。ああ昔がなつかしい。
2007年4月 8日
2007年4月 7日
2007年4月 6日

アパートへ帰っても別にすることがないので、大抵飲み屋へ寄ることになる。
木暮君、や内田君とよく寄ったのは、曽根崎の小さな飲み屋。
串揚げやキャベツにソースをつけて食べた。他に何を食べたか記憶がない。
アルコールは大抵ビールで、大瓶3~4本くらい飲んだ。私は若い頃は酒が
強くて晩飯はビールだった。
ある時林係長が行こうというので、梅田の近くのクラブへ行った。林さんは
馴染みの香取というホステスを呼んだ。なかなかの美人で驚いた。
やるじゃん、と思ったが、私は人の馴染みに手を出すほどもてないわけでは
なかった。
大学のクラスメートに質屋の息子で宇留賀公康という悪がいたが、こいつ
慶應高校のころから女遊びをしていた。宇留賀は、親父から素人には手を
出すな、金をやるから、金で遊んで来いと言われていたそうだ。
それを見習って、私も金でしか遊ばなかった。
一度宇留賀に誘われて旗の台の宇留賀の家へ行ったが、頑丈なコンクリ
ートの塀で防御したお城のような質屋だった。
宇留賀は体は小さいが親分肌のいい男だった。
かなり前になくなって、クラス会には奥さんが出席している。
友の冥福を祈る。
2007年4月 5日
2007年4月 4日

ある時瀬尾課長にご馳走になって、今晩は我が家に泊まれと言ってくれ、茨木の
団地へタクシーで向かった。
走り出した時から瀬尾さんはずっと寝入ってしまって、団地に着いて起こしても一向に
起きる気配がない。私は瀬尾さんの住所を知らなかったのではたと困った。
いいことを思い出した。彼が恐妻家だという噂を聞いていたのだ。
そこで、「瀬尾さんお宅に着きましたよ。奥さんが呼んでますよ。」と言ってみた。
課長ガバと起き上がった。やった。うまくいった。
瀬尾課長のお宅へ上がると、瀬尾さんは一目散に布団の中へ直行、再び寝入った。
私は瀬尾さんの枕元で、奥さんと差し向かいで一杯ご馳走になってからやすませて
いただいた。瀬尾さんも江戸っ子だが、奥さんも気風のよい江戸っ子で話がはずんだ。
瀬尾さんご夫妻にはお世話になりました。ありがとうございました。
お元気でお過ごしでしょうか?
2007年4月 3日

ある時美佐係長にご馳走になって帰りがけに、私1人だけ付き合えと言う。
これから六甲山へタクシーで行くと言う。
独り身の私はどうせ帰っても石橋駅の近くのスナックデの見直すだけだから
気持ちよく付き合った。
そして六甲山に近くなったら、彼女の家はこの近くだという。
どうやら彼女に会いたくなって来たようだ。でも夜中に会えるわけがない。
まあ男ならそんなこともあらーな、と思った。
この彼女、なんとテイジンの甘粕部長の秘書だった。
関西IBM研究会の委員長がテイジンの甘粕部長様で、私の前任の事務局
が美佐さんでが甘粕部長様のところにしょっちゅうお邪魔しているうちに見初
めたそうだ。
私が転勤で東京に帰っても、美佐さんは結婚披露宴に呼んでくれた。
披露宴が終わって帰ろうとしたらトーメンの白木次長が出口で私を待っていた。
お前を待っていた。これから飲みに行こうとおっしゃる。同行した。
2007年4月 2日
2007年4月 1日

昭和41年(1966年)の暮れに、大阪事業所(順慶町)の事務の仕事を統合して
事務課に集中することになった。
私は総務課(瀬尾課長)の下の美佐係長に所属することになった。
仕事も、今までの営業所事務から、広報と関西IBM研究会の事務局業務に変わった。
所属は総務課だが、関西IBM研究会の仕事は、事実上の上司は水田関西地区部長
だった。
お客様は、日本生命の金山部長様、住友生命の平手部長様、テイジンの甘粕部長様、
トーメンの白木次長様などにお世話になり、薫陶を受けた。
大企業の幹部のみなさんが自分の息子のように引き立ててくださった。
今でもお客様に感謝している。
我が家の仏壇の前に小さなテーブルを置いて、ここにお世話になった方々のために菓子、
果物を供え、月に1~2度お経をあげて感謝している。
ありがとうございました。