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2007年2月28日
2007年2月27日

小学生の頃に水道が来るまでは井戸水を使用した。
その井戸水は金気で茶色に濁っており、そのままでは飲めないので、濾して使用した。
コンクリートの瓶の中に砂や小石と棕櫚を交互に入れて金気の水を濾していた。
濾した水は食器を洗ったり、顔をあらったりするのに使用した。
飲み水は家から100メートルばかり離れた藤川さんの家にきれいな水が出ていたので、
バケツで水をもらいに行ってこれを飲み水にした。バケツに一杯水を入れて両手に持つ
と子供にはかなりの重さだ。
ある時家の庭を掘っていたら、1.5メートルくらいの深さのところから海の藻葉が沢山出
てきた。家のあるところは大昔は海だった証拠。こんなところにいい水が出るはずはない。
2007年2月26日

春の桜の時期になると、学校で遠足があり、花見に行く。
行く先は、歩いて約1時間30分くらいのところに王子ガ嶽(おうじがたけ)という桜の
名所があって、そこへ歩いてゆく。王子ガ嶽というところは、瀬戸内海に面して切り
立った山の上にあり、上ると瀬戸が一望できる景観によいところでもある。
遠足に日は母が早起きして弁当をこしらえてくれる。細かいことは忘れたが、弁当に
は日頃食べられないビフテキと卵焼きとりんごが入っている。私は度々他人の弁当
をのぞいてみたがビフテキなんか持ってきている子は一人もいなかった。母がどう
いう気持ちで弁当にビフテキを入れてくれたかわからないが、当時の我が家の経済
状況からすると思い出す度に親のありがたさで胸が締め付けられ、涙を催す。
これだけではないが、いい親を持って我々男5人兄弟は幸せだ。
2007年2月25日

母の弟の吉治さんが4歳の時に岡山の西川に落ちて亡くなっているため、水には
厳しくて小学校5年生までは海水浴には行かせえてもらえなかった。したがって、
泳ぎ方を知らなかった。小学6年生の時親の目を盗んで初めて渋川の海水浴場
へ行った。水の中で浮こうとすればするほど沈む。2~3度おぼれそうになり、水を
飲んでしまった。そこであわてずに肺に一杯空気を吸い込んで、体を大の字にした
らなんなく浮いた。それからというもの泳いでいて疲れたら、肺に空気を一杯吸い
込んで、浮いて休むことにした。
中学生の時貸しボート屋のボートを借りて、力いっぱいオールを漕いだら、バキッと
いう音がしてオールが折れてしまった。浜に帰りボート屋へボートを返しにいったら、
ボート屋が「よほど腕力が強いんですね!」と感心して、弁償は許してくれた。
今は腕は細るばかりで昔が懐かしい。
2007年2月24日
2007年2月23日
2007年2月22日

戦後間もなくは食べるものがなく、カボチャ、サトイモ、ジャガイモ、大根、ほうれん草などを
家の裏の畑や川ふちに畑をつくって栽培して食べた。大体少しの米と野菜を入れた雑炊が
多かった。父が子供用にと裏庭に柿の木やイチジクの木を植えてくれた。
よく風呂の残り火にサツマイモを入れて、焼き芋にして食べた。焼き芋ができるまで待てな
い時はサツマイモを生で食べたこともある。
食料はすべて配給制度で、配給されるが到底足らないので、カボチャなどを畑で栽培する
が、主食の米がない。当時まじめな裁判官がいて、配給のものだけ食べていて栄養失調
で亡くなったという笑うに笑えない話もある。
こういう状況ではヤミが横行する。北朝鮮じゃないがヤミ市ができるし、どの家もヤミ米を買
い出しに農家へ行く。母が帯で弟を背負い、ネンネコをかけて、私の手を引いて汽車に乗っ
て宇野線の茶屋町駅の近くまで買いに行く。円は封鎖されていてお金はないので、母は
自分の着物を持参、それと交換する、つまり物物交換だ。我が家だけでなくどの家でも奥
さんの着物と米を交換した。交換した米は、弟を背負った帯の下に縛りつけネンネコで隠し
て持ち帰る。ヤミ米という意味は、見つかったら警察に没収されるということだ。
幸いにして捕まったことはなかった。
2007年2月21日

近くの農家でサトウキビをつくっている家があった。
この農家は蓮根(れんこん)をつくっていたので「れんこん屋」と呼ばれていた。
農家だから勿論米も野菜もつくっていた。夏にヤンマとんぼを夢中で追いかけて
水田に入り、おじさんに追いかけられたのはこの家の水田だった。
ところで、私の記憶によれば、サトウキビには外皮が緑と赤の2種類あった。
当時は甘いものがない時代で、より甘いものを探していた。赤の方が甘味が
強くこれを好んで食べた。節のところで切って、外側の皮を歯でひきむしって
中身を噛んで甘い汁だけ吸い、かすははき捨てる。サトウキビを食べたのは
せいぜい小学校の2~3年生の頃までで、後年社会へ出て沖縄へ出張した時
に食べるまで、多分40年くらいは食べる機会がなかった。
2007年2月20日

日比小学校は、子供の足で、家から歩いて15分くらいのところにあった。
学校の行き帰りには、鉄工所があって鉄を削るのにものめずらしく見入ったり、馬車の縦
に長い荷台の最後部にぶら下がったり、山道を通ってヤマイチゴを取って食べたりとおも
しろいことが山ほどあった。しかし、魚屋の小僧としては道草を食っているわけには行かない。
帰れば、魚の配達、掃除、子守などが待っている。
同級生の中には山へ山犬を取りに行ったものもいた。
私の家は男ばかり5人兄弟だが、その頃はどこの家にもたいてい4~5人の子供がいた。
多い家では8~10人くらいの子供がいた。兄弟の数が少なければもっと取り分が多いの
にと思ったこともある。そのためか我が家では子供は娘が2人だけである。
2007年2月19日
2007年2月18日
2007年2月17日

子供時代の好物は、赤飯とリンゴだった。
赤飯は今でも好きだが、好物というほどのものではない。リンゴは今は好きでも
嫌いでもない。人間の嗜好は、人間が変わるのと同じように、変わる。
赤飯はお祝い事がある時くらいしか食べられなかった。餅とはまた違った食感が
あり、小豆(あずき)に染まったあの赤い色がなんとも言えず気に入っている。
ひよっとするとリンゴが好きだったのも、赤い色に魅せられていたのかもしれない。
そう言えば色の中では私は赤が好きだ。
赤も幅広く、なかなか好きな赤の色に会えない。
私が社会に出て3~4年経った頃、大阪から福岡まで飛行機で出張した。
タラップから下りて歩いていると、サングラスをかけて、真っ赤なコートを着た女性
が前を歩いて行くではないか。同行した課長からあれが中尾ミエさんと聞いて驚
いたことを覚えている。
2007年2月16日
2007年2月15日

私が5歳になる2ヶ月くらい前に南海地震があった。
かなり揺れて、相当な被害があった地震だった。
ウィキペディアによると、1946年12月21日午前4時19分、和歌山県潮岬沖で発生、
マグニチュード 8.0 で、死者・行方不明者1,443名、家屋全壊11,591戸、半壊
23,487戸、焼失2,598戸 である。
岡山県の玉野でも大変だった。父はさっと窓を開けて、4歳の私と1歳の弟を両脇にか
かえて脱兎の如く窓から飛び出した。おかげで怪我もせず助かった。
その時我が家では、カナケの水を濾すコンクリートの重い瓶が題から落ちて、下に置い
てあったお釜さんがつぶれて使えなくなった。他にいくつかつぶれたものがあった。
ここでまたもや父に命を助けてもらった。父に改めて感謝するとともに、冥福を祈ります。
2007年2月14日

確か私が小学校1年生の時だったと思うが、父が自転車にトロバコ一杯の鰯と交換に
シルバーシェパードの子犬をもらい、懐に入れて連れ帰ってきた。
メス犬だった。名は「マル」とつけた。とても頭のいい、人懐こい犬、いや家族になった。
またたくまに大きくなり、冬など私が離れで寝ていると、引き戸を前足で開けて、私が
寝ている掛け布団の上に丸まって寝ている。翌朝気がつくと布団の上にマルの黒い
足跡が転々とついていることがしょっちゅうだった。
また家族がご飯を食べていると、テーブルの上に前足を乗せ首を出して私の箸から
魚をもらう。牛肉の筋を入れて犬用にご飯を炊いても食べなくなった。人間の味にな
れたせいかもしれない。その時は可愛いので人間のおかずを与えたが、これがあだ
になりマルは皮膚病を何度も患った。これは私の落ち度で、申し訳ないことをしたと
反省している。
マルは多産系とみえ毎年沢山子供を生んだ。最高13匹だった。
この可愛いマルは私が高校生2年の時老衰でなくなった。獣医さんに何度も来ても
らって注射してもらったが年には勝てなかった。亡くなる数日前には、マルと呼ぶと
ふらふらしながら出てきた。
私の兄弟「マル」の冥福を今も祈っている。
来世でまた「マル」と暮らしたい。
2007年2月13日

戦後もののないころ、「たまご」はご馳走だった。
たまごは鶏が産む。鶏は、ひよこ→ひな→にわとり へと成長する。
したがって、たまごを食べるためには、ひよこを飼わねばならないが、ひよこは飼うのが
大変なので少し大きくなった「ひな」を買ってきて育てることになる。鶏小屋を魚のトロバ
コでこしらえ、米屋でぬかを買ってきて、大根葉など菜っ葉を刻んで米ぬかと混ぜて鶏
に食べさせる。こればかり食べさせていると、たまごの殻が柔らかくなるので、時々カキ
の殻を金槌で叩いて細かくして混ぜる。毎朝学校へ行く前にえさをやり、また学校から
帰ってきたらえさをやる。だんだん大きくなってやっとたまごを生み始める。すごくうれし
かった。飼う鶏の数はせいぜい5~6羽だが雌鶏ばかりでなく1羽だけ雄鶏を入れておく。
父が友達を連れてくると酒が始まる。酒には魚が要る。そこでせっかく私が育てた鶏を
スキヤキにして皆で食べる。私にも食べろ言われるが、肉を口に入れても、自分が育てた
生き物をとうてい食べる気になれずはきだした。肉というものは生き物を殺してすぐ食べる
と硬くておいしくないということもおぼえた。
大人は少年のうぶな心を傷つけた。その影響か高校生までは鶏は食べなかった。
今でも食べないことはないが、自分で食べたいとは思わない。
少年時代のうぶな心を大事にしたいものだ。
2007年2月12日

選挙の応援演説以外では、家庭教師を何件もやった。
岡山の家の歩いて10分くらいのところに中尾さんの家があった。この家は正和工業
という会社を持っていた。三井造船の下請け会社で、従業員も400人くらいはいたと
思う。最初は、造船所の中の現場で、船の上で機材を運ぶ作業を1週間ほど担当した。
1週間後に事務所に呼ばれて、明日から中尾家へ出勤せよという。行ってみると、中尾
夫人が、「午前中は、息子の家庭教師をして、午後は遊びに付き合って欲しい」とのこと。
勉強も教えたが、午後は渋川の海水浴場の正和工業の海の家へ行って遊んだ。
正和工業で作ったモーターボートで、渋川近辺から宇野あたりまで出かけた。
その後息子の幸一君が慶應高校を受験するので東京まで同行したこともあった。その時
生まれてはじめて(確かつばめだったと記憶しているが)一等寝台に乗せてもらった。
品川のプリンスホテルに泊めてもらい、銀座のフランス料理のプルニエや、日本料理の
辻留め、フタバファーなどに連れて行ってもらった。いずれも生まれて初めてだったが、
田舎っぺの私の大きな自信になった。実は中尾夫人は女子美卒でエリザベステーラーの
ような美人だった。私の母と中尾夫人が昵懇で、中尾夫人が私をかわいがってくれた
という関係だった。美人薄命か、中尾夫人は私が大学2年の冬休みに帰省する時に
亡くなられた。冥福をお祈りします。
プリンスホテルに泊めてもらったとき初めて西洋式のバスを使った。
玉野の社長の中には、洋式バスの使い方がわからなくて、手でバスの穴をふさいで
入ったという豪傑もいたそうだ。私はなんとか大丈夫でした。
2007年2月11日

大学に入学した年の秋に早慶6連戦があった。
私たちが入学した年に卒業した先輩は六大学野球での優勝を知らない。2~3年優勝を
知らないで卒業した先輩たちがいた。
今年は早慶戦に勝てば六大学野球優勝ということで、慶應側の熱の入れようは大変な
ものだった。勝負がつかず6連戦になった。私も毎日神宮球場へ通った。1度は球場の
周りで徹夜したこともある。慶應側は大勢座り込んでいるのに、早稲田側へ行くと誰も
いない。でも何とか勝つことを祈った。試合の合間に早稲田側から、トランペットの闘牛士
のマンボが聞こえてくる。これが勇ましくてすばらしい。すごく印象に残っている。
多分5、6年ぶりに六大学野球での慶應優勝ということになり、優勝を祝って神宮球場
から三田の校舎まで盛大に提灯行列した。その後銀座のビアホール「ライオン」で祝杯
を挙げた。面白いことに、人数は少ないが、早慶戦で早稲田が勝つと、慶應の学生が
早稲田へ行ってご馳走になり、慶應が勝つと早稲田の学生がライオンへ来てご馳走に
なる、という仲良しライバルはなつかしい。
2007年2月10日

玉野市の日比に観音院という真言宗のお寺がある。はだか祭りはこのお寺で行な
われていた。過去形なのは、今は行なわれていないからだ。
往時のはだか祭りは概要次のとおりであった。
寒い最中に、フンドシいっちょうの男が大勢集まり、お寺の高い窓から投げられる神木
(シンギ)一本を取り合い、遊郭に持ち込んで、その神木に枡をかぶせると、勝負あった。
終わりということになる。神木を持ち込んだ人は賞金をもらえる。持ち込まれた店は縁起
がよいということで、持ち込んだ人を歓待する。
腕っ節の強そうなお兄さん達が寒さで白い息をはきながら、上になり、下になり、しながら
神木を奪い合う勇壮なイベントである。
岡山県では、西大寺のハダカ祭りが有名だが、昔は我が故郷の田舎町でも同じような祭
りがあった。
2007年2月 9日

小学生の頃、岡山には黒住教というのがあって、そこの日曜学校に行くようになった。
多分母にすすめられて行ったのだと思う。詳しいことは覚えていないが、神道系の宗教
だったように記憶している。教会へ行ったら歌を歌って神様に祈った。
また、家の近所の市役所の支所の2階で毎週キリスト教の日曜学校が始まりしばらく
通ったことがある。賛美歌を歌いお祈りをした。イエス・キリストを神様と思ったりもした。
しかしなぜか行かなくなった。店の手伝い、子守があり、勉強も忙しくなったせいかもし
れない。大学に入り歴史を勉強するようになって、キリスト教が西欧の植民地獲得の
先兵として活躍したことを知ってからは、キリスト教を信用できなくなった。
夏になると20分くらい歩いたところにある御崎様という神社(氏神様)で「輪(わ)くぐり」
があって、輪をくぐると厄除けになるといい友達と連れ立っていったものだ。
父は、四国の金比羅山や、備中高松の最上位稲荷へもお参りに連れて行ってくれた。
母はどこへも一緒に行ったことはないが、毎朝洗面が済むと裏庭に出て、お日様に手
を合わせて呪文を唱えていた。いまだに祈る母が手を合わせる姿をはっきりと思い出
すことができる。
父母が信心深かったことが私の宗教観に大きく影響していると思うが、そのことについ
ても父母に大いに感謝している。
2007年2月 8日

大学の1年生の時には毎週英語の時間があって森田先生がやってくる。
この先生、私が宿題をしていかない迷惑をかえりみず、しゅっちゅう私の席へ来て、
君遠山君の兄弟か親戚なのかと聞く。どうやら私がダークダックスの遠山さんに似
ているらしく、森田先生は遠山さんを教えたことがあるとのこと。よく聞いていると、
自慢してるみたいだった。遠山さんには申し訳ないが、光栄だが、迷惑でもあった。
クラスに武藤兵吉(=石坂浩二)というのがいて、頻繁に宿題の答えを私に聞きにき
た。彼は1年生は私と同じ法学部だったが、演劇に打ち込むために、2年生から転部、
文学部へ行った。この男私と違って田園調布のおぼっちゃんでよく学校を欠席してい
た。卒業して10年くらい経って六本木のクラブで遭遇した時、私のことは記憶にない
、どなたでしょうと言った。よほど頭の悪いやつか、たかられると思ったか、どちらか
だろうが、どちらにしても見下げた男に成り果てたものである。
2007年2月 7日

大学に入って初めての夏、岡山へ帰ってしばらくすると玉野高校の同級生で関西大学
に入った今村君がなくなったという知らせがあった。
聞いてみると、夏休みに入って滝つぼへ泳ぎに行って、飛び込んだところ、水がにごって
いたので見えなかったが下が岩だった。それで岩に頭を打ち付けて亡くなったという。
この今村君という男、すごくさっぱりした人柄のいい人だった。ほんとにいい人は早く亡く
なると聞いていたが、残念ながらそのとおりになってしまった。
この今村君、宇野港のまえの直島の自宅から船で通学していた。同級生でお悔やみに
連れ立って行った。若い一人息子を突然亡くした親父さんが気の毒でならなかった。
お通夜だったので、まあ上がれといわれて座敷へ上がると、1升瓶の日本酒を出して飲
めという。それまで日本酒はほとんど飲んだことがなかった。よほどのことがない限り、
断らない性格?が禍して、すすめられるままに飲んでしまった。
1杯目は臭かったが、2杯目からだんだん水のように感じたので、グラスを重ねた。
思えば酒の飲み方を知らないのに、よくも無謀なことをしたものだ。
酔っぱらって歩くのが大変になった。半分くらい腰が立たない状態になった。
これが生まれて初めての酒の失敗である。
2007年2月 6日

岡山の有楽流の森下先生は中国で始めて女性として自動車のセールスウーマンした
という傑物で、お弟子さんも沢山いた。そのお弟子さんの中に、呉服屋をしている奥さん
がいて、ご主人が県会議員にでるというので、手伝いのアルバイトの紹介を頼まれた。
その話が私に回ってきた。選挙の応援演説をするアルバイトだった。勿論暇な私は引き
受けた。お陰でたしか10日間だったと思うが、朝から晩まで玉野市を隅から隅まで回っ
た。選挙事務所へ帰ってくると毎晩酒盛りで約束の報酬以外にも奥さんが小遣いをくれ
てきつかったが楽しい思いもさせてもらった。
そういえば思い出したが、手伝いに来ていた女性で警察官の娘さんで、私と同年輩の
人がいた。その人はこれが美人で、日本舞踊の名取で稽古場を持っていて、お弟子さ
んをとっていた。選挙運動の最中に同じ手伝いの佐藤君という男子の大学生とその美
人と3人でその人の稽古場で酒盛りして酔っ払い美人の名取に開放してもらったことが
ある。そのお師匠さん、けっしてコーヒーは飲まなかった。なぜかと聞いたら、「 コーヒ
ーのむと肌が荒れるから。 」という。ここまで美容に気を使う女性もいるのかと関心した。
2007年2月 5日

大岡山にいるころ、以前西片町のフランス語の先生のところへいっしょに行ったS君
が近くのアパートにいて、彼から親戚のおばあちゃんがお茶の先生をしているので、
一緒にお稽古に行こうという誘いがあった。
JALのスチュワーデスが2人お稽古に来ていて一緒だというので、釣られて行った。
当時のJALのスチュワーデスというのは、女性の中のエリートだった。昭和37~
38年ころで、飛行機に乗る人がまだ少ないじだいだったから。2人とも美人だった。
この松浦家というのは、江戸時代に北海道を探検した「松浦武四郎」という方の子孫
で由緒ある家柄。そのせいか、お稽古に行くたびにすばらしい掛け軸や茶碗を出して
見せてくれる。いろんなお茶碗の中でも楽が一番私の趣味にあっていた。その次が
萩だ。岡山へ帰ると、近所に有楽流の森下というお茶の先生がいてお稽古に来いと
いうので行っていた。まだ2~3回しかお稽古していないのに、大聖寺で月釜がある
から出ろという。いくら野次馬根性旺盛な私でも恥を書くのは嫌だから断った。
そしたら先生いわく、「 幸ちゃん(私のこと)の両サイドに姉さん弟子を2人つけるから
ぜひ行きなさい。 」という。もう断れない。それでとうとう行った。お手前をいただいて
立とうとしたら、足がしびれて感覚がない。部屋から出ようとして足で襖を大きな音を
たててはずしてしっまった。悪いことに同級生の妹(O本輝子さん)が来ていて大恥を
かいてしまった。その時は正直冷や汗をかきました。
2007年2月 4日

大学の3年生になって、東京の目黒区大岡山に引越しした。
引越し先は、大岡山の大地主の栗山さんの納屋を改造した部屋をお借りした。
5部屋あって、私以外は4人とも東京工業大学の秀才ばかりだった。
2人は建築、1人は重電だったと記憶している。
東京工業大学が大岡山にあったので、東京工大の学生が多かったようだ。
一度だけ重電専攻の伊藤君に案内してもらい東京工大の中を見せてもらい、食堂で
カレーライスを食べた。大学の中はえらい殺風景だった。
その頃私は食事はたいてい近くの飯屋へ行っていた。
30センチ四方くらいのトレイに、ドンブリ飯が1杯、おかずはアジフライとかカキフライとか
1品、あとは味噌汁、と小さな皿にのったお新香だけ。今から思うと健康的だが、20歳
前後の若者の私には少々物足りなかった。1年生の冬休みで帰省した時には67キロ
グラムになっていた。そのころの写真を見るとまるで骨と皮だ。
3年生の時、何時だか忘れたが、昼と夜が逆になって、明け方寝て夕方起きる生活を
するようになった。でも一つだけ楽しみがあった。大家の栗山さんの飼っているマルチー
スを連れて散歩に行くことだ。大家さんは助かるし、ワンちゃんも喜んでいた。ワンちゃ
んは私が迎えに行くと、寝転がって腹を出して、手足を振って喜びを表現してくれる。
犬好きの私のには当時唯一の楽しみだった。
その後そのマルチースがフィラリアで亡くなってすごくさびしく悲しい思いをした。
2007年2月 3日

私が行った大学は結構暮らし向きのよい家の子弟が多く、私はまるで場違いの
観がした。俺の親父も母親も身を粉にして朝から晩まで働いているのになんで
貧乏なんだろうと4年間悩んだ。結論はでなかったが、自分自身貧乏から抜け出す
ことを最優先して考えるようになった。金の亡者になったわけではない。
でもこんなこともあった。
同じクラスのT君、会津の財閥の子孫で、父親は東大卒でOO重工の副社長まで
やった。私はよくT君の鷹番町の家へ遊びに行き食客になった。
この親父さん、チョコレートをつまみながら、ブランデーをなめる。飲みながら息子の
クラスメートをこき下ろす。友人たちはこの親父さんを皆避けていた。
後にT君は家を出て江古田の歯科医の家に下宿、よくそこへ遊びに行った。
ある時酒でも飲もうかということに成ったが、お金がない。T君確かカメラ:キャノネット
を持っていて、それじゃ質屋へ行くというのでついてゆくことにした。
これが私が質屋の暖簾をくぐった最初だった。
このT君に家から毎月いくらもらっているのかと聞いたら、1万5000円だという。
私が送ってもらっていた額と同じでちょっぴり安心したが、後年貧乏な家から毎月
1万5000円も送ってもらっていたのかと思うと、親不孝した、兄弟にも迷惑をかけた
とくやまれてならなかった。
2007年2月 2日

大学2年の時のこと、同じ下宿の友達S君が学年末になって、俺試験できなくて退学
になるかもしれない、と青い顔。
この人、体育会のボート部に入っていて、熱中するあまり1年生を2回経験している。
私が行った大学は1学年は2回しかできないので、同じ学年2回目の学年末試験に
及第しないと退学になることになっている。
フランス語の試験ができなかったので、やばい、という。
これから西片町のフランス語の先生の自宅へ頼みに行くとのこと。
私つい野次馬根性が首をもたげて、俺も一緒について行こうかというと。OK。
S君が途中で確かカルピスを買って、ビンを落として割れて、もう一度買いなおした。
先生の自宅へ伺うと応接間に通してくれ、S君と私が並んで座り、S君が試験が
できなかったが何とかして欲しいと、お願いした。先生、難しい顔をして聞いている。
先生は勿論S君の答案用紙を見ていたので、難しい顔をしていたのだろう。
そこで私が「 今年進級できないと、退学になって、大事な友人が1人いなくなるので、
何とか進級をお願いします。 」とお願いした。
すると、先生「 友人の前だけど、答案用紙見せてもかまわないか? 」という。
S君OK。見て驚いた、零点である。赤字でちゃんと書いている。
またまた、先生に大事な友人の喪失を訴える。
先生、これに感動してくれたのか、 「 来年は知らないよ! 」と言ってくれた。
先生の返事に気持ちは万歳だが、まさかそれを表情に表すわけにもゆかず、静かに
感謝の意を述べて辞去した。お陰でS君無事に2年生に進級した。
今から45年前の懐かしい思い出である。
2007年2月 1日

政府は少子化対策として養育費の補助などいくつもの対策を講じているが、靴の
底から足の裏をかいているように思える。
今自分がもし20歳代の男性、女性だったらどう考えるか。
リストラ、リストラで正社員を減らし、契約社員、パートなど非正社員が増加、何時
リストラで首になるかわからない。結婚して子供ができ、首にでもなったら生活に
窮することになる。こんな不安定な状態で結婚して敢えて苦労することはない。
一人なら何とか食っていけるし気楽だ。四人家族になると相当リスクが大きくなる
ので、結婚はやめとこう。親の家にいれば天国なのに。
それに今から30~40年前には男性が1人働けば4人家族が生活できたが、現在
は2人働かなければ4人家族が生活できないような状況になっている。
女性が男性と同じように仕事を持つ時代にもなっている。
若い人達が何故結婚したがらないのか?、子供を生みたがらないのか?を考える
ことが肝要ではないだろうか。
一日も早く、問題の本質を明らかにして、対策を実行しなければならない。
厚生労働大臣が、「 女性は子供を生む機械だ。女性が頑張らないから子供が増
えない。 」と言ったという新聞記事が出、テレビでも大きく報道されたが、ひどい人
を大臣にしたものだ。女性を侮辱するのもはなはだしいし、問題の本質がぜんぜん
わかっていない。即刻議員を辞職してお詫びすべきである。