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2007年1月31日

大学時代(11).尊敬する堀口君

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雲仙で熱を出した堀口昭雄君のお父さんが私を含めて同級生3人を招待するから来て
欲しいと招待の知らせがあり、例によってどこえでも行きたがり屋の私のこと、よろこん
でお受けした。堀口君の家はお寺さんで、お父さんは栃木県葛生町の収入役をしてお
られた。町の割烹旅館でご馳走になり、その旅館に3番泊めていただいた。
堀口君はアメシャのビュイックというどでかい車で、日光東照宮、戦場ヶ原、大谷観音
などを案内してくれた。
この堀口君は人の面倒をよくみる人で、人格高潔、かねてより私が尊敬している御仁で
ある。 3年生の時など、私がレポートを書きあぐねていると、大岡山の下宿まで来て
くれて、赤羽のS君に頼んできてやると言って帰り、赤羽から引き返し,引き受けてもら
ってきた、と報告に来てくれる。
60歳と数年の人生でこんなありがたい人に未だお会いしたことはない。
ああ!感謝!感謝!

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2007年1月30日

大学時代(10).セミナーで九州旅行

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全日本学生法学セミナーのため5人で九州へ行った。九州大学と福岡大学でセミナ
ーがあり、その後長崎、雲仙を回って帰った。
九州大学では、教室の真上を米軍の戦闘機が飛び、戦闘機が来るとしばらく爆音
以外の音はまったく聞こえなくなる。大変なところもあるものだと心配になった。
長崎ではグラバー亭や湾内の風景を楽しんだ。夜は「やたろう」というホテルで食事
した。なかなか夜景がきれいだった。
それから雲仙をまわった。一緒だったH君が雲仙で風邪で熱を出し、何もできなかっ
たが、私一人付き添いでH君の部屋で過ごした。
九州から帰りに岡山へ寄って横浜へ帰ることにした。岡山の駅で気がついてみたら
宇野までの電車賃が足らない。そこで恥を忍んで駅前の警察署へ行き、理由を話し
て電車賃を拝借した。勿論横浜への帰りに警察署へ寄って借金をお返しした。
今考えると恥ずかしくて冷や汗が出てくる。

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2007年1月29日

大学時代(9).セミナーの準備

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確か大学2年の時だったと思うが、九州の福岡で全日本学生法学セミナーというのが
あって、我が大学からも代表を送ることになった。しかし人数が5人と限られているのに
参加希望者は多い。大学から旅費が支給されるから、予算の関係で人数枠があった。
同じゼミの1年上級生のUさんが法学セミナーの勉強会に出てこないのに、法学セミナ
ーに行きたいと無理を言う。
そこで三田の喫茶店にUさんをひっぱて行き3時間くらい説得した。まさか上級生に、
お前勉強会に出てこないからセミナーに行く資格がない、と直接言えないものだから
時間がかかった。Uさんとうとう気づいて、九州へ行くのは止めると言ってくれた。
今は誠に失礼したと申し訳なく思っている。

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2007年1月28日

棺桶に入らなかった曽祖父

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母方の曽祖父:尾崎吉松は慶應3年10月13日、岡山県・下津井港の前の松島の
生まれで、若い頃は瀬戸内で魚の仲買をやっていた。船の生簀の鯛を見ただけで
これは何匁といってほとんどはずれなかった目利きだったそうだ。
この曽祖父、隣の櫃石島まで泳いで川のように流れる海を泳いで渡りデートの相手
の浜本トメ(曾祖母)のところへ通ったという。下」津井港の前の海は、島が多く、引
き潮の時はゴウゴウと音を立てて潮が流れる。私も高校生の時に貸しボートで浜を
出て、急流に流され危うく帰って来られないところだった。ボートのオールを折るくら
い私も若い時は腕力があってが、歯がたたなかった。
このご先祖様体が大きく、めっぽう腕っ節が強く、4~5人を相手に喧嘩をしても負け
たことがない。
なんでも死んだ時普通の棺おけにはいらなかったので、急きょ特注したときいている。
この曽祖父、私が生まれた翌年の昭和18年11月19日76歳でなくなった。

大学時代(8).安保騒動

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大学へ入学したのは昭和39年=1964年で安保騒動の年だった。
校内ではデモに行ってきた人が、戦利品だといって、鉄でできた警棒を持ってきて
デモの報告を度々していた。警察機動隊は鉄の警棒で警備しているといっていた。
私はノンポリだが生来野次馬根性旺盛で何でも見てみたい性質だ。
国会の近くに行ったこともないし、デモってなんだか知らないし、というので一度だけ
クラスの4人組でデモに行って国会の周りに座り込んだことがある。
ジグザグデモにも参加した。肩を組んだが最後デモからは抜けられない。
「 岸を倒せ! 岸を殺せ! 」の叫び声。いつの間にか自分も叫んでいた。
当時は安保条約が改悪されると思っていたからデモに参加したのだった。
デモに参加した晩日吉の下宿で夜ラジオを聴いていたら、デモ隊が国会構内に突入
した状況を実況中継で放送していた。
翌日の新聞には、昨夜デモ隊が国会構内に突入した際、樺美智子さんという女子大
生がなくなったという記事が出ていた。
それきり私はデモには参加しなかった。

2007年1月27日

大学時代(7).憲法9条を卒論テーマに

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私は、法学部法律学科で、ゼミは田口精一教授の憲法のゼミに入れていただいた。
憲法第9条の戦争放棄を卒論のテーマにして勉強した。
あの条文は、縦から読んでも、下から読んでも、右から読んでも、左から読んでも、
日本語の解釈としては、軍隊はもてない、交戦権はない、戦争はできない、という
現実離れした条文だ。それでも個人に正当防衛があるように、国家にも自国を守る
権利がある。権利というより、他国に攻められたら黙ってホールドアップはしない。
抵抗する。そこで憲法を越えて、法哲学も勉強した。法哲学というやつは、政治と
紙一重のような間柄で、政治は何でもありの世界だ。
私としては、結局法の世界では結論を出すことができなかった。
法解釈で改憲するのは邪道だがしかたなかったと思う。
今では1日も早く日本国憲法を改正して、世界並みに国防軍を持つべきだと考えて
いる。改憲反対の人と死にたくはない。

2007年1月26日

異教徒同士がお互いを尊重!

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先ほどNHKの世界遺産:イスタンブールという番組を見た。
職人が数人一緒に仕事をしていた。丁度イスラム教の断食月で、イスラム教徒は
日の出から日没まで食事をしたりお茶を口にできない。
イスラム教徒とキリスト教徒の2人の職人が並んで仕事をしている。
キリスト教徒の職人はお茶を飲んでいる。
そこを訪れた日本人アナウンサーが、イスラム教徒の人がお茶を飲まないのに、
飲みづらいのではないかとキリスト教徒の職人に質問すると、イスラム教徒の職人
が「信じる神が違っても、お互いに尊重しあっているから問題ない。隣でお茶を飲ん
でも気にならない。」と笑って答える。
その後日没を過ぎて、5~6人のキリスト教徒とイスラム教徒の職人が1つテーブル
で仲良く談笑しながら食事をしていた。
私はイスタンブールの名もない一人の職人の「 信じる神が違っても、お互いに尊重
しあってあるから問題ない。 」という言葉にすごく感動を覚えた。
国益の前に「 お互いに尊重しあう 」ことがどうしてできないのでしょうか?

大学時代(6).1歳違いの4人グループ

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大学のクラスは、4年間同じで学生数は約60人だった。
田舎から出てくると、人恋しくすぐに友達ができる。
意図してグループを作ったわけではないが、私を含む4人のグループができた。
面白いことに1歳ずつ違いで、3年浪人、2年浪人、1年浪人、現役とそろった。
私は浪人している余裕がなかったので、現役で一番年下だった。
同級生だったが、諸兄には沢山のことを教わりました。
後年50歳を超えてから、若いときに少し無駄をさせてもらいたかったと思うこともあった。
この3人には仲良くしていただいていまだにすごく感謝している。
最近は1年に1度会うかどうかというところだが、会うと20歳のときにすぐ戻る。
4人で日吉の下宿で日本酒1升をあけたこと、4人でマージャンしたこと、4人で丹沢へ
登ったこと、などなど楽しい思い出である。
残念ながら日立製作所へ行ったF君が10数年前に先立った。

2007年1月25日

大学時代(5).同宿の先輩Cさん

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日吉の下宿には、熊本から来たCさんという1年先輩がいた。
この人は応援指導部に所属していたが、ジャズが趣味でよく先輩の部屋でレコードを
聞かせてもらった。まだ記憶に残っている曲では、「墓に唾をかけろ」というのがある。
なつかしくなって聞こうと思い探したが未だに見つかっていない。
このCさん、近くのアパートに住むOO美の学生のところへ夜這いに時々お出かけに
なる。この先輩田舎っぺの私にセックスの話をおもしろおかしく語って聞かせる。
この先輩なかなかリアルに夜這いのレポートをして、自慢する。
当時「バンデベルデの結婚」という本が有名で、同宿の学生が古本屋から借りてきて
いたので、見せてもらって勉強した。
このCさんなかなかの世話焼き、かつ自信家で、「ガールハントしたことないだろう」
俺がやって見せてやるといって私を渋谷の道玄坂へ連れだした。
少し離れて見学していた。何回かトライしたが、成功せず。
間が悪くなったのか、小さなクラブへ連れて行ってくれた。私若い頃は酒に強く、その
時はビールの小瓶を1ダースご馳走になった。
帰りの東横線の電車の中で「少しは遠慮するもんだ」とたしなめられた。
Cさん、今もお元気でいらっしゃるのでしょうか?
感謝、感謝。

2007年1月24日

大学時代(4).日吉に下宿

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岡山を出るとき近所からいただいたお祝い金で、渋谷の東横百貨店で机と椅子を
買った。椅子はとうの昔にないが、机は今でも捨てられなくて、今長女の部屋にある。
日吉の下宿では他の学生は3畳間にいたが、私だけどういうわけか4畳半の部屋に
いて机を置くことができた。
私の部屋の窓のすぐ下は幼稚園の庭になっていて、窓近くに柿木があって手が届く
距離だった。柿の実が熟してきたある時、悪友がやってきて、窓から手を伸ばして
柿の実をとり、その食べかすを幼稚園の庭に投げ捨てたものだから、私はしばらく窓
を開けられなかった。中には夜になると私の部屋の窓から放尿するやつもいた。
窓の下は下宿の台所だった。下宿のおばさんは幸い気がついていないようだった。

2007年1月23日

大学時代(3).新野のおじさん、おばさん

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東京では、岡山の近所から出てこられて、写真家していた西落合の新野さんの家へ
よくお邪魔させていただいた。私の母と新野さんのおばさんが親しくしていたので。
新野さんの家には離れにスタジオがあり、そこに泊めていただいた。
たいてい食客でした。おばさんがかわいそうに思ったのか、時々新宿あたりのレスト
ランへも連れて行ってくださった。お陰で少しずつ都会になれてきた。
新野のおじさんはおだやかで、すごく人柄のいい人で、未だに尊敬している。
おじさんから碁も教わった。私の碁はけんか碁で、1年もするとおじさんに勝つように
なった。
新野のおじさんは土門拳さんなどと肩を並べる一流の写真家だったそうだ。
新野のおばさんの父さんが岡山の近所にいて、私が魚の配達に行くと、座敷へ上が
れと誘ってくれ、コーヒーを出してくれる。ただのコーヒーではない、コーヒーにウィス
キーを入れたウィスキー・コーヒーである。それもウィスキーをドボドボと沢山入れて
くれる。ウィスキー・コーヒーは大学時代に新野のおじいさんにご馳走になっただけで、
その後40年余飲んだことがない。
感謝、感謝。

2007年1月22日

大学時代(2).橋本龍伍さんに面会

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大学へ入学することが近所に知れると、米屋の若林というおじさんが、橋本龍吾さん
(橋本龍太郎さんのお父さん)に紹介状を書いてくれ、会ってこいという。
副保証人になっていただいた松崎さんのおばさんに同行してもらってお屋敷を訪ねた。
確か西麻布の大きな屋敷だったと記憶している。
若林のおじさんが「この学生は東京に親戚がいないので、保証人になってやってほしい」
と書いていたらしい。体よく断られた。奥さんはなかなか美人のだった。
この若林という人は徳島中学の出身で、三木武夫さんと同じクラスで、三木さんが玉野
へ来ると「三木、三木」と呼び捨てにするものだから、それを知らない後援会長が「先生に
何てことを言うんだ。失礼だ。」と諌めたら、三木さんが「気にしないでください。中学の
クラスメートですから。」ととりなしてくれたという。
また、若林夫人は剣豪小説とマージャンで有名な五味康祐さんの妹と聞いている。
後年社会へ出てから、赤坂の料亭のエレベーターで三木武夫さんと偶然出くわしたこと
がある。

2007年1月21日

大学時代(1).西田下宿の同窓生

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18歳の誕生日を2ヶ月あまり過ぎて、横浜市港北区日吉本町の西田さん宅に下宿した。
日吉には確か1年生~2年生と2年間いたと記憶している。
下宿では、栃木県佐野から来た正野君、岐阜から来た安藤君、甲斐君、福田君・・・と
一緒でよくマージャンをした。試験中もマージャンをしたことがある。
一度など前の晩マージャンをした隣部屋の相手が時間になってもどうも起きた気配がな
いので、部屋をノックしたらやはり寝ていた。時間を告げるとそいつは顔も洗わず走って
大学へ行った。なんとか試験には間に合ったそうだ。
若者は親元を離れると良からぬことをすることもある。興味半分でタバコ(ピース)を買っ
てきて喫煙が始まった。後年42歳の誕生日からプッツリタバコを止めたので、24年間
専売公社に奉仕したことになる。タバコを止めてから約23年になるが一度もタバコを吸
いたいと思ったことはない。ほとんど手にしたこともない。

2007年1月20日

受験生の時代(3).大学受験

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高校2年はあっというまに過ぎてしまった。
いよいよ本番の大学受験だ。
結果として、3大学の試験を受けて3つとも合格した。
自分で合格できるところしか受験しなかったからだ。
最初同志社大学、次に慶應義塾大学、最後に国立岡山大学をを受験した。
どこも法学部で試験を受けた。
どこが難しかったかといえば、やはり7科目の試験があった岡山大学が一番だった。
親の財力を考えると、自分の家から通える岡山大学へ行くのが最良の選択肢だった。
しかし、親元からとび出すことしか考えていなかった。
親の財力を考えず、慶応義塾大学へ行かしてもらうことになり、親にも兄弟にも
えらい迷惑をかけたと未だに申し訳なく思っている。

2007年1月19日

受験生の時代(2).受験の他流試合

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高校2年生の時、大阪の予備校の夏期講習に1ヶ月行かしてもらうことになった。
大阪外語大学へ行った高校の先輩のアパートを借りた。
アパートは、近鉄の久宝寺にあり、上本町六丁目(通称:上六)の予備校に電車通学。
予備校は、寺町の真ん中にあり、途中ラブホテル街を通らないと行けないが、えらい
ケバケバしいホテルが都会にはあるのかと珍しかった。
私は何事によらず一番前の席に座ることにしているので(今でも同じ)、少し早めに行
けばカブリツキに座れると思い早めに教室へ行ったが、何時も最前列はヒゲをはやし
た浪人グループが占拠していた。
親から浪人するぐらいなら、魚屋を継げと言い渡されており、浪人をする余裕はなかった。
魚屋をするのが嫌で大学へ行こうと考えたので、どうしても浪人するわけにはゆかない。
何としても大学へ現役合格しなければならなかった。
でも、どこかの大学に入れるだろうと思っていた。不安はほとんどなかった。

2007年1月18日

受験生の時代(1).田舎の受験生

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中学、高校と受験生活をすごしたが、この時代は学校から帰ると仮眠して、明け方まで
勉強して寝てから学校へ行った。
しかし、勉強ばかりしていたわけではない。中学では学級委員をやったし、高校時代に
は文化委員長をやったり、伯耆大山に登ったこともある。尾根を縦走したこと、元谷で
キャンプファイアをしたこと、カレーライスの旨かったことなど、懐かしい思い出だ。
明け方になると、カッコーが山の上で鳴いたり、瀬戸内の漁船のエンジンの音が山に
コダマしてポンポンと聞こえてくる。
その内アサリ売りが「アサーリガイへ、アサーリガイ!」と呼び声をかけながら売りに来る。
時々時分で味噌汁を作る。アサリの場合は砂を吐かしてから、水を入れた鍋にアサリを
入れ、沸騰してくると味噌漉しで味噌をといてしばらくすると出来上がり。
豆腐屋も売りに来る。豆腐でも似たようなもの。
しかし、思い出しても絹豆腐があった記憶がない。私の記憶違いかもしれない。
私は豆腐が好きだが、豆腐は木綿豆腐に限ると思っている。

2007年1月17日

母の偉大さ(5).物を集める特殊才能

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母の小学生の時に岡山の町が洪水にあって、上流から牛が流れて来たという。
その洪水のため、曽祖父の尾崎吉松が持っていた鎧は流されてなくなってしまった。
母も修学旅行に行けなかったと残念そうに後々まで語っていた。
母はすごく行動力のある人で、かつ物を集める特殊な才能があった。
石油ショックの頃、家内が、皆が買い捲るからトイレット・ペーパーなど物がなくなる。
他人の真似をしないほうがいい、などと言っているうちに見る見る物がなくなって、
買いたくても買えなくなった。
そこで母に電話して何か方法はないかと相談というかお願いをしたら、任せなさい、
という。それから2~3日したら、大きなダンボールにいっぱいトイレット・ペーパー、
ティッシュ・ペーパー、石鹸、マッチなどなどを送ってくれ、大いに助かった。
母は親分肌で、人の面倒を日頃からよくみていたので、時分が困った時に人がお
返しを喜んでしてくれる。私にはまったくマネができない。
その気丈な母も昭和51年6月14日、玉野市民病院で胃がんのため53歳で死去
した。男兄弟5人全員が母の手を握って見送ったのがせめてもの慰めであった。
私は3日間食べ物が喉を通らなかった。
母の葬式には、田舎町としては800人と多数の人が来てくれた。普通男の人が
なくなってもせいぜい100人か200人の会葬なのに、女で800人だ。
母は死んでまで「人を助けよ。」と教えているような気がした。
我が男5人兄弟全員の自慢の母である。

2007年1月16日

母の偉大さ(4).親戚付き合いの西谷さん

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私が大学に入学すると、母は金もないのに、和服・おおしまを作ってくれた。
もしも病気して入院するようなことがあっても恥をかかないようにという親心からだった。
岡山の近所に西谷さんという家があってそこの叔母さんが呉服の仕立てではピカイチの腕前
と言われておりそのオバサン(我々は「西谷のバーバン」と呼んでいた。)に仕立ててもらった
とのこと。
この西谷のオバサンが、母と同じくらいバラ寿司の名人で旨い寿司を作った。
私の末弟・信定は、父が42歳の子で、厄年の子は育たないといわれており、予めお願いし
ておいて、家の前の橋のたもとに捨てて、西谷さんに拾ってもらった。
信定は、確か1ヶ月くらい西谷さんにお世話になったと思うが、小学生の頃まで信定の家は
有馬だか西谷だかわからない状態だった。
お世話になりました。ありがとうございます。
この西谷さんとは我が家の跡取りが未だに親戚付合いをしていただいている。

2007年1月15日

母の偉大さ(3).天下一品のバラ寿司

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母の作った巻寿司とバラ寿司は抜群に旨かった。
子供のころは寿司が嫌でよく文句をいったが、大きくなるにつれて美味しさがわかるよう
になった。特にバラ寿司はすばらしかった。サワラで酢をとり、サワラ、焼きアナゴに柴エビ、
錦糸卵と豪勢なもので、瀬戸内の宝でできていた。
親と言うのはありがたいもので、私が大学生のときなど、夏休み、冬休みで帰省すると、
ちゃんと私の好きなビングシ(魚)を煮て待ってくれている。
夏には、トマトを氷の冷蔵庫で冷やしてくれている。
冷えたビールも、今のビールと違って苦味の利いたなんともいえないものだった。
いまの私にはお返しする母がとっくになくなっているので、娘2人にお返しするしかない。
娘には恩返しが押し売りになっているかもしれない。家内に甘いと言われている。

2007年1月14日

母の偉大さ(2).母の教え

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母は小さいときから日本舞踊や三味線をしこまれた。
私が高校生、大学生のころはよく踊りに行っていた。
息子が言うのもなんだが、母は若いときは絶世とまでは言わないが、すごい美人だった。
私は母が19歳の時の子供で、私が16~17才のころなど二人で歩いていると、兄弟に
間違えられた。

母の私に対する教育は、高等なことは何もないが、人間として大切なことを教えてくれた
と今になって感謝している。
1.他人のふり見て我がふりなおせ。
2.稔るほど頭をたれる稲穂かな。
3.他人に好かれる人になりなさい。
などだが、これらにもまして強烈な印象を受けたことがある。

それは、筋の通らないこと、人の道にはずれたことをするな、ということだった。
こちらが筋の通らないことをすると、1ヶ月でも口をきいてくれない。
一度など1ヶ月以上も母が話し相手にしてくれず、小遣いがもらえず大変窮したことがある。
厳しい反面、すごく涙もろく、困った人がいると自分の貧乏をかえりみず面倒をみるやさしい
人だった。母は女の子が欲しくて5人も子供を生んだが、生まれるたびに男で、男ばかりの
5人兄弟になってしまった。母はさぞかしさびしかったことであろう。
そのせいか我々兄弟の嫁さん達は、世間の嫁と姑ではなく、姑が読めに尽くした。

母は私には、勉強するなと言ったことはあるが、勉強しろとは一度も言われたことがなかった。
勉強よりも人間何が大切かを教えてくれたと改めて感謝する今日この頃である。

2007年1月13日

母の偉大さ(1).出身

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母(尾崎トミコ)は大正11年8月20日香川県仲多度郡滝川村で生まれた。
下に吉治という弟が1人いたが、4歳の時に岡山の西川に肉屋の子に突き落とされて
水死、一人娘になってしまった。
母の父(私の祖父)は、病で岡山大学の医学部の病院に入院したが、快方せず若くし
てなくなった。そのため祖母・小川ハマノは、離縁となり四国・丸亀の実家に戻された。
そのため母・トミコは母の祖父・尾崎吉松と祖母・尾崎トメに育てられた。
孫のトミコは家の一人娘だから置いてゆけということになった。祖母はしばらくして、兵
庫県の高砂というところで、お針子さんを4~5人かかえて針仕事をしていたらしいが、
娘のことが忘れられず、忍んで岡山の家の近くまでやってきては、トミコの友達に小遣
いを渡してトミコを連れて来させ会っていたそうだ。
ある時祖母・ハマノが曽祖父に無断で母を連れて高砂まで逃げた。曽祖父が必死に
捜索母を岡山へ連れ戻したと言う。曽祖父の気持ちもわかるが、祖母・ハマノが不憫
でならない。
私は、年に1回5月に車で岡山へ帰ったときに、祖母・小川ハマノの墓参りをすることに
している。

2007年1月12日

父の偉大さ(6).父の実家

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父の実家は、田んぼの真ん中にあって、前が田んぼでその向こうにお茶の木や、スモモ
の木が植えてあり、その向こうに山がある。
山を20~30メートル登ったところに小さな溜め池があった。小さな溜め池だのに1間くら
い下の底にはカラス貝いて、父はカラス貝を何個もとってくれた。
池から更に40~50メートル行ったところに竹やぶがあって、春になると竹の子がボンボン
はえてくる。今から20年位前に車で行って、父の弟とその嫁さんと3人で竹の子を掘り、
ブルーバードのトランクに竹の子をいっぱい積んで相模原まで持って帰ったことがある。
しかし、その後道路を作るので、山が接収され、池も竹薮もなくなってしまった。
父の実家の裏には、小さな小川が流れており、私が小学生のころにはアカマツという赤い
魚が泳いでいて釣ったが、農薬のせいか魚は姿を消してしまった。
父の実家の家と山、田地田畑は、父に相続権があったが、父は相続を放棄して腹違いの
弟に与えた。
父はよく「年をとったら実家の近くの山に家を建てて隠居する。」と言っていたが、希望を
果たさず72歳で生涯を終えた。昭和58年1月16日のことであった。

2007年1月11日

父の偉大さ(5).有馬家のルーツ

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父が子供のころ、四国山脈の山中に分け入ったところ、山の上から大きな大蛇が
父と友をめがけてザーという音とともにすべり下りてきた。父も友も斜め上に走って
逃げ、難を逃れた。生きた心地がしなかったという。
父は足が速く、運動会で帳面や鉛筆を賞品に度々もらったそうだから、助かったの
かもしれない。

ついでに我が家のルーツについて話を聞いた。
我がご先祖様は、明治10年の西南の役に敗れて、四国の山奥へ逃げ込んだとの
こと。父は、四国山中で、有馬AAの守、有馬BBの守、有馬△△の守という石の
墓標をを沢山見たと言っていた。残念ながら、私は未だ見ていない。

父の曽祖父の代には、大きな屋敷に住み、曽祖父は馬に乗って家来を従えて出か
けたというから、父の母方は武士だったようだ。どこでどうして貧農になったのかは
定かではない。

2007年1月10日

父の偉大さ(4).高松稲荷と金比羅山

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戦後間もなくのころ父に備中高松稲荷(最上位稲荷)へ連れて行ってもらったことがある。
汽車に乗っていくのだが、それが客車でなく貨車に乗っていった。何故だかわからない。
食料がない頃なのに何故か高級品のマスカットを食べさせてもらった。確か2~3粒だった
と思うが、多分ヤミの品物でいくら取られたかしれない。
また、四国の琴平(こんぴら)さんにも何回か連れて行ってもらった。宇野港から高松まで
宇高連絡船で1時間、高松から琴平まで1時間だったと記憶している。高松で汽車に乗り
換えるときに、父はアイスクリームを買ってくれる。普段アイスクリームなどという高級品は
食べてないのでそれは楽しみだった。
しかし、あの金比羅さんの石段にはへいこうした。

2007年1月 9日

父の偉大さ(3).瀬戸内海は川?

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父はしばらく休養したが、母と一緒に魚屋を始めた。
母の家は代々漁師で、母の祖父は瀬戸内で魚の仲買をしていた。
生簀の中の鯛を手でより分けて手で触り見ただけで、何百何十匁と目方を言うと、ほとんど
違わなかったそうだ。
瀬戸内海の松島という島で商売をしていたそうだが、瀬戸内海でも下津井、玉野あたりの
海は潮の流れが急なところで、潮に逆らうといくら櫓で漕いでも進まないで押し戻される。
宇野港の前に喜平島という島があり、親戚の漁師の家の前が海で、引き潮の時にはごうごう
と音をたてて川のように潮が引くのを見たことがある。
私自身高校生の時に下津井の海水浴場でボートを漕いでいて、すごいスピードで流されて
怖い目にあったことがある。
しかし、潮に乗ると櫓を漕がなくても潮が勝手に船を運んでくれる。ただし、方向は別だ。

2007年1月 8日

父の偉大さ(2).潜水艦と兵役免除

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父は三井造船で、潜水艦,人間魚雷の配管(パイピング)を担当、部下が60人いた。
当時三井造船は軍管理の工場で、一度工場へ入ると1ヶ月くらい外へ出られないことが
よくあった、と言っていた。
たまにドイツの潜水艦が保守にやってくるが入り口に警備兵が立ち、中へは入れなかった。
なんでもドイツの潜水艦は南方から錫を積んできたという。
8月15日の終戦の詔勅があっても、軍からはまだ人間魚雷:回天?を作れといってきて、
2~3日は作り続けた。出来上がったら今度は捨てろというので捨てに行った。
小学生の頃父と宇高連絡船の乗ると、このあたりは水深が深くここへ捨てた、と言っていた。

戦争中に父に赤紙が来て(召集)、広島の江田島へ入営した。
私は母に連れられて広島まで父を送りに行って、泊まった旅館で寝小便をして母を困らせた。
しかし、父は3日軍隊にいただけで除隊、造船所へ送り返された。
父がいないと、潜水艦の仕事ができないので、どこでご奉公するのも同じだ、帰ってご奉公
してほしい、と言われたそうだ。なんでも兵役免除の手続きが遅れたために、入営するはめ
になったという。
江田島から広島へ小船で送られたが、皆んなうらやましそうにながめていたそうだ。
大体父を見送った人達は南洋へ送られて、ほとんど亡くなられたそうだ。
父にとっても運命の分岐点だったが、もし父が南方で戦死していれば、私の人生はまったく
別の人生だった。今の私はないことになる。
南方で亡くなられた人には申し訳ないが、その時点では私たちは幸運だということになる。
父は終戦間もなく、潜水艦を作らなくなったので仕事がなくなり、造船所を辞めた。
母方の曽祖父は、昭和18年に亡くなったが、戦争中に「今時竹やりで戦うようでは戦には
負ける」と言っていたそうだ。

2007年1月 7日

父の偉大さ(1).香川県の出身

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私の父は、香川県大川郡の農家の出身で、明治44年4月1日生まれ。
父の母(私の祖母)は、父が4歳のときになくなったそうで、後妻に祖母の妹が入り
4人の妹と1人の弟が生まれた。
父は、勉強ができたそうだが、家が貧しく高等小学校までしか行けなかった。
村の金持ちが金を出すから中学へ行かせたらと言ってくれたが、祖父が頑固者で
貧乏人は学校など行くことはない、といって14歳で高松の呉服屋へデッチに出された。
奉公先へ行ってみると、祖父が前借して、父が働いて返済した。
祖父はなんと6歳で奉公に出され、自分と同い年の子の子守をしたと言う。
今考えると、私なんか、父や祖父と比べると天国だ。大学まで行かしてもらった。
父は奉公の年季が明けて、家へ帰り、溜池のドブさらえの仕事に40日働きに行ったら、
給料を全て弁当代だといって取り上げられてしまった、という。
それで家を出て京都へ絵描きの弟子に入った。私が子供のころ父に絵を描くようねだっ
たらすばらしいボタンの絵を描いてくれた。それがたった一度だった。
父はその後大阪のレストランの料理人を経て、香川県直島の精錬所の職人になり、
そこで母と知り合い結婚したそうだ。
私の前に3人の子供を亡くしていたので、私が2歳で急性肺炎に罹ったときは、何とし
ても死なせたくないので、徹夜で看病してくれたそうだ。
生んでもらって、命を救ってもらった大恩人で、感謝しても感謝しきれない。
父はその後、三井造船・玉野に移った。

2007年1月 6日

子供時代(8).戦争の記憶

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私は昭和17年2月生まれなので、戦争末期の昭和20年でも3歳だが、恐怖と
いうのは記憶に残るもののようだ。

1.月明かりの中を、父が布団を背負い、その布団の上に私が乗って、家の前の
  山に掘った防空壕へ逃げた。
  家の裏庭にに簡易の防空壕を掘ってあり、そこへ避難したこともある。
  すぐ近くに三井造船・玉野造船所があったので、よく艦載機がやってきた。
  あるときなど工員住宅に爆弾が落とされて人がなくなり、消防車が難題も
  家の前を通って行った。

2.近所で遊んでいたら、空襲警報のサイレンが鳴って、隣の家の子と一緒に隣
  りの家に飛び込んで、床の間で布団をかぶって震えていた。
  後年は母は米軍の艦載機のパイロットの顔が見えたと言っていた。

3.母が自転車で農家へ行き、荷台のバッカン籠(竹で編んだカゴ)にいっぱい
  枇杷買ってきた。
  その自転車の荷台のバッカン籠から枇杷を取って食べながら、お寺のある
  山の向こうの空が真っ赤なのを見ていた。
  真っ赤な空は、米軍の空襲で岡山市内が焼けていたためだそうだ。
  戦後近所の家を買って今の実家へ移り住んだが、その家の持ち主だった人
  が岡山へ引っ越すというので、家財道具をトラックに積んで運んだ。
  何故か私は父と一緒にそのトラックに乗って岡山市内へ行ったが、市内は
  一面焼け野が原で、黒っぽいこげ茶色に焼けて建物は何もなかった。

2007年1月 5日

子供時代(7).クズ鉄

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朝鮮戦争(1950.06.25~1953.07.27)の頃(私の小学校3年生~6年生)
には、クズ鉄が値上がりしていい小遣い稼ぎになった。
家にある古い機械で使わなくなったものや、近くにある産業廃棄物の捨て場に鉄が
混じっていてよく子供同士で鉄クズを拾いに行ったものだ。
産業廃棄物には、鉄だけではなく、銅(アカと呼んでいた)も時々入っていた。
値段は鉄よりアカの方がかなり高かったので、競ってアカを探した。
クズ鉄をクズ鉄屋へ売りにいって得たお金を持って駄菓子屋へ行き駄菓子を買うの
が楽しみだった。
駄菓子屋では、ラムネ菓子、チューインガム、キャラメルなどを売っていた。
キャラメルとしては、日の丸キャラメルやカバヤキャラメルを売っており、点数がたま
ると景品と取り替えてくれ、名前のゴム印などもらった記憶がある。

2007年1月 4日

子供時代(6).お年玉

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子供の頃は正月になるとよくお年玉をいただいたものです。
昭和20年代から30年代にかけて、100円とか200円とか、多いときは500円
いただきました。使うことがあまりないので、たいてい郵便局に貯金しました。
高校生の頃には、アルバイトしたりしたものも入れると、確か20万円くらい貯まっ
ていました。
家の一部が借地でしたが、その土地を買うことになった時、お金が足りなくて、
総額40万円の半分を私の貯金をあてました。
お年玉で買ったもので記憶に残っているのは、写真や絵が沢山載っている歴史
の本を買ったことです。

今やお年玉をもらうのではなく、あげる年になって久しいが、2人の娘が未婚で
未だお年玉をあげる孫もいない。
食べて、飲むだけで、正月の実感が湧かないなんともわびしい正月を迎えている。

2007年1月 3日

K-1を見て

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12月31日大晦日の夜は、K-1を見ました。
秋山 対 桜庭 の試合は良かった。
秋山選手のの強さ、それに謙虚さ、まさに王者だと思います。
すばらしい。気に入った。
精進してもっともっと強い選手をなぎ倒していただきたい。
どこかのボクシングのチャンピオンも見習ってほしい。
一言申し上げておきたいが、曙をなぜ出すのですか、曙の試合を
何回か見ましたが、気の毒です。
相撲では通用したかもしれないが、K-1ではまったくダメですね。
商品価値なしです。観客として見ていて、面白くない。
全然勝負になっていない。

2007年1月 2日

子供時代(9).岡山・玉野の正月料理

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私の育った岡山の家では、煮しめ、雑煮、ブリの刺身、塩ブリの焼き物が出た。
今から50数年前には勿論養殖のブリなどなく、全て天然だった。
日本海でとれた大きな丸々と太った脂ののったブリが正月前には沢山来た。
沢山のブリを見ていると何か豊かな気持ちになったものだ。
その頃は岡山の玉野では、マグロを食べる人はあまり多くはなかった。
正月の刺身と言えばほとんどブリだった。
ブリ以外では、朝鮮海峡でとれた丸まると太ったサバがよく来た。
サバは3枚におろして、片身を昆布でサンドイッチ状にはさみ、氷砂糖をいれて
酢でしめて酒の肴にした。これがまた子供が食べても格別おいしかった。
母から岡山では雑煮に塩ブリを入れると聞いていたが、何故か我が家では塩
ブリは入れなかった。
我が家の雑煮は、カツブシでだしをとり、アナゴの焼いたものと、ほうれん草を
入れたものが出た。勿論お餅が入っている。
この雑煮は私のお気に入りで、私は結婚してからも岡山からアナゴを送っても
らい未だにこの雑煮を食べている。今年もおいしくいただきました。
そう、餅といえば思い出します。
私が中学生、高校生の頃は私と母の2人で毎年餅をついた。
家には、石臼と杵とハンボーがあり、私がつき、母が杵とりをして、最高2人で
12臼ついた記憶がある。
餅をつくだけでも大変だが、餅の原料であるもち米を洗って水に漬けておかな
ければならない。そして臼が冷えないように、ついている間ももち米を蒸してい
ます。段取りも大事。

2007年1月 1日

新年おめでとうございます!

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新年おめでとうございます!
今年も皆様にとって良き年でありますようお祈り申し上げます。

私は、例年のごとく
午前0時が過ぎると、近くの氏神様である氷川神社へ出かけ、昇殿して家族4人
お祓いをしていただきます。今年は少々待って、01時10分から01時30分にお
払いをしていただきました。
待っている間、無料サービスの酒かすを沸かしたのをいただき、焚き火にあたって
暖まります。
今年は、長女の後厄、次女の前厄のお祓いと、有馬家の家内安全、(有)ケー・
アンド・ケーの商売繁盛の祈祷をしていただきました。
4~5年前までは、お祓い、祈祷は1件たしか¥3,000.でしたが、¥5,000.
に値上がりしています。
こういうのは習慣ですから、値上がりしたからといって止めるわけにはいきません。
お祓い、祈祷の後、神社の境内におまつりしてあるお稲荷様と水子地蔵さまにお
参りして終わりです。

自宅へ帰って暫く寝て、10時ころから、自宅の神様棚に自分で祝詞をあげ、仏壇
でご先祖様にお経をあげて元旦の行事は終わりました。
これでやっと新しい年が来たなという感じになります。

世界が平和になるよう祈念するとともに、自分が人の役に立つこと行なうことを再
確認しました。