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父の偉大さ(2).潜水艦と兵役免除

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父は三井造船で、潜水艦,人間魚雷の配管(パイピング)を担当、部下が60人いた。
当時三井造船は軍管理の工場で、一度工場へ入ると1ヶ月くらい外へ出られないことが
よくあった、と言っていた。
たまにドイツの潜水艦が保守にやってくるが入り口に警備兵が立ち、中へは入れなかった。
なんでもドイツの潜水艦は南方から錫を積んできたという。
8月15日の終戦の詔勅があっても、軍からはまだ人間魚雷:回天?を作れといってきて、
2~3日は作り続けた。出来上がったら今度は捨てろというので捨てに行った。
小学生の頃父と宇高連絡船の乗ると、このあたりは水深が深くここへ捨てた、と言っていた。

戦争中に父に赤紙が来て(召集)、広島の江田島へ入営した。
私は母に連れられて広島まで父を送りに行って、泊まった旅館で寝小便をして母を困らせた。
しかし、父は3日軍隊にいただけで除隊、造船所へ送り返された。
父がいないと、潜水艦の仕事ができないので、どこでご奉公するのも同じだ、帰ってご奉公
してほしい、と言われたそうだ。なんでも兵役免除の手続きが遅れたために、入営するはめ
になったという。
江田島から広島へ小船で送られたが、皆んなうらやましそうにながめていたそうだ。
大体父を見送った人達は南洋へ送られて、ほとんど亡くなられたそうだ。
父にとっても運命の分岐点だったが、もし父が南方で戦死していれば、私の人生はまったく
別の人生だった。今の私はないことになる。
南方で亡くなられた人には申し訳ないが、その時点では私たちは幸運だということになる。
父は終戦間もなく、潜水艦を作らなくなったので仕事がなくなり、造船所を辞めた。
母方の曽祖父は、昭和18年に亡くなったが、戦争中に「今時竹やりで戦うようでは戦には
負ける」と言っていたそうだ。

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