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2007年3月アーカイブ

会社生活 (18).ダイナミックな人事

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昭和40年永田町本社での出来事を思い出した。
営業課長にMさんという人がいて、その下にYという営業成績のよい係長がいた。
ある時M課長がアメリカへ出張した。そしてロスアンゼルスの空港で電報を受け取った。
その電報は、Yさんが課長に昇進、Mさんが係長に降格というものだった。
いや、びっくりした。えらいドラスティックな人事をやるもんだな、と。
さすが外資系だ、なと思った。
でも、私は悪い印象は全然持たなかった。むしろいい印象を持った。
やればそれだけチャンスがあるということで、すばらしいことだと。
今でもいい経験をしたと感謝している。

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会社生活 (17).案内状の役職名にご用心!

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ある時お客様に案内状を出すことになり、セールスの遠藤さんから送付先リストが
私に手渡された。
私は営業にこのリストのとおりで大丈夫ですね、と念を押したら、大丈夫との返事
だったのでリストとおり案内状を発送した。
それから数日して客先からクレームの電話がかかってきて大騒ぎ。
案内状を「次長」の役職で出したが、しばらく前に「部長」に昇進されていた。
お客様は、大和銀行の新庄さんという部長様だった。
上司である広沢事務機課長から私がしかられた。課長には、遠藤さんに念を押して
確認した上で発信した、と反論したが、私のせいにされてしまった。
非常に不愉快な記憶として40年経った今でも鮮明に記憶している。
その時から、今に至るまで、会社名、役職名、氏名については異常な注意を払うよう
になった。ただで不愉快な思いはしない。
いい習慣が身に付いたと神様に感謝している。

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会社生活 (16).トラブル

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ビジネスショーの期間中に東京からデモの応援に来ていた女性から相談があるので
時間がほしいとの話があった。それではというので北の新地のレストランへ行った。
女性は34~5才くらいの人だった。
聞いてみると、これまた東京から応援に来ているSEのSさんと同じホテルに泊まって
いて、昨晩自分の部屋へ入ってきて迫られたとのこと。困っていると言う。
お慰めの言葉しか思いつかないので、それは大変な目に会いましたね、と言うしかな
かった。今回は我慢してください、もしまた同じことがあったら男性本人に抗議します。
それで効かないようなら、会社の上層部に報告して止めさせます、といって帰ってもら
った。それからは何もなかったようでほっとした。

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会社生活 (15).縁談

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ビジネスショーに出展するタイプライターのデモをする女性を雇うことになり、営業の
係長が自分の実家の近くのお嬢さんを見つけてきた。事前に練習してもらうから
電動タイプライターを京都の桂まで運べという。係長と二人桂のHさんの家まで
お届けした。丁度その時お嬢さんのご両親がいたので挨拶した。
そのお嬢さんにはビジネス・ショーで活躍していただいた。
ビジネスショウーが終わってしばらくして、営業の係長が、桂のHさんの両親が君
の事を気に入ったようだがどうだと言う。家付きの1人娘でチャンスだとけしかけら
れた。私はまだ遊びたい盛りでお断り申し上げた。
数ヶ月して営業係長から聞いたところによると、松下電器担当の営業課長が
Hさんのことを好きだったが、振られたときいた。私がいなかったらうまく行ったか
もしれないのに・・・。気の毒をした。

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会社生活 (14).ビジネスショーのマネジャー

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確か昭和40年の秋だったと記憶しているが、事務機部門だけでビジネス・ショー
に出展することになった。出展するのは電動タイプライターと会計機で、事務局
つまり雑用係のお鉢が私にまわってきた。その時は、なんとなく引き受けた。
今から思うと、小さなプロジェクト・マネージでいい経験をさせてもらったと感謝し
ている。仕事の内容は、機械の手配、搬送の手配、据え付けるカスタマーエン
ジニアの手配、据付・テストのスケジューリング、デモンストレイターの手配、教育、
トレーニングなど、人、物、金、スペース、スケジュール全体のマネージだった。
24歳でこんな経験をさせてもらった。
若いときには仕事の選り好みをしないで、何でも自分から進んでするものだと思う。

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会社生活 (13).タイプライター部門の職場

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当初は営業とSE合計で12~3名を私と平井尊子さんという女性の2人のクラーク
(事務員)で担当した。
コール・ディスパッチャーといって、お客様からの電動タイプライターや会計機の故障
の電話を受けて、CE(カスタマー・エンジニア)に連絡してお客様へ修理に行ってもら
う仕事、部品の在庫管理、部品代や修理代の請求書の発行、代金の受領、領収書
の発行、営業の売上げの集計などなど個人商店の事務のような仕事だった。
ときには営業をどなったこともある。

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会社生活 (12).三本立ての映画館

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石橋駅に西側にあまりきれいでないが、入館料がやすい映画館があった。
大抵3本立てで、夏はクーラーが効いていて、自分のアパートより居心地がよいので
よく通った。上映映画が変わるたびにこの映画館に通った。寿司屋で飲んで、映画館
で転寝するのが天国だった。網走番外地をたびたび見た記憶がある。高倉 健のファ
ンになった。面白かった。
その頃、アパートの私の部屋には、今のようにテレビ、クーラー、パソコン、掃除機、
洗濯機などはなかった。大部分の新入社員はそのようなものは持っていなかった。
仕事で使うテープレコーダーを時々部屋へもって帰って仕事したが、大きな鉄の塊で
後日ウォークマンが出た時には驚き、喜んだものだ。

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会社生活 (11).食事

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石橋駅の線路際の中華屋とこじんまりした寿司屋兼飲み屋が行きつけの店だった。
中華屋ではよくラーメンを食べた。関東から西へ行くとスープがあまくて困った。
ラーメンを頼むたびに醤油と生卵を注文する。その内ラーメンを頼むと何も言わなく
ても女の子が醤油注しを持ってくるようになった。
寿司屋では、バッテラ寿司と赤だしの味噌汁が定番だった。この寿司屋の女将さん
浪花千恵子に似た品のいいおばさんだった。
駅前の別の料理屋でたまにはテッチリを食べたりもした。
概して関東よりは大阪の方がうまいものが多いようだ。おいしい魚が豊富だ。
駅の東側に引っ越してからは、必ず通らなければならない道沿いに名前は忘れたが
1軒スナックがあって、毎晩のように寄って、ジュークボックスで音楽を聴きながらビ
ールを飲んだ。石原裕次郎の曲が多かったように記憶している。

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会社生活 (10).大阪の住まい

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大阪では、阪急宝塚線の石橋駅から徒歩約10分のところにアパートを借りた。
西国街道から少し入った田んぼの中のアパートで、アパートに風呂はないので、手ぬぐ
いと石鹸箱をさげて歩いて6~7分の銭湯へ行く。冬などアパートの近くまで帰ってくると
手ぬぐいが半部凍ってシャリシャリという状態になる。
私以外に同じIBMの社員でCE(カスタマー・エンジニア)2人部屋が部屋を借りていた。
アパートの家主は落合さん、奥さんと息子1人の家族だった。
家主の奥さんはピアノの先生だと聞いていたが、うるさい人だった。
たしか昭和40年の冬に私の部屋の前の水道の栓から水が垂れ流しで、階下の部屋が
水浸しになったとクレームを受けた。夜間水道の栓が凍り、昼間気温があがって氷が解
けて水道の栓から水が流れ出たものと思われる。
反論したが彼女聞く耳を持ち合わせていなかった。
これが元で、昭和41年に石橋駅の今までのアパートとは反対側(東側)にアパートを借
りて移った。

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会社生活 (9).転勤

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1月に入社、永田町・本社勤務。
当時東横線の祐天寺近くにアパートを借りており、よくタクシーに乗って永田町の会社
へ出勤した。
4月に神田のワカ末ビルにオフィスが引っ越しになった。
丁度この頃、事務機部長が向野さんから安藤さん(後に富士通へ行かれた)に替わった。
私は安藤部長とは話したことはなかったが、噂によると非常に厳しい人で、営業課長や
営業係長は営業部長を避けて、朝は客先直行で、オフィスはガラガラだった。
入社から数ヶ月して、この会社は営業主体の会社だということがわかり、大学の先輩の
営業課長からの誘いもあったので事務課長に営業をやりたいと申し出たら、嫌われて
大阪へ飛ばされることになった。
昭和40年8月大阪転勤の辞令が下りて、同9月1日から大阪勤務になった。

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会社生活 (8).給料

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前の会社は日給月給で休むと月給もボーナスも差し引かれて、月給など1万6~7千円
ということもあった。これでは学生時代に家から送金してもらっていた金額と大差ない。
IBMでは初任給は、3万2千円で通勤費は別途支給。ボーナスは本給の4ヶ月を夏と冬
の2回支給でこれはIBMに在職中ずっと変わらなかった。
何か給料が5割り増しになったような感じがした。
入社して4~5年して聞いた話だと、昇給して3ヶ月経過すれば、業績次第でマネジャー
の判断で昇給できるということだった。その後この恩恵をうけたことがあった。

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会社生活 (7).勤務時間とオフィス

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勤務時間は、当初は月~金曜日は、9時~17時、土曜日は半ドンで昼までだった。
後で、週休2日制になり、以前の土曜日の労働時間を月~金の5日間に割り振った
ので、9時~17時36分までになった。
前の会社には、社員食堂があったという記憶がなく、毎日昼になると外の食堂へ行
った。今度の会社には食堂があり、気の利いたものがある。和食と洋食の選択もで
きる。
ただし、酒を会社内で飲むことは厳禁、酒を飲んで会社内に立ち入ることも禁じられ
ていた。非常に良いルールだと思う。
オフィスやトイレの掃除は外注、社員は掃除をしなくてよい。
しかし、机の上や机の周りの整理、整頓と機密に関しては厳しかった。
職場は、仕事がしやすい環境が整っていた。

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会社生活 (6).事務屋

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入社の前に、あの重い電動タイプライターの営業を担いで営業をやれと言われたので、
事務屋(=クラーク)から始めたいと希望した。
新入社員教育は、新宿のビルで2~3日講習を受けただけだった。早く仕事がしたかった
ので、不満はなかった。
希望かなって事務屋の仕事が始まった。
最初は、電動タイプライターの売買契約書の整理だった。売買契約書がファイルされず
ダンボールの箱の中に無造作に詰め込まれている。10箱近くあったものを分類、ファ
イルした。営業部の事務というのは難しいものはなかった。

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会社生活 (5).転職試験

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昭和39年(1964年)の東京オリンピックが終わって、11月に日本アイ・ビー・エムの
永田町の本社に途中入社の試験を受けに行った。
当時はまだコンピューターという呼称はなく、電子計算機と言っていた。電子計算機が
何物だか知らなかった。でもオフィスは明るく、面接してくれた人と話して、高田馬場の
会社の文化とは全く違っていた。仕事の邪魔をするのではなく、やりたい仕事をやらせ
てもらえるという感触をもち、明るいアメリカに魅力を感じた。
日本アイ・ビー・エム(株)事務機部長 向野圭蔵氏 から是非来いと誘いを受けた。
12月に身元調査などが無事終了、正式に転職OKになった。
昭和40年1月15日 大正製薬退職、1月16日から、日本アイ・ビー・エム(株)での
会社生活が始まった。

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会社生活 (4).転職を思案

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悩んで転職を考え始めた頃、同じ会社の年配の女性に誘われて飲みに行ったら、
あなたはいくら優秀でも、同族会社では部長にさえなれない、転職した方がいい
とアドバイスしてくれ、数日したら新聞の求人広告を切り抜いて持ってきてくれた。
一つは豊年リバーという会社、もう一つが日本アイ・ビー・エムだった。
学生時代のクラスメートの親父が三菱重工の役員をしていて丁度アメリカのキャタ
ピラーと合弁会社を作るところで、有馬はその会社へ来ないかとの話もあり、そちら
の方で相談しようかとも考えたが、自力で転職したかったので、新聞の切抜きの方
にした。

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会社生活 (3).転職を考える

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オフィスは暗くあまりきれいではなかった。
主任も平社員もオフィスの掃除も、便所掃除もしていた。
給料は安く、部長以上のポジションは望めない、職場では正しいことを提案しても
嫌がらせで仕返しをされる。課長も主任も仕事ができるとか、尊敬できるという類の
人達ではなかった。仕事が面白くてたまらないかというと、仕事そのものも事務作
業ばかりで面白くもない。多分生意気な新入社員だったのだろう。
でも日に日に我慢できなくなってきた。
22歳の若者にとってははなはだ不愉快な職場になってしまった。

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会社生活 (2).仕事の改善案

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私の親戚にはサラリーマンはいないので、会社ってどんなところかさっぱりわからなかった。
まあ自分の不勉強のせいです。
それで、製薬会社ってどんなところか知らなかったが、入ってみると部長から上は同族で
他人が入る余地はなさそうだった。
仕事の方は、株式事務というのは商法等の法律に基づいて行なわなければならない。
法律の勉強をしなおしたら、瞬く間に人並み以上の仕事ができるようになった。
ある時今やっている仕事の仕方が法律に合致してないので改めるべきであると、先輩の
主任に説明したら、2人の主任がいや今のやりかたでいいんだと言い張る。部長と課長
がそばで聞いていてもその時は何も言わなかった。
数日して部長が有馬君の言うことが正しいようだ、仕事の仕方を変えようと指示を出した。
それからというもの2人の主任があいつはなまいきな新入社員ということで、ねちねちと
いじめをはじめた。居心地が悪くなってきた。

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会社生活 (1).新入社員のころ

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昭和39年(1964年)なんとか大学を卒業した。
就職先は高田馬場の製薬会社:大正製薬である。
同じ大学から私を含めて3人が大正製薬に就職した。
高田馬場の周りは今でこそきれいになって往時とはまったく違った風景になった。
当時は職場の先輩に連れられて駅前の汚い飲み屋でバクダンとかいう安いが強い酒を
よく飲みに行った。また、駅の近所にたしか「らんぶる」という音楽喫茶があって、同好の
士とクラシックのレコードを月に1回くらい聞きに行った。
この会社、当時は(今は知らないが)日給月給で、休むと給料も、ボーナスも引かれた。
で、交通費込みで月給が2万3千円くらいだったと記憶している。
風邪で1~2日休むと月給が1万6~7千円くらいで、学生時代に家から送金してもらっ
ていた額とあまり違わなかった。

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大学時代(24).就職の誘い

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アルバイトの応援演説をした県会議員候補:井上澄夫先生が、岡山の両備バスの松田
 基(もとい)社長を紹介するから一度会って来い、と世話をしてくれた。
松田社長は慶応義塾の大先輩だった。
岡山市内の両備バス本社に松田社長を訪ねてご挨拶、話を聞いた。たしか給料が1万
2000~3000円ではなかったかと記憶している。えらい安いので、その場で断るわけ
にもいかず、考えさせて欲しい、と言って辞した。
おじゃました翌日だか翌々日に松田社長から自宅に電話があって、母に是非両備バス
へ来るようにとお誘いがあった。母には給料がえらい安いから、自立できないので行き
たくないと告げたら、そうだな、ということになった。
それから間もなく、お断りのため松田社長を訪ねた。そしてら、松田社長いわく、「自分
がポケットマネーを出しても良いから来いという。
申し訳ないが、安い給料で、田舎のバス会社に勤める気はしないので丁重にお断りし
た。若いから東京でもっと華々しく仕事がしたかった。
今や両備バスは岡山の大財閥だが、私は自分の人生行路に全然後悔はしていない。
いや満足している。やりたいことをやってきたので。

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大学時代(23).就職試験

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大学4年生は1963年4月~1964年3月で、1963年に就職活動をした。
就職試験は2社受けた。1つはクラレ、もう1つは大正製薬で、結果としては大正製薬
へ行くことになった。大正製薬の試験については何も記憶がない。
クラレについては、2次試験で時の社長:大原総一郎さんの面接を受けた。
福沢諭吉先生が日清戦争だか日露戦争の時に国家に献金したことを私が非難して
失敗した。その時は本当にそう思っていたからしかたがない。
今では福沢諭吉先生が献金したことは立派なことで、現代人の私も大いに見習わ
なければならないと考えている。
その時はクラレに振られて残念だったが、40年経った今考えると結果論としては良
かったと思っている。
卒業した年に東京オリンピックがあった。

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大学時代(22).上山さん

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大学の4人グループの内の1人、上山(カミヤマ)君には大変お世話になりました。
その当時丁度上山さんの家が日吉の大学の裏にあり、私は日吉駅の反対側の西田下宿
にいたこともあって、しょっちゅうおじゃまさせていただいた。おじゃますると大抵ご飯をご馳
走になったり、4人でマージャンをした。私のような貧乏人のせがれが生まれてはじめて「
焼きリンゴ」を食べさせていただいた。こんなに旨いものがあるのかと思った。テンプラやフ
ライを醤油をつけて食べ始めたのも上山さんの家での影響だ。今でもほとんど醤油をつけて
食べている。上山君のお父さん、お母さん、お兄さん、お姉さん、家族で私をかわいがって
いただいた。上山君のお父さんは神主さんであり、易の大家でお弟子さんが何人も勉強に
来ていて、私も折に触れ神道や易の話を伺って勉強させていただいた。
その上上山さん夫妻は嫁さんのお世話までしていただいた私にとっての大恩人である。
何のお返しもできないで心苦しいかぎりである。
上山君のお母さんが昨年9月91歳で逝去された。
心からご冥福をお祈りいたします。ありがとうございました。

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大学時代(21).ダンス

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大学1年の時、先輩の藤井さんが日吉の下宿にやってきて、ダンスパーティーの券を
買えと言う。藤井さんは岡山の玉野高校で1年先輩。大学も同じで、歓迎会などして
いただいた手前買わないとまずい。ところが私いなかっぺでダンスなどしたことがない。
そしたら藤井先輩、下宿の4畳半の私の部屋で、ブルースだの、ルンバだの、ジルバ
だのと自分でステップ踏んでステップを私に教え始めた。
その次にダンスを教習所で習えという。元住吉の小さなダンスの教習所へ何回か通っ
て学生のダンス・パーティーに行ったら、芋の子を洗うが如く立て込んでいて、ほとんど
ジルバとルンバだったような記憶がある。
それからというもの暫く先輩からパー券を付き合わされた。
でも私はなんでも経験だと思っているので、ダンスもいい経験をさせてもらったと感謝
している。
藤井先輩ありがとうございました。今はどうしていらっしゃいますか?

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子供時代(37).そろばん

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小学校の5年生、6年生の時に、そろばん塾に通った。坂道を登りきった藁屋根の
難波先生のそろばん塾だ。最初は6級から始めて5級、4級、3級と進んだ。1年くらいで
3級までいった。進級するには商工会議所の検定試験に合格しなければならない。
私は2級の練習までいった。2級になると暗算や数字の桁数を大きくなり、自分にはでき
ないと思ったので止めた。勉強の方が面白くなったこともある。
そろばんには5つ玉と6つ玉があって、6つ玉の方は大きなそろばんで、商売人が使って
いたように記憶している。我が家にもあった。私が使ったのは5つ玉のスマートなそろばんだ。
10になると1桁あがる、10進法をそのままにしたものだ。
電卓は便利だが、そろばんがなつかしい。

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子供時代(36).雛あらし

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3月3日の雛祭りの日に思い出した。
そう、雛あらしのことを。
3月3日には、女の子がいる家では雛段を飾り、お菓子や餅をお供えする。
いやしていた。女の子の親が他所の家の子供を招くこともある。
子供たちが男の子も、女の子も連れ立って、お雛さんを飾っている家におじゃまする。
お雛さんを拝見して帰りに紙に包んだお菓子をいただいて帰る。
懐かしい思い出になってしまった。我が家など2人娘がいるのに、家が狭いものだから、
7段飾り?を久しく飾ったことはない。今や家族は核家族になり、家は狭く、特に都会では
隣近所とあまり付き合わなくなった。
親は勉強勉強と言っているが、子供の学力は低下、いじめと自殺の地獄になってしまった。
大人もリストラという社会的ないじめを正々堂々とやる時代だ。
我々がこんな世界を作ったのか?罪は重い。

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子供時代(35).甘茶

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4月8日は何の日かご存知だろうか?
私の誕生日ではない。かのお釈迦様の誕生日である。
家の近くの山の中腹に小さなお寺さんがある。みな「お大師さん」と呼んでいたから、
真言宗のお寺さんだと思う。
このお寺さんで毎年4月8日にはお釈迦様の誕生を祝って甘茶供養をする。
50~60センチの高さのお寺を模した家型の中にお釈迦様の像を祭り、そのお象に
柄杓(ひしゃく)で甘茶をかける。インドはお茶の産地だということは知っているが、
何故甘茶なのかは残念ながら知らない。
供養した後は10円出して、サイダー瓶に甘茶をいただいて帰る。
物のない時代のせいか、この甘茶がけっこう美味しかった。
こういうことも私が真言宗の信徒である一因かもしれない。

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子供時代(34).七夕様

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夏休みだから8月だったと思う。リヤカーに竹をいっぱい積んで売りに来る。
竹を縄で木に縛り付けて、その竹の葉に短冊(色紙)に願い事を書いてコヨリ
で結ぶ。朝早く起きて、里芋の葉にたまったきれいな玉のような雫を取って
きて墨をすって願い事を書く。こうすると字が上手になると教わった。
そして竹の近くの床机(エンダイといった)には、ナスビやキュウリにマッチの
軸を刺して足をつくった動物を供えた。団子などもお供えした記憶がある。
織女と牽牛が年に1度出会うという田舎の天の川はきれいで幻想的だった。
時々流れ星がすばやく流れてゆく。どこかでまた1人天国へ行ったようだ。

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子供時代(33).国分寺の五重塔

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中学校の時だったと思うが、学校から歴史の授業の一環として、岡山県総社市の
国分寺を見学に行った。その頃は五重塔の中へ入らせてくれた。中へ入ると、外
から見るのとはまるで違う。まるで楽屋裏を覗いている感じだ。最上階まで登った
が、所狭しと木組みがあり、木に遠慮しながら登った。
外から見ると、その姿や端正で美しく、風格がある。
国分寺は、741年に聖武天皇によって各地に建立されたことは知っているが、五
重塔は何に使用したのであろうか?
上の写真は、成田山新勝寺の経倉。念のため。

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子供時代(32).力道山

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家には真空管のラジオはあったが、テレビはなかった。
近所の同級生の渡木のまさこちゃんの家にはテレビがあって、子供4~5人で押しかけて
テレビを見せてもらった。しょっちゅうお邪魔するわけには行かないので、見たい番組の時
だけ見せてもらった。テレビは現在のカラーテレビではなく、白黒テレビだった。
力道山全盛の時代で、テレビですぐに力道山のファンになった。
力道山は強かった。面白かった。それで格闘技がすきになったらしい。
生まれて初めて実物のボクシングを見たのもその頃だった。三井造船の清輝寮で拳闘の
試合があるから見に行こうと誘われて行った。これは大して面白くなかった。
ボクシングの試合は60数年の人生でたった2回しか見ていない。第2回目は、今から30
数年前に後楽園で藤たけしの試合をリングサイドで見た。2ラウンドに相手があっけなく
ノックアウトされ、パンチとはこんなものかと感心した記憶がある。

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子供時代(31).マンガ

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今はもうなくなったが、我が田舎町に貸本屋があった。
竹内ツナヨシの「赤銅鈴の助」の絵が気に入っていて、ストーリーも面白く何度も借り出して
勉強と家の手伝いの合間に読んだ。このマンガで千葉周作を知った。
他のマンガには記憶がない。
最近家内の父が時代物を読むので、私も思い出して、読んでみた。
眠狂四郎無頼控、雲霧仁左衛門、梟の城、空海の風景、忍の風、・・・。とても面白かった。
何故か懐かしい感じがした。
それにしても司馬遼太郎という人は天才か、神様のような人だと思った。
私など1冊の本を読むのでさえ大変なのに、よくもまあ何10冊?もの本を書くなんて考え
られない。

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子供時代(30).紙芝居

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紙芝居のおじさんが帽子をかぶり、荷台に紙芝居の道具を積んで、笛を鳴らしながら
やってくる。笛の音を聞くと10円もっておじさんのところへ駆けつける。10円もってい
くとアメだとか味付けしたスルメをくれて、紙芝居を見る。おじさんいい声していて、感
情を込めて語るので聞き入ったものだ。
物語というかメニューで記憶しているのは、「光線魔人(こうせんまじん)」と「黄金バット」
の2つくらいだ。とても面白かった。
おじさんの語り口は、後日人前で話す時におおいに参考になった。

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子供時代(29).キャラメルとカン蹴り

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家の近所に駄菓子屋があってよく10円もらって菓子を買いに行った。
ラムネ菓子が好きだった。たしかラムネも売っていたように思う。
ラムネの玉を「ランタン」と呼んで、子供同士で賭けをやった。
またカン蹴り(カンケリ)もして遊んだ。空きカンを立て、鬼になった子はカンから数メートル
離れる。数人の子供の中の一人がカンを蹴って皆で隠れる、鬼はカンを拾って来て元の
位置に置いてから出なければ、隠れた子を探せない。隠れた子を探しても、鬼の方が先
にカンに戻って踏まないと、見つけられた子がカンを蹴ってやり直しになる。
今思うと隠れる速さ、見つかってからカンに戻る早さなど、敏捷性を知らず知らずに子供
同士で競い、訓練したことになる。単純な遊びだが捨てたものではない。

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